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晃輔と陽翔は河岸を変えることにした。店で三時間粘ってもまだ話足りない。
ならば続きは陽翔の自宅で──という事になった。
晃輔の自宅でもよかったが、陽翔が自宅へ晃輔を呼びたがった。
一匹にしている猫も心配だという。
──心配ねぇ…。
寧ろあちらがこちらを心配しているだろうと晃輔は思ったが、そこは言わないでおく。コタローの顔を見ておくのもよいだろうと晃輔も考えた。
店の会計を済ませるとゆっくりと暖簾をくぐって外に出る。日中の暑さの名残を、夜の闇がひんやりと薄めていく。四月の夜風は店内の熱気に当てられた頬に心地よい。
駅前のタクシー乗り場まで並んで歩く。二人の歩幅は広い。駅前まではすぐの道のりのはずだった。
異様な気配を感じて晃輔はピタリと足を止めた。つられて陽翔も足を止める。
気がつけば辺りに人通りは無く、周囲の闇が一段と濃くなったような気がした。
「なんだい?忘れ物かい?」
それには答えず晃輔は真っ直ぐに前を見た。つられて陽翔も前を見る。
ソレに気がついた瞬間、陽翔は全身の血が凍りついた。
「あ…ああ…」
陽翔の口から声にならない声が漏れる。
二人の前には真っ黒な猫が一匹、闇に紛れるように佇んでいた。
体の大きさは闇に紛れて分からない。ただ蛍光グリーンのような両目がこちらをじっと見つめていた。
「…さっき店で話していた猫というのはアレのことかい?」
ともすれば周囲の闇に紛れてしまいそうになる猫を、見失うまいと目線は切らずに晃輔は陽翔に聞いた。
「…多、分そうだ…いや、きっとあの猫だ…な、んでここに…?」
陽翔の口調には戸惑いと恐怖が入混じっていた。
「なるほど」
思わず安堵のため息が漏れそうになる。なかなか現れなかった敵が眼の前に現れたのだ。
笑っていられる状況ではないが、口角が上がりそうになるのを晃輔はぐっと堪えた。
陽翔はと言えば、恐怖で足の裏が縫い付けられたかのように動かない。
晃輔は陽翔を庇うように半歩前へ出た。
その時、猫は何かに気がついたようにニヤリと笑った。
「よう、やっときたか。待っていたぜ。兄弟」
気がつけば猫は、全身真っ黒な衣服に身を包んだ、黒髪の若い男の姿になっていた。
暗闇の中でもその全身黒ずくめの男は、異質な存在感を放っていた。
首まで包むように伸びた艷やかな漆黒の髪、白い肌、ライトグリーンの瞳。
顔の造形は整っているが、その顔に浮かんだ残忍さは見ているものに恐怖を駆り立てた。
「え、なんで人…?」
陽翔が何が起きているか分からないというようにぽつりと呟いた。
さっきまで猫だったものをじっと見つめる。いや、目を背けたくても背くことができない。
蛇に睨まれた蛙というのはこういうことかと頭のどこかで変に冷静に陽翔は考えていた。
「待っていたのはこちらも同じです」
どこから少年の声がした。
闇を切り裂くように少年が飛び出して来ると、二人を、どちらかというと陽翔の身を庇うようにその身を滑り込ませた。
「あなたに主はやらせません!」
両手を大きく広げて男の前に立ちふさがる。
「え?コタローさん?」
「え?コタロー?」
驚いて思わず晃輔は名前を呼んだ。それを聞いて陽翔は少年を覗き込んだ。
アッシュ系の短い髪に白い肌、整った顔立ちはまだ幼さを残しており、グリーンゴールドの瞳は暗闇の中でも爛々と輝いている。いつぞやと同じパーカーに黒のデニムを履いた細い足は恐怖に震えていた。
「ハハッ!威勢よく出てきた割に震えているじゃねぇか!」
男は身をのけぞらせて大きく笑った。まるで闇がそのまま動くかのようなその姿に晃輔の肌が泡立った。
「さみしいじゃねぇの!折角同族に会えたっていうのにそんなに怯えんなよ!」
楽しそうな口調とは裏腹にライトグリーンの瞳は全く笑っていない。黒ずくめの男は憎しみをその目に浮かべて見下すようにコタローを見つめていた。
「あ、あなたは何故我が主を狙うのですか!」
コタローは男の言うことには答えず震える足に力を込めてそう言った。
「ハハッ!決まってるじゃねぇか!」
男はまた大きく笑うとライトグリーンに縁取られた真っ黒な瞳孔を細めてニヤリと笑った。
