プロローグ
婚活王子はジャスミンの香り
プロローグ
ここは中東の小国。名はトレビアラブ。砂漠と天然黒真珠の国であった。
原油を産出し、その豊かな埋蔵量は「中東の秘湯」と呼ばれる。
国王サクリン八世の穏健な政策は国民の支持を得て、革命とは無縁の国と思われていた。
しかし、『ジャスミン革命』の刺激をうけ、トレビアラブにも民主化を叫ぶ運動が始まった。
軍の一部がこの民主化運動を利用して、王国の転覆を企てた。
サクリン八世には、三人の王子があり、兄の二人は軍と共に国を支配することを望んでいた。
三男のマリオは、日本人の母の影響もあり、民主化論者で国を国民の手にと考えていた。
二人の兄が王に退位を迫り、マリオと母を捕らえようと画策していると知った国王が、アメリカの大統領に宛てた親書を、王子のマリオに託し出国させた。
大阪、北新地の夜は遅い。永らく続いた不況から立ち直りの気配をみせてはいるものの、昔の賑やかさには遠く及ばない。
朝から降り続いた雨。夕暮れが近づくと、花や氷の配達のバイクが傘も差さずに駆け回る。
仕入れを終えた板前や職人が、軒下で立ち話をしている。八月のこの街は、いつもの月より元気がないように見える。
やがて地下鉄の階段を昇ってくる着飾った女性達が傘を斜めにさして、急ぎ足で店に向う。
一昔前なら、高級外車や黒塗りのハイヤーで店に乗りつけ華を競ったママたちも、傘を窄め足元を気にしながら店に入る。
日が落ち、看板やネオンの灯りが街を彩り、ようやく路地を往来する人の数が増えてくる。
タクシー運転手の長野は、久しぶりに忙しかった。夜の十時を回った時、北新地のタクシー乗り場から少し離れた路上に止めた車の中で弁当を食べる。
車のメーターボックスは、『回送』車の屋根を叩く雨の音が小さくなってきた。
「ちょっと、いいですか」
見るといかにもホステス風の女性が窓をたたく。青のロングドレスにゴールドのネックレス。胸には茶色の毛をした犬を抱えている。
長野は『回送』を箸の先で差し、箸を持ったまま手を横に振る。女はノックを続け、窓をたたく音がしだいに大きくなってくる。、仕方なく窓を開けると、
「早く乗せなさいよ。サスケが濡れちゃうじゃないの」
ドアを開ける長野。乗り込んだ女が犬を座席に放す。
ドレスの胸の谷間が大きく開いているのが、まぶしく見えた。
長野が弁当箱を助手席において「犬は困るんですよ」
「なにをバカなこと言ってるの。やっと見つけたのに。この仔を雨の中へ放り出せとでもいうの。
大体あなたたちタクシーは、晴れた日には邪魔になる程いるくせに、肝心な時には来ないんだから」
「すみません。それでどちらまで」
「都ホテル」
「わかりました。行きますよ」
「大阪じゃなくて京都の都ホテルよ」
「えっ」
「京都の都ホテルへ行ってちょうだい」
「随分、遠いですね」
「わかってるわよ。マネージャーが、京都と大阪の都ホテルを間違えて予約したの。
久しぶりの関西の仕事だというのに。荷物も、京都に送ってしまったんだから」
「お仕事は、何をなさってるんですか」
「何だと思う。芸能関係のお仕事よ。あなたテレビで私のこと見たことなくって」
「すみません」
「いちいち謝らなくっていいから、行ってちょうだい」
二人が話しをしていると、後ろから犬がスルリと助手席に入り込んだ。
「こらっ、大人しくしてろよ」
「今回は、旅番組のレポーターといった所だけれど、わたしが温泉に入っている姿を映すっていうの」
「それなら、私も是非見せてもらいます」
「バカなことを言ってないで、サッサと出しなさい。疲れたから寝るわ。京都に着いたら起こしてね」
長野が車をスタートさせ高速に入った。
しばらくして犬が弁当を食べているのに気付いた。
