第1話 表裏
網代木唯月は、報告書をクライアントに送信すると、椅子の背もたれに体を預けた。
「よし、終わったな」
軽く伸びをしてから、眼鏡を押し上げた。長時間パソコンに向かっていたせいか、細身の体にはいくらか疲れが残っていた。
画面には、企業のセキュリティ診断に関する報告書が表示されていた。
問題点の洗い出しから対策の提案まで、依頼された作業はすべて完了。あとは先方からの確認を待つだけだ。
企業のセキュリティ対策を請け負うフリーランスのセキュリティエンジニア。それが、二十六歳の唯月の表向きの肩書きだった。
幼い頃からコンピューターやサイバーテクノロジーに興味を持ち、仕組みを知り、自分の手で動かすことに夢中になってきた。
知識と技術を磨き続けた結果、いつしかそれが仕事になっていた。
かつては企業に勤めていたこともあるが、組織に縛られる働き方は肌に合わなかった。
人を雇って事業を大きくするつもりもない。
自分の技術で稼ぎ、好きなように時間を使う。
唯月には、それが性に合っていた。
仕事を終えた唯月は、いつものように情報収集を始めた。
技術関連の情報だけではない。
世の中で何が起きているのか、どんな人間が何をしているのか。
表に出ている情報から、一般には知られていない情報まで、気になったものは一通り確認していた。
そのために利用する情報源のひとつが、ダークウェブだった。
匿名の掲示板や閉じたコミュニティには、通常の検索では見つけにくい情報が流れてくる。
もちろん、そこに書かれていることがすべて真実とは限らない。適当な噂もあれば、誰かを陥れるための偽情報もある。
だからこそ、情報の裏付けが重要になる。
唯月は慣れた手つきでいくつかの情報源を確認していたが、ある投稿に目を留めた。
『あの店、女のレベル高すぎだろ。絶対裏でヤバいことやってるって』
書き込みには、とある飲食店の名前が添えられていた。
だが、その情報には何も根拠がなかった。
続く返信には、同調する声もあれば、投稿者を馬鹿にするものもあった。
「……飲食店か。そういえば、この間取引先で教えてもらった店も、店員が美人ばかりだと言っていたな」
仕事の打ち合わせを終えたあと、雑談の中で勧められた定食屋だった。
料理の評判がよく、若い女性店員ばかりが働いているという。
そのときは特に興味を持たなかったが、勧められるまま店の名刺だけは受け取っていた。
「ちょっと調べてみるか」
唯月はもらった店の名刺を取り出して、関連する情報を探し始めた。
運営する企業の所在地、経営体制、役員の経歴。
ひと通り調べてみたものの、特に不審な点は見当たらなかった。
「ハズレっぽいか?」
唯月は少し考えたあと、再びキーボードに指を伸ばした。
せっかく調べ始めたのだから、もう少しだけ覗いてみることにした。
片手間に運営会社のシステムに侵入し、内部の資料を確認していく。
すると、表向きの事業内容とは関係のなさそうな資金の動きが見つかった。
取引先の中には、実態のよくわからない企業も含まれていた。
「……へえ」
唯月の口元が緩んだ。
企業を隠れ蓑にして資金を動かす組織は珍しくない。
もちろん、これだけで違法な取引だと断定できるわけではなかったが、少なくとも、ただの定食屋として片づけるには気になる情報だった。
「なるほど。真っ白ってわけでもなさそうだな」
まだ全容はわからない。だが、調べる価値はありそうだった。
唯月はさらに内部を探り、従業員や採用に関する情報も入手した。
ひと通り内部情報を確認したところで、通常のウェブ検索に切り替え、定食屋の評判を調べることにした。
やや高級志向で、若い女性店員ばかりが働いている店だった。
料理の評判はよく、接客も丁寧。値段はやや高めだが、それでも連日行列ができるほどの人気店らしい。
公式サイトには、料理の写真と店内の様子が掲載されていた。口コミサイトにも好意的な評価が並んでいた。
『料理がうまい。店員さんもかわいい』
『値段相応の満足感がある。何度でも通いたい』
『接客が丁寧で居心地がいい』
表向きは、何の問題もない店に見えた。
唯月は口コミをいくつか確認したあと、先ほど入手した内部情報と照らし合わせた。
従業員の入れ替わりが不自然に多い。
辞めたはずの従業員について調べても、その後の足取りがほとんどつかめない。
求人情報には、若い女性を対象とした募集が繰り返し掲載されている。
だが、この募集から採用された人物は不自然なほどに見つからない。
表向きの評判とは裏腹に、内部の実態には不審な点がいくつもあった。
「これで騙せていると思ってるんだろうな」
唯月は呆れ気味につぶやいた。
まだ、店の裏で何が行われているのかまではわからない。
だが、不審な資金の動きに、従業員の不可解な入れ替わり。人身売買に関わっている可能性も十分に考えられた。
もしそうなら、胸糞の悪い話だ。
他人を食い物にして利益を得ながら、表では何食わぬ顔で商売を続けている。
そういう連中が、唯月は嫌いだった。
自分たちの都合で他人を支配し、好き勝手に振る舞う。そのくせ、社会の仕組みを利用して、自分たちの立場だけは守ろうとする。
「気に入らないな」
唯月は画面を眺め、薄く笑った。
こういう連中を見ると、つい考えてしまう。
どこを突けば困るのか。何を失えば、余裕ぶった顔を崩すのか。
相手が築き上げたものを逆手に取り、思いどおりにならない現実を突きつける。
自分の能力を使って、相手の計算を狂わせる。
その瞬間が、唯月はたまらなく好きだった。
もちろん、彼自身も清廉潔白とは程遠い。
セキュリティエンジニアとして企業の防御を支援する一方で、依頼によっては、法的に問題のある仕事を引き受けることもあった。
情報を集めるために、通常の手段では許されない領域に踏み込むこともあった。
自分の行為が常に正しいなどとは思っていない。
ただ、自分が悪だと判断した相手については、話が別だった。
法律が裁かないなら、自分が裁けばいい。
それが唯月の考え方だった。
「さて、どうするかな」
唯月は椅子に座り直し、集めた情報をあらためて確認した。
確証があるわけではなかった。だが、気になる点はいくつもあった。
「まあ、行ってみればわかるか」
画面に表示された定食屋の公式サイトから、営業時間を確認した。
まずは客として店を訪れ、実際の様子を確かめてみる。
従業員の様子や店内の設備など、ネット上の情報だけではわからないこともある。
何も見つからなければ、それまでだ。
「せいぜい楽しませてくれよ」
唯月は画面を閉じ、椅子から立ち上がった。
明日は、少しばかり面白い一日になりそうだった。