「俺と同じバケモノのくせに、人間に飼われてのうのうと暮らしているオマエの目の前で、オマエの飼い主を食い殺してやるためだよ」
「え」
コタローは息をのんだ。眼の前の男の目的は正しくは陽翔ではなくコタローだったのだ。
──私のせいで主は狙われたというのか。
自分のせいで主を危険にさらしてしまったと気を取られた一瞬の隙をついて、黒ずくめの男は地面を蹴って一気に距離を縮めてコタローの前に飛び込んだ。
「オマエは後だよ!」
「に゛ゃっ!」
黒ずくめの男はコタローの腹に膝蹴りを入れると、そのまま左手の甲でコタローの頬を殴り飛ばした。
吹き飛ばされたコタローは転がって近くの電柱にぶち当たる。ガキッと固い何かが当たる音がしてコタローはその場で地面にずるずると滑り落ちた。
「コタローさん!」
晃輔は叫んだ。
「人間、オマエもよく見たら妖力が高そうだ。アイツの飼い主の後ゆっくり喰らってやるから待ってろ」
生臭い息がかかる。黒ずくめの男はニヤリと笑うと獲物を狩る目で晃輔を見た。
「どうして君は陽翔を襲おうと思ったんだい?昨今猫にとって人間はそれほど悪い存在でもないと思うのだけれど」
晃輔は努めて冷静に黒ずくめの男に話しかけた。こめかみに汗が流れる。夜風にさらされてぞわりと寒気がした。
「俺にとって人間は害するものでしかねぇ!」
男は吐き捨てるように叫んだ。
「人間のせいで俺の兄弟は一匹残してみんな死んだ!その一匹だってどうなったかわかりやしねぇ!仲間たちもみんな掴まった!俺だけがやっとの思いであの薄暗い部屋から逃げ出したんだ!…それなのに、人間はいつだって俺を捕まえようとする!食事をくれて優しいふりをして俺を捕まえようとしやがって!あんなところ戻ってやるものかよぉ!」
「それは…」
「うるせーよ人間!」
晃輔がそれ以上何か言おうとするのをやめさせようと、黒ずくめの男は右腕を大きく振って晃輔を殴ろうとする。間一髪体を大きく仰け反らせて晃輔は何とか避けた。勢い余って後ろにたたらを踏む。
「こ、晃輔大丈夫か!」
陽翔が体が動くことを思いだしたように晃輔に駆け寄ってくる。
「ああ、大丈夫当たってない」
晃輔は小さく陽翔に笑顔を見せた。
「けっ、人の心配している場合か」
男は唾を履いて、陽翔を睨む。
「まず最初に喰らうのはオマエだ」
黒ずくめの男は陽翔に向き直った。
「オマエのかわいい飼い猫の前でオマエを喰らってやる。何も出来ずに飼い主が殺されるところをみゃーみゃー鳴いてみているがいい」
男は肩越しにコタローを見やるとニヤリと笑った。
「させ、ないっ…!」
コタローは地面にぶるぶる震える手をついて、気を抜けば力が抜けそうになりながら体を起こすと、足に無理やり力を込めて立ち上がった。そしてそのまま黒ずくめの男に飛びかかる。
「うるせーよ」
男は左手で簡単にコタローをいなす。その瞬間コタローの体から液体が飛び散った。
「あ…」
男の左手はいつのまにか爪が鉤爪のように伸びていて、コタローの肩から脇の辺りまでザックリと切り裂いた。
「コタローさん!!」
晃輔が鋭く叫ぶ。
コタローはよろけて力なく陽翔の上にもたれかかった。それと同時に術が解け、猫の姿に戻る。
「コタロー?!本当にコタローなのか?!」
何とか抱きとめた陽翔は、腕の中で猫の姿に戻ったコタローを驚きながら見つめる。
「コタロー!しっかりしろ!なんでお前がこんなところにいるんだコタロー!」
陽翔は腕の中で力無くぐったりとしたコタローをゆすり起こしながら話しかける。しかし、コタローは身動ぎもできず息をするのもやっとのようだった。
「全く!考えなしに飛び出して!」
どこからか少し怒ったような甲高い声がした。
「でもその御蔭で主と陽翔様は無傷なのですわ!そこは褒めて差し上げますわ!」
屋根伝いを走ってきたのか、空中から白い巨大な綿毛のような物体がふわりと降りてきたかと思うと、陽翔に抱きかかえられているコタローのところへぴょこんと降り立った。
白い小さな狐である。
「狐?」
陽翔はコタローを抱きかかえている腕にちょこんと降り立った狐を見て驚く。
敵か味方か分からない状況で焦って振り払おうとしたが、狐は慌てること無く落ち着いて話始めた。
「陽翔様、落ち着きなさってくださいましですわ。コタローの傷を癒すお手伝いをします。そのままコタローを抱っこしていてくださいましですわ」