手で犬を追い払うが、タクアンを残して平らげ、食べ終わると、なに食わぬ顔で助手席で寝ている。
「京都のインターに着きましたよ」
「おはよう、なんだか機嫌が悪そうね」
「お宅の犬が、私の弁当を食べてしまったんだよ」
「何てことしてくれたのよ。ウチのサスケはドッグフードしか食べさせないのよ」
「すみません。気がついたときには食べてしまっていたんで」
「病気にでもなったら、あなたのせいだからね。あと何分ぐらいで着くの」
「今、インターを降りた所だから、二十分ぐらいですね」
「トイレに行きたくなっちゃったわ。どこかないかしら」
「この先にコンビニがあったはずです。そこで借りたらどうですか」
「もう少し気のきいたところはないの。でも、辛抱出来ないから、そこに着けてちょうだい」
コンビニに女性が駆け込み、パーキングに車を止めた。
あとから来たワゴン車が横に止まり、コンビニの入り口が長野から見えなくなった。
十分が過ぎても女性が戻って来ないので、待ちきれなくなった長野がレジに行き店員に声をかける。
「少し前に、女の人がトイレを借りに来ませんでしたか」
「来られましたよ」
「まだ、トイレにおられますか。気分でも悪くなったのかと思って、様子を見にきたんですが」
「もうお帰りになりました」
「帰ったぁ」
「タクシーの運転手さんが来るから渡してあげてと。ドッグフードとカップ麺をお持ちになって。
あと、お腹空かしているからお湯を入れてあげてと言われましたよ。とても優しい方ですね」
レジのそばの台の上に置かれたドッグフードを脇に抱え、カップ麺を両手で持って出口に向かう長野に店員が声をかける。
「お勘定まだなんですが」
しぶしぶ勘定をすませ、駐車場に戻り、車の中で弁当箱の蓋にドッグフードを入れサスケにあたえ、サスケの残したタクアンとカップ麺を食べる。
「急げば間に合うな」つぶやいた長野が、高速に乗り大阪まで戻り北新地に急ぐ。
北新地に着いた時、時計の針は一時二十分を指していた。
「由紀はまだいるかな」
携帯電話をかけようとした時、一人の男性が手を上げ近づいて来た。電話をかけるのを諦め
「どちらまで」
「まっすぐやってくれ」
男が乗り込み、走り始めて間もなくサスケが、助手席の背に足を掛け、歯をむいてうなりはじめた。
「なんだ、これは」
「こら、サスケ静かにしないか」
「どうして、こんな所に犬がいるんだ」
今にも飛びかかりそうなサスケを、左手で制しながら
「すみません。前のお客さんの忘れ物なんで、静かにしろと言っているだろ」
「忘れ物、俺を舐めてんのか。会社に言いつけてやるからな。そこで止めろ」
「本当にすみません。料金は結構です」
「あたりまえだ」
男性客が降りた後も、興奮が収まらないサスケをなだめる。
「今日はついてないな」
大阪駅から北へ歩いて十五分。淀川を見下ろすマンション。夜明けの陽が雲を紅く染めている。建物は全体が薄汚れた工事用のシートに包まれ、薄明かりの中でかすんで見える。
それでも、いくつかの部屋から明かりが漏れ、朝食の味噌汁の匂いで人のすんでいることがわかる。
会社で自転車に乗り換えた長野が、マンションの駐輪場に自転車を止める、サスケと一緒にペット可のシールが張られたエレベーターに乗り五階に上がる。
「由紀、帰ったよ」
「おかえりパパ。この犬どうしたの」
「忘れ物だ。客には怒られるし、課長にはイヤ味を言われるし。
警察に届けるわけにもいかないから連れて帰ってきたんだ」
「可愛いじゃない。名前は?知らないわよね」
「サスケと言ってた。変な名前だから」
「たしかに変な名前ね。これポメラニアンよ。おいサスケ」
呼ばれた犬は尻尾を激しく振り、由紀の足に絡み付く。
「お入り。パパもよ」
