死のクリスマスイブ・22
二十二
十二月 二十二日 (金)
<私立 川越高校>
校門に彫られたその文字を見つめながら克行は一つ大きく深呼吸をした。
坂本や波川を殺った時、磯井を葬った時、そのどれよりも危険なことをやろうとしている。
相手は見知らぬ人間で、しかもその相手の領域で戦おうとしているのだ。コートのポケットにある拳銃を右手で探る。市役所から渡された時には嫌悪感を覚えたこの拳銃も今はやけに頼もしく思える。
富士川という男がいったいどのような男なのか、克行は頭のなかで想像していた。立花のような殺しを趣味としているような男なのだろうか、それとも磯井のように偶然に権利を手に入れただけの男なのだろうか。
克行は敵地へ赴く兵隊のような心境で学校の門を入って行った。
ちょうど試験休みの時期なのかあまり学生の姿は見ることは出来なかった。グラウンドや体育館にクラブ活動で来ている学生の姿がわずかに見えるだけだった。人が少ないことは克行にとって好都合だった。
教員室が二階にあることは玄関口の案内図によってわかった。
(「やることはわかってるな」)
克行は自分自身に言い聞かせた。
歩きながら克行はあたりをうかがった。
高校には卒業して以来行ったことがない。一度も訪れたことのない学校とはいえ、それでもなぜだか懐かしい感じがあった。
階段をあがるとすぐに教員室のドアが見え、克行は心臓が高鳴るのを感じた。今更ながらにここを戦いの場に選んだことが失敗だったように思えた。
なぜ、俺はここを戦場に選んだのだろう。富士川の家を襲うほうがよほど安全だったのじゃないだろうか。だが、今更そんなことを思っても遅すぎる。
(慎重に……そうだ、慎重にことは運ばなければだめだ)
すでに三人殺しているとはいえ、それでもやはりかなりの緊張があった。おそらく何人殺したところでこの緊張感が失われることはないだろう。そうあの立花にしても。
(だからこそ、あいつは殺しを……いや、この緊張感を楽しんでいるんだ)
それなら俺はどうだ?
わざわざ危険を犯してここまでやってきたのはどういうわけだ?
思わず克行は目を閉じ、頭を振った。今、立花のことは考えないほうがいい。
克行は心を決めてドアを横へ開いた。
「失礼します」
試験休みだということを表すように教員室はやけにのんびりとした雰囲気に包まれていた。おそらくすでに試験の採点は済み、終業式を待つだけなのだろう。
「すいませんが……富士川先生はいらっしゃいますでしょうか?」
誰にともなく声をかけると本を読んでいた白いワイシャツを着て真っ赤なネクタイをしめた太った教師の一人が立ち上がって歩み寄ってきた。
「昨日電話をした人ですね」
「はい、受験センターのもので……田宮と申します」
克行は以前仕事の付き合いでもらった一枚の名刺を相手に渡した。
「ふぅん、受験調査ってことだったけど今の時期じゃ遅いんじゃないの? もうみんな進路なんか決まっちゃってるよ」
やけに口をくちゃくちゃとさせながら教師は言った。どうやらこの男が昨日富士川の言っていた田口という教師らしい。
「ですからこちらの知りたいのはどちらの大学へどれだけの人数が受験を予定しているかということでして……」
克行はなるべく相手に嘘を悟られないように漠然とした言い方を心がけた。
「ふぅん、そりゃまあ教えるのはこちらとしても構いませんけどねえ……」
「ありがとうございます。あの……ところで富士川先生は?」
克行はなるべく話題が集中するのを避けるためにも早めに富士川のほうへ話を移そうとした。
「富士川先生? なんでもさっきからお客さんが来てるらしくて……」
何か食べている最中ではないかと思えるほど口をくちゃくちゃさせながら田口はぶつぶつと言った。そしてそばを通りかかった女性教師へ声をかけた。
「ねえ、富士川先生はどこだっけ?」
「富士川先生ですか?」
「うん、さっきお客さんが来たとかでどっかに行ったろ」
女性教師はその言葉にすっと目を細めるようにして考えこんだあと、すぐに思い出して言った。
「あの黒づくめの人ね」
その言葉はすぐに克行の脳裏に立花を連想させた。
「黒づくめ?」
思わず克行は聞き返した。
「ええ」
「何て名前でした?」
「そうね……そうだわ、立花って言ったかしら」
克行の背筋に冷たいものが走った。
(あの立花が来ている)
克行は昨日感じた不安が真実となったことを知った。
「あなた、知ってるんですか?」
克行の様子を見て田口は不思議そうな顔で尋ねた。
「え? ええ……」
「それじゃ、その人もあなたと同じような受験センターの?」
「ええ……まあ、そうです。今、二人はどこに?」
「進路相談室にいると思いますよ」
女性教師はそう言ってすっと自分の席へと戻って行った。
「どうします? 会われますか?」
頭をぼりぼりとかきながら田口は相変わらず口をくちゃくちゃとさせている。思わず克行はこの男の顔面に拳銃を突きつけてやりたくなる衝動を抑えた。
(どうする?)
内心の声が叫んだ。
(立花もここで葬ってしまうか?)