「しゃべった!」
猫もしゃべれば狐も話す。コタローは人の姿になり、猫だと思っていたのは人だった?何がなんだかわからない。陽翔にとっては何もかもが受け入れがたい状況であった。
しかし、混乱している陽翔を他所に狐──ミニ朔はコタローの頭にちょこんと前足を当てた。 ほわりと微かな光とともに、何かがコタローの中へ流れ込んでいく。コタローを癒すと言われて、陽翔は黙ってそれを見ていた。
「ミニ朔、コタローさんの状態は?」
晃輔は黒ずくめの男から陽翔達を庇うように前に立ちながら、目だけをそちらに向けてミニ朔にコタローの様態を尋ねた。
「猫又であることを感謝することですわ。傷はひどいですが、何とかなりそうですわ」
ミニ朔はコタローの治療の手を止めること無くそう答えた。
「そうか」
晃輔はミニ朔の言葉にほっとする。
「おいおい、俺をシカトして話ししてんじゃねぇよ…」
黒ずくめの男は自分をそっちのけで、事が進んでいくことをよしとしなかった。
苛立ちを隠さずにミニ朔を睨めつける。
「狐ぇ…そいつらは俺の獲物だ、横取りは許さねぇ」
ミニ朔は陽翔の腕の中でコタローの治療を続けながら、男を見た。
「…力の差も分からない可哀想な仔ですわ。」
哀れ、とばかりにため息をつく。それから治療は終わったとばかりにぽんとコタローの頭をなでると、光はゆっくりと消えていった。
「これで大丈夫ですわ。後は動物のお医者様に診てもらってくださいましですわ!」
ミニ朔は陽翔にそう言うと、陽翔の腕からふわりと地面に降りた。そしてトコトコと、晃輔の前に出ると、黒ずくめの男と対峙した。
「可哀想な猫又よ。お前の相手は私がして差し上げますですわ!」
そう言うと晃輔と陽翔に向かって
「晃輔坊ちゃま、結界を張ります。陽翔様、早くコタローを病院へ連れて行くのがよろしいですわ!」
と言った。
「!そうだ陽翔。動けるか?動けるな?早くコタローさんを動物病院へ連れて行け!」
それに同調するように晃輔も目だけで陽翔を見ながら促した。
「だがアレは…!」
陽翔は黒ずくめの男を見つめ、動くのに躊躇した。
「アレは俺に任せて。コタローさんを早く診てもらえ」
晃輔は陽翔の背中を押しながらもう一度強く陽翔を促す。
「お前、アレが何だか分かっているのか?コタローのことも最初から知っていたようだし…!」
「話しは全部後だ。とにかく早くコタローさんを病院へ…!」
陽翔は少しの間睨むように男を見つめると、考えるように一瞬躊躇した後、コタローを大事そうに抱え直し、男のいる反対方向へ向かって走り出した。
「後で全部説明してもらうからな!」
「行かせっかよ!」
黒ずくめの男が陽翔の後を追う。それを邪魔するようにミニ朔が割って入った。
「お前の相手は私ですわ!」
行く先に現れたミニ朔に、黒ずくめの男は急ブレーキをかけて止まると、大きくステップを踏んで後ろに飛び退いた。
隠密していた時と違い、今のミニ朔は妖力を全開にしている。たかが尻尾一本分とはいえ、生半可の妖よりよほど強い。それが例えバレーボールほどの大きさの、やたらと尻尾のでかい可愛らしい姿であっても。
それが男にもわかるのだろう、先程までの威勢は影を顰め、慎重に小さな狐の様子を伺っている。
それから急に体が闇に溶け込むように輪郭がぼやけた。勝ち目がないと思い逃げ出そうとしたようだ。しかし、それを見逃すミニ朔ではなかった。
「逃げられはしませんですわよ!」
ミニ朔は黒ずくめの男に飛びかかった。男は間一髪それを避けると、猫の姿になった。そのまま朔のいる方と反対の方角へ向かって走り出す。しかし、ほんの僅か走ったところで、急に何かに弾かれるように足が止まった。
「逃さないといいましたでしょう?」
ミニ朔の張った結界である。
ミニ朔はゆっくりと黒ずくめの男だった猫に詰め寄る。黒い猫は顔だけはミニ朔に向けながらそこから逃れようとジリジリと結界沿いに横に動く。
「哀れな猫又。一思いに殺してあげましょう」
ミニ朔は可哀想な物を見るように金色の目を細めて黒い猫を見た。
「っ!くそうっ!」
黒い猫はその目から逃れるように大きく跳躍してそのままミニ朔を飛び越え、晃輔に向かって飛びかかった。晃輔はそれを避けようともせず、じっと動かず黒い猫を見ていた。
バンッ──!