茶の間のテーブルについて長野が、「お前を迎えに行こうとしたんだけど」
「いいの、子供じゃないんだから。昨夜はお店が終ってから達彦と食事をして、彼に送ってもらったわ」
奥から紙袋を持ってきた由紀が、袋からポロシャツを取り出し
「これ買って来たわ。今、着てるの少し窮屈そうだからLにしたよ。靴は下駄箱に入れてあるから。
サイズは26・5」
「すまないね」
「達彦が、パパに会いたいというのよ。ちゃんとしてもらわないとね」
「達彦君なら、改めて会う事もないと思うけど。それに、この柄派手じゃないか。
こんなの着たらどっちがパパかわからなくなるよ」
「よく言うわね。そりゃパパは若いわよ」
「おだてても小遣やらないよ」
「いらないわ。領収証、置いておくから、靴の分と一緒に払ってね」
サスケは、テーブルの下に入り、由紀が用意した器で水を飲んでいる。
数日がすぎ、暦が九月に変わった日に、長野が公園のベンチで昼食を食べていると携帯電話が鳴る。
着信音は『いい日旅立ち』
「わたし、わかる」
「どちら様ですか」
「サスケは元気にしてる。変なもの食べさせてないでしょうね」
「ああ、この間の、アンタひどいじゃないか。乗り逃げしたうえに犬まで押し付けて」
「すんだこといつまでも言わないの」
「どうして、オレの携帯の番号がわかったんだ」
「そんなの簡単よ。あなたの会社に電話して、犬を返してと言ったら教えてくれたわ。
それより今どこを走ってるの」
「弁当を食べてます」
「相変わらずね。これから急いで関空までいってちょうだい」
「関西空港ですか?」
「そうよ、お客様をお迎えにいってほしいの。
とても大切な人で、お国は言えないけれど王子様なのよ」
「そんな方を、またどうして」
「質問が多いわよ。でもまあ教えてあげる。本当は、昨日成田に着くはずだったの。
彼が香港で気が変わって大阪に来ることにしたらしいの。
わたし今、東京駅にいるのよ。これから新幹線で大阪に行くけど。
急なことで他の人に頼めないからお願いしてるのよ」
「私はどうすればいいんですか」
「紙にミスター・マリオと書いて、空港の到着ロビーで待っていれば、彼の方から見つけてくれるわ」
「マリオですか」
「日本語で書いちゃ駄目よ。Mr・MARIOよ」
「わかりました。時間は」
「二時五十分の到着便よ。ゲートは北と南があるから間違わないでよ」
「一度、お客様をお迎えに行ったことがあるので、わかると思いますが。
念のため年恰好とか、目印を教えてもらえますか」
「年は三十すぎかな、わたしも会ったことがないから。
あちら様には太めのタクシードライバーがゲートを出た所で待っていると連絡しておくから。
遅れない様にしてね。先方にはシズエの代理で、お迎えに来たと言ってね」
「お目にかかって、どこまでお送りすればいいんでしょうか」
「ヒルトンまでおねがい」
紀伊国屋で、ボール紙とサインペンを買った長野は関西空港に急いだ。
高速道路を走りながら上空を見ると、空には黒い雲が流れ今にも降りだしそうであった。
関西空港についた長野は、予約専用スペースに車を停め国際線到着ロビーに向かった。
香港からの二時五十分到着便が、南ヤードに着くことを確認して、ロビーの椅子に腰掛けた。
関西空港では、到着をフライト・ボードの左の端のランプが飛行機の着陸を点滅して知らせる。
右側にある表示で、着陸、降機中、手荷物受取中、手荷物受取済、と乗客の状況をおしえる。
受取済みになるとランプは点滅しなくなる。
到着便のランプの点滅する数でゲート内の混雑ぶりがわかる。
香港発、二時五十分着便の到着アナウンスが流れランプが点滅した。
長野はボール紙を胸に到着ゲートの前に立って「MARIO」を待った。