もちろんそれが考える以上に難しいということは克行にもわかっていた。特権者二人を相手にする。しかも、二人ともランクCの素人などではない。そして、一人は殺人狂の立花だ。
(しかし、もしもここで殺ることが出来れば……)
そうなれば今日を含め残り三日間、苦しむことはない。それに立花も同じ特権者ということで克行に油断するかもしれない。
「――田宮さん」
一瞬、田口が誰に声をかけているのかわからなかった。
「あ……はい」
「お会いしますか? もしよろしければ案内しますよ」
「……そうですね。お願いします」
賭に出ることに克行は決めた。
田口は克行を連れ、教員室を出ると三階へとあがって行った。さっきまで懐かしさを覚えていた校舎も今では新たなる緊張のため、その静けさがやけに不気味に感じた。田口はさして克行にも受験センターにも興味を示そうとはせず、ただ黙って克行を案内して歩いて行った。田口にしてみれば受験の動向よりも仕事が一つ増えたことのほうが気に入らないらしい。
やがて、田口は一つのドアの前で立ち止まった。ドアに<進路相談室>とあった。
「ここですよ」
田口は克行に説明しながら軽くドアをノックした。しかし、返事はなかった。
克行はその瞬間、自分の予想もしないことが起こっているような気がした。ドアの向こうから血の気配が漂ってくる。
「あれ? 変だな……。ここじゃないのかな?」
田口は返事がないことに頭を傾げながらドアを開け放した。そして、部屋のなかを見た田口の顔からすっと血の気がひいていく。
「ひぃぃぃぃぃ!」
叫び声をあげながら田口はその場にしゃがみこんだ。
克行も一瞬それが何なのかわからなかった。一つの物体が窓枠に十字を描くように張りつけられている。
(富士川だ!)
克行はすぐにそう感じとった。
富士川はすでに死んでいるらしく、その虚ろに開いた目からは生命を感じ取れない。両手をロープによって割れた窓枠にがっちりと縛りつけられている。喉を鋭利な刃物で切られたらしく、ざっくりと裂けた喉元からどくどくと不気味にどす黒い血が体をつたわり床にしたたり落ちている。
立花の姿は部屋のなかには見えない。
「あれは富士川先生ですね?」
確認のために克行は腰をぬかしてしゃがみこんでいる田口に尋ねた。
「は……は、はい、富士川先生です……い……いったい何で……」
声は震え、まだ何が起こったのか正確には把握出来ていないように見えた。
克行はなかに入ると富士川に近づき、その姿をじっと見つめた。ここ二、三日の間に死体に慣れてしまったのか、それとも目の前のものがまったく赤の他人のためか死体に対する恐怖など微塵も感じられなかった。
それよりも立花のことが気になっていた。
克行は田口のいるところまで戻ると、腰を抜かして動けずにいる田口に声をかけた。
「立花が来たのはいつですか?」
「……立花?」
「黒づくめの男が富士川先生を訪ねて来たと言ったでしょう」
「黒づくめ? 奴が? 奴が富士川先生を殺したのか? 何で? 彼も君と同じ受験センターの人なんだろう」
頭が混乱しているらしく、克行の質問にまともに答えられる状況には見えない。
(くそ!)
克行は田口から聞き出すことに諦め、田口をその場に残したまま教員室へと急いだ。さっきの女性教師に立花のことを聞かなければいけない。
「すいません!」
教員室に入ると克行は女性教師のデスクまで近づいた。
「なんでしょう?」
克行の慌てた様子を不思議そうに眺めながら女性教師は仕事をする手を止めた。
「さっき立花という男が富士川先生を訪ねてきたと言いましたね!」
「え、ええ」
彼女は克行の剣幕に驚いて口ごもった。
「どのくらい前です?」
「そうね……三十分くらい前だと思いますけど……進路相談室にはいらっしゃらなかったんですか?」
克行は女性教師の言葉を最後まで聞かないうちに走り出した。まだ立花はこの校舎のなかにいるかもしれない。その思いが克行を駆り立てていた。
不思議なことにその時、克行の頭にあることは立花に対する恐怖などではなかった。自分の獲物を横取りされたような、そんな恐ろしい気持ちが克行の心のなかにあった。そして、それこそが克行を動かしていた。
(あいつを殺すんだ!)
立花を殺す。そのためにもなんとしても今、逃がすわけにはいかなかった。
克行はただ、むやみに校舎のなかを走りまわり立花を捜した。だが、立花の姿はどこにも見つけることは出来なかった。
「おい、あそこだ!」
どこからか声がして克行は振り向いた。
教師たちが数人克行に向かって走ってくる。その様子を見て克行は気づいた。きっとさっきの女性教師が不審に思い進路相談室まで様子を見に行き、腰をぬかしている田口と富士川の死体を見つけたのだ。
教師たちの様子に、その殺人犯、もしくはその秘密を握る人物と克行のことを見ていることがわかった。捕まるわけにはいかない。特権者だということがはっきりすれば、すぐに彼らもおとなしくなるだろう。だが、そんな時間すら今は惜しかった。克行は立花を追うことを諦めて逃げることにした。
ちくしょう! なんでこの俺がこんなふうに追い回されなきゃいけないんだ?
逃げているうちにしだいに怒りが湧いてきた。克行はポケットから拳銃を取り出し走ってくる教師たちに向かって構えた。それを見て、いっせいに教師たちは方向を変え、逃げ出した。
その様子を見届けてから克行は再び走り出した。おそらく立花はもう学校を後にしていることだろう。
逃げながら克行はやけに悔しい思いをしている自分に気づいていた。