想定外の邂逅
(嘘、だろ……)
拓也は、そこにいた人物を茫然と見つめた。
車椅子に乗った女性だ。
ゆるく波打った黒髪は後ろで一つにまとめられ、まとめきれない分の髪が耳を隠すように下りている。
微笑ましそうに細められた瞳は、藍色と紺色が混ざったような深い色。
小さく震える体は華奢で、その肌は白く、少し病的な青さを伴っている。
「ごめんなさいね。あなたの百面相が、見てて面白くて……」
彼女はそう言って、笑い声を引っ込めた。
そして、広い中庭を見渡す。
「ここ最近、うんと寒くなったでしょう? だから花たちも元気なくして、人も来なくなっちゃってね……」
そこまで言うと彼女は拓也を見つめ、嬉しそうな表情で手を合わせた。
「でも、今日はあなたがいて、とても嬉しかったのよ。本当はすぐに声をかけようと思ったのだけど、あなたがあまりにも真剣にそれを読んでるから、邪魔しちゃいけないと思って見るだけにしていたの。そしたら表情がころころ変わっていくから、つい……ね。」
そんなに面白い顔をしていただろうか。
集中している時の表情など分からないが、そこまで笑われるようなものではないと思うけど……
拓也は不可解そうに首を捻る。
彼女は拓也の反応に気付かないまま、拓也が先ほどまで見つめていた立て札を見下ろして……
「こういうの、好きなの?」
そう訊ねてきた。
「………っ」
下から優しい笑顔で覗き込まれて、心臓がどきりと跳ねてしまう。
「あ……いえ…。単なる暇潰しで読んでただけで…。保護者が来ないと家に帰っちゃだめだって医者が言うから、たまたまここに来ただけなんですよね。」
頬を掻きながら、気まずげに拓也は言う。
すると―――
「まあ大変! こんな所にいて大丈夫なの!?」
途端に、女性が顔を真っ青にしてしまった。
しまった。
もう少し当たり障りのない言い回しがあったはずなのに。
「ええっと……ちょっと怪我しただけなんですよ。別に、大したことはないんで。」
果てにはおろおろし始めてしまった女性に、拓也は慌てて言い繕う。
「そう…?」
「そうですって。ほら、おれ自身は元気でしょ?」
心配そうに眉を下げる女性に、拓也は笑みを浮かべてみせる。
ふとその時、中庭に強い北風が吹き抜けていった。
「……さむ。」
思わず身を縮こまらせて、拓也は二の腕をさする。
今は病院から貸し出された薄手の上着を着ているのだが、さすがにこの格好で外に出るのは馬鹿だったかもしれない。
今さらながらに、寒さが全身に沁み渡っていく。
「あらあら…。すっかり冷えちゃってるじゃない。」
こちらの手を取った彼女は、目を丸くする。
触れられた彼女の手がやたらと熱く感じるのは、それだけ自分の体が冷えてしまっているということなのだろう。
「あなた、ちょっといらっしゃい。」
彼女は拓也の手を優しく引っ張りながら、片方の手でちょいちょいと手招きをした。
「え…? なんで……」
「いいから、いらっしゃい。」
戸惑う拓也に、母親のような口調で言う女性。
なんとなく逆らえなくなって、拓也はおずおずと身を屈めて女性に視線を合わせる。
彼女は満足そうににっこりと微笑むと、自分の膝にかかっている膝かけを拓也の肩にそっとかけた。
「え…?」
戸惑う拓也に構わず、彼女は丁寧な手つきで膝かけを拓也の胸の前で合わせる。
「かけていなさい。風邪を引いてしまうわ。」
優しい表情で笑みを深めた彼女は、ごく自然な動作で拓也の頭をなでた。
「―――っ!!」
ドクン、と。
心臓が大きく鳴る。
拓也は、目を零れんばかりに開いて女性を見つめた。
まるで母親のような、慈愛に満ちた表情。
大切なものに触れるような、慎重で優しい手つき。
あまりに唐突すぎて、頭が状況についていけなかった。
今目の前にある現実が、急激に色を失った幻のように見えてくる。
そんな刹那の幻は、彼女と目が合った瞬間にあっという間に崩れてしまった。
「あっ……ご、ごめんなさいね。私ったら、何をしているのかしら。びっくりさせちゃったわね。」
「いっ、いいえ! 大丈夫です! 本当に、気にしないでください!!」
慌てて謝る彼女に、拓也も慌てて手を振りながら言う。
そんな二人の間に、館内放送を知らせるチャイムが響き渡った。
ノイズ交じりの放送で呼び出されたのは、自分の名前。
ある意味、救いの呼び出しだった。
「あ……尚希が来たのかな。」
拓也は呟いて、膝かけに手を伸ばす。
「これ、ありがとうございました。もう大丈夫なので―――」
膝かけを返そうと思って手をかけたのだが、何故か彼女はこちらの手を押さえてそれを止めた。
きょとんとする拓也。
それに対し、彼女は微笑んで首を振った。
「いいの。持っていきなさい。」
「でも……」
「いいの。私なら、いくつも持っているから。さ、早く行ってあげなさい。心配してるわよ、きっと。」
ぽんと体を押され、拓也は渋々といった様子で女性から離れて、院内へと繋がる自動ドアに向かう。
そんな拓也の後ろ姿に―――
「じゃあね、拓也君。」
優しげな彼女の声。
「………っ」
寂しそうな響きを伴った女性の声に、後ろ髪を引かれるようだった。
その思いをぐっとこらえ、拓也は女性に向かって一礼してからその場を去った。
足早に、尚希が待っているだろう受付に向かう。
できるだけ、今の出来事を思い返さないようにして。
尚希が待っているということだけを考えるようにして。
そして―――拓也は、この場で感じた動揺と感情を意識的に胸の奥に封じ込めた。