あたりには、客の名前が綺麗に印字されたボードを持った、旅行会社の男性が三名と女性が一名。
長野とは会社が違うが、タクシーのドライバーも一人いた。
その他に、男女が数人。知人や家族を迎えていると思われる。
それぞれが、ゲートから目当ての人が出てくるのを待ち受けている。
長野は胸のボール紙を、この人かと思った時には頭の上まで掲げて見せる。
しかし、通り過ぎる人はチラッと見るだけで、彼に近づいてくる人はいなかった。
そのうち、旅行社の人たちに目当ての客が現れ空港を後にする。
家族や友人との再会を笑顔で語らう人たちも、やがてバス乗り場や駐車場に向かう。
タクシーのドライバーは、「お先に」と長野に声をかけて行った。
三時三十分を過ぎても、長野の客はあらわれなかった。
ゲートで待つのは長野と、離れた所から見ていた背広を着た二人だけになった。
やがて、三時三十五分到着の便の到着を知らせるランプが点滅しはじめた。
長野は出迎えの人たちの群れの中で、前と同じ景色になった。
しかし、お客は現れなかった。
ムンバイから香港を経由してくる四時二十分着の便の到着を知らせるランプが点滅しはじめた時。
携帯から『いい日旅立ち』が流れた。
「なにしてんのよ」
「まだ、出てこられないんですよ」
「バカねえ、今、ホテルに着いたと連絡があったわよ」
「ええー、そんなはずは。私はずっとゲートにいましたよ」
「着いちゃったんだからしょうがないでしょ。あなたも戻ってらっしゃい」
「高速料金とか貰えるんですか」
「お金のことを言わないで、自分のしたことをよく考えてごらんなさい」
「すみません」
「いうと思ったわ」
車に戻ろうと横断歩道を歩いていた長野に、旅行バッグを提げた二人の男が声をかけた。
「タクシーの運転手さんですか」
「はい」答えるが声に力が入らない。
「大阪市内までいいですか」
「勿論です。お迎えのお客に会えなくて、料金がもらえないので困っていたんですよ」
「それはよかった。タクシー乗り場が混んでいるので声をかけてみたんです」
「雨が降ってきたから」
二人を車に乗せ、メーターを倒しながら、
「ロビーでお見かけしませんでしたか」
「友人を送ったあと見学していたんです。なにしろ関西空港は初めてなもんでね」
「そうでしたか。大阪はどちらまで」
「北にしようかな。明日は休みなんで飲みに行こうと相談がまとまってね。今日は大阪泊まりだな」
「いいですねえ。時間もたっぷりあるし」
「そういえば運転手さんのお客さん、泊りはどちらでした」
「ヒルトン大阪に行くはずでした」
「それじゃ私たち、今夜はヒルトンに泊まることにしよう。新地にも近いし。
荷物があるから、先にホテルへ行ってくれませんか」
「本当ですか。助かります。空港お迎えが無駄にならなくてよかった」
二人をホテルで降ろして駐車場を出た時、また着信の音楽が鳴った。
「どこにいるのよ」
「ヒルトンを出たところです」
「そんなところでなにしてるの。イヤ味のつもり」
「そんなことはないんです。実は」
「いいわよ、それより今日は早上がりにして、明日から二・三日、休暇を取ってちょうだい」
「何を言われているのか、良くわりませんが」
「わからなくてもいいのよ。急いで家に帰って着替えをしてよ。
七時に、ヒルトンの三十五階のレストランまで来てちょうだい。そこでちゃんとお話しするから。
サスケはお留守番させてね、日本のホテルは遅れてるんだもの、どうしようもないわね」
約束どおり会社を早退して、家に帰ってサスケにドッグフードをあたえる。
シャワーを浴び、私服に着替えた長野がレストランに着き、入り口で名乗ると、
「お連れ様がお待ちでございます」
案内された席には、数日前に、長野の車を乗り逃げしたシズエと男性がいた。