「な?!」
先程の結界よりも更に大きな障壁となって黒い猫を弾き返した。勢い余って大きく転がる。黒い猫は驚いて声を上げた。
「…どこまでも哀れな仔。私が主である晃輔坊ちゃまを無防備にしておくわけがないでしょう?」
そう言うとミニ朔は尻尾をハリネズミのようにトゲトゲしく逆立てると、一斉に針を黒い猫へ放った。
「ギャッ!」
狙いは違わず全弾猫に突き刺さり、黒い猫は針山のような姿で全身から血を吹き出させた。
「ですが、主を狙った罪は重い。私はそれを許しませんですわ!」
「あ…が…」
黒い猫は晃輔の足元をよろよろと二、三歩歩くとそのままぱたりと横に倒れた。
「…一思いに殺ってやれませんでしたか、私もまだまだですわね。どれだけ人を喰ろうたのか、猫又の生命力を侮りましたわ」
ミニ朔はゆっくりとした足取りで倒れた黒い猫に近づくと、特に後悔した素振りも見せずに冷たく言い放った。
「…うして…レだけ」
黒い猫はヒューヒューと喉を鳴らしながら、何かを呟いた。
「ど、うしてオレだけこんな目に…アイツは、ナ…ゼ…バケ、モノが人を、襲って何がわ、るい…」
黒い猫は口からどす黒い血の泡を吹きながら、怨嗟の言葉を履いた。
「いいえ、お前はバケモノですもの。それがバケモノの性というものですわ。私はそれを否定はいたしませぬ。ですが、お前は狙う相手を間違えた。我が主を、そのご友人である陽翔様をお前は狙った。私はそれを許しませんわ。だからお前を生かしておくわけにはいきませぬ。私はお前を殺しますわ。私は主を護る──バケモノですもの」
「…」
黒い猫は動かぬ物体と化していた。ゆっくりと黒い砂になって少しずつ崩れていく。
「お前も、晃輔坊ちゃまや陽翔様の様な方のところで生まれていたら違ったかもしれませんわね…」
ミニ朔はあくまで冷たく言い放った。しかし、その言葉にはほんの少しだけ憐憫の情が混じっていた。
パリンッ──とどこか遠くの方で何かが割れたような気がした。途端、晃輔の耳がぴーっと耳鳴りを感じる。
ミニ朔が結界を解いたのだ。途端に止まっていた空気が動き出す。四月の夜風が晃輔の頬をなで、黒い猫だったものの跡が少しずつ風に攫われていく。
「晃輔坊ちゃま!私頑張りましたわ!」
ミニ朔はくるりと晃輔を振り返ると、大きな尻尾をぱたぱたと振って晃輔に近づいてきた。先程までとはうって変わっていつもの少し煩いくらいのテンションに戻っている。
「褒めてくださってもよいのですのよ!」
フフンとばかりにミニ朔は胸を張る。
「ああ…よくやってくれた。ありがとう」
晃輔は膝をついてミニ朔を抱き上げた。それからぎゅっと力を込めてもふもふに顔を埋めた。
「…坊ちゃま?どうしたのでございますか?」
ミニ朔は滅多にない晃輔の行動に少したじろぐ。小さな前足でポンポンと晃輔の頭を撫でた。しかし晃輔はミニ朔の問には答えず、無言でミニ朔を抱きしめる。
「…坊ちゃま?まさかどこか怪我をされたのですか?」
答えない晃輔に少し心配になったミニ朔は、そんなはずはないと思いながらもそう尋ねた。
「…君は僕の大事な家族だ…バケモノだなんて言わないでくれ、朔」
晃輔は少ししてようやく小さくそう呟いた。
「!」
「…」
晃輔はミニ朔を抱きしめたまま離さない。
ミニ朔は息を殺すように小さなため息をつくと、癖のある晃輔の髪を前足で撫でながら
「そうですわね。申し訳ございません」
そう、少しだけ嬉しそうに答えた。