すこし色は黒いが、顔立ちは日本人と変わらず空港で見逃したのも仕方がないと長野は思った。
シズエは、先日の服装とは変わって黒のスーツを着ていた。
奥の窓際の席に、長野が関西空港からホテルまで案内した、二人の男性が食事しているのが見えた。
「遅くなってすみません」
「いいのよ、こちらがマリオ王子、長野さんです。早くお座りなさい」
「失礼いたします。関空ではお待ちしてたんですよ」
「アイム・ソーリー、すこし訳がありまして」
「日本語話せるんですか」
「お母様が日本人でいらっしゃるの。いろいろお話することはあるけど、まあ食べましょうよ。
私と同じでいいわね。彼のは特別にしてもらったから」
ウェーターを呼び、シズエが手早く料理を注文する。
「食べる前に、今言われた、訳を聞かせてください」
「彼が、関空の到着ロビーから出たとき、誰かに見張られているような気がしたんだって。
それで、あなたの前をスルーしたんだって」
「じゃあ、私がいたことはご存知だったんですね。ひどいじゃありませんか」
「ひどいのはあなたよ。お迎えのボードになんて書いたの」
「ローマ字でMr・MARIO」
「そのあとに王子と日本語で書かなかった」
「書きましたが、それが」
「バカねえ、そのボードを彼の国から来た敵が見張っていたかもわからないのよ」
「そんな人はいなかったですよ」
「外国人とは限らないわよ。日本にもエージェントがいるらしいのよ。何か変わったことはなかった」
「そういえば」
長野が奥の席を見ると、そこにいた二人の男性の姿はなかった。
「なんなのよ」
「王子に会えなくて空港を出ようとしたとき男の人に呼び止められ、このホテルまで乗せてきました。
先程まで奥の席におられましたよ」
「あなたって人は、せっかく王子が捲いたエージェントをわざわざホテルまで案内してきたというの」
「悪い人には見えなかったけど」
「エージェントと決まったわけじゃないけどおそらく・・・」シズエが言うと
「まってください。シズエさん、ワタシは長野さんに感謝しています。
香港で、国から着いてきた奴を捲いて、大阪に来ました。
長野さんのおかげで、彼らが、まだ私を追っていることがわかりました」
「すみません」
「またぁ、これからのこと考えましょうよ」
「休暇は三日もらってきました」
「じゃあ、明日レンタカーを借りてきてちょうだい。
今日、ここにいる所を見られたとしたらコソコソしてもしょうがないわね」
「何時にお迎えにあがりましょうか」
「長野さんにはこのカード渡しておくわ。
いままでの分と、これからの経費を引き落としてちょうだい。暗証番号は5963よ」
「有り難うございます。そんなに気を使っていただかなくてもよかったのに」
「何いってるのよ、いつもお金のことばかり言ってたくせに。
本当は昨日、東京で、生け花の家元のお嬢さんとお見合いする予定だったの。
王子が大阪に来ちゃったもんだから。
先方にお願いして、明日お昼に万博公園の日本庭園にあるお茶席でお会いすることにしたの」
「じゃあ、明日は万博公園までお送りすればいいですね」
「十一時よ。十時のお迎えでどう」
「それで、じゅうぶん間に合うと思います」
「それじゃ、食事が済んだら帰っていいわ。サスケのことよろしくね。
私は、王子と打ち合わせがあるから」
食事を終えた長野が、二人を残しホテルを出たときは、雨の上がった空にたくさんの星が、ビルの谷間に見えた。九月とはいえ蒸し暑く、長野は上着をぬいだ。
近くのコンビニに飛び込んだ長野が、ATMでカードの残高を確認すると二十万円あった。
十五万円を引き出した長野はお札を数えながら笑いをこらえた。
「帰ったよ」
ドアを開けると、待ちかねたようにサスケが飛びついてきた。
「ただいま、一人でお留守番悪かったね」
「わたしもいるわよ」奥のほうから声がして由紀が出てきた。
シャワーを浴びた後だったのか、体にバスタオルを捲いただけの姿で、手には缶ビールをもっている。
「こら、なんて格好をしてるんだ。嫁入り前の娘が。誰かに見られたらどうする」
「あら、パパとサスケしかいないじゃない」
「サスケも男だ。それに」
「パパもね」
「つまらないことを言ってないで何か着て来い。今日すごいことがあったんだ。話してやるから」
「そう、何なの」
「その前に、達彦君が来るのはいつだったかな」
「それがね、もういいの」
「よくない。話してごらん」
「昨日、お店に達彦が、ご両親と一緒に来たの。私には連絡も無しでよ。
一番高いコースを注文して、私がワインを勧めると、お母様が、女のソムリエとホステスはどう違うのかしらと、わざと私に聞こえるようにお父様に言うの。達彦は止めもしないで笑って聞いているだけよ。腹が立つから、フランスの高級ワインを飲ましてやったわ。そうしたら、お母様が美味しくないわねだって。味なんかわからないくせに」
「達彦君はどうしてた」
「彼は目で合図するんだけど、何が言いたいかわからないもの。後でメールが来たけど着信拒否してやったわ。今日は、お店休んじゃった」
「そうか」
「パパも、何か話があったんじゃないの」
「もういい、寝なさい」
次の日の朝、長野が目を覚ますと由紀は出かけた後であった。
食卓のテーブルの上にメモが置いてあった。
パパへ
しばらく東京のママの所に行きます。
東京のTホテルで、ソムリエを募集しているとママが教えてくれたので受けてみようと思います。
帰るときには連絡します。
サスケによろしく言ってね。
由紀
朝食をすまし、長野はレンタカーを借りるためにに大阪駅までサスケと歩いた。
「プリウス」を借りて助手席にサスケを乗せ待ち合わせのホテルの駐車スペースに車を止めた。
ちょうど十時にスポーツシャツを着たマリオが出てきた。
昨夜は座っていてわからなかったが、身長は百八十センチ以上ありそうで、引き締まった体と小麦色の肌がまぶしい。
「おはようございます」
「グッドモーニング・よろしくお願いします」
車の後部座席に乗り込むと、助手席のサスケが顔をだした。
「何ですか、これは、私の国では、犬はよくない動物です。降ろしてもらえませんか」
「困ったなあ、娘がいれば預けることも出来たんだけれど。これはシズエさんのです。
今日、返しますから少しの間辛抱してもらえませんか」
「オーケー、でも後ろに来させないでください」
「すみません」
「シズエが言ってた、よく謝る日本人というのはあなたの事ですね」
「へへっ、まあ、あの人は苦手なんです。王子様のこと聞いてもいいですか」
「いいですよ、あなたは友達、マリオと呼んでください」
「お国のことも知りたいのですが、シズエさんとはどういうお知り合いですか」
「彼女は、母の昔の友達に紹介してもらった結婚プロジューサーです。
わたしは彼女のクライアント。日本でお嫁さんを探すのを手伝ってくれます」
「私には芸能関係の仕事だといってましたが。
どうして日本人をお嫁さんにしようと思ったんですか」
「わたしの母が、日本人というのは昨夜シズエも言ってましたね。とても美しいし優しいです。
前から母のような人をお嫁さんにすることに決めていました」
「わかりました。じゃあ、出発です。ところでシズエさんとはどういう契約になっているのですか」
「一日一万米ドルだけで、みんなやってくれます。とても安くて助かります」
一万ドルと聞いて、長野はハンドルを叩き、クラクションの音を駐車場に響かせた。




