今、ここにいるのは……
<エピローグ>
「実、どこに行ってたの!?」
桜並木を歩いてきた実を見つけた桜理は、すかさず実に駆け寄った。
「急にいなくなったから、心配したのよ? 桜に訊いても、何も知らないって言うし。」
実に手を伸ばしかけて、桜理はふとその手を止めた。
「実……何があったの? そんな顔して……」
桜理が控えめに頬に触れてくる。
実は、そんな桜理の瞳を見つめた。
闇色の鏡に映るのは、とても情けない表情をした自分の顔。
それを直視できなくなって、たまらず桜理を抱き締める。
「ごめん……桜理。」
桜理がこうなってしまったのは、自分のせいだった。
桜理を死から救えたからといって、この事実は変わらない。
いくら謝っても、いくら償っても足りない。
過去には戻れないのだから。
やりきれない気持ちに陥っていた実の頭上で、バシッと重い音が響く。
桜理が実の頭を思い切り叩いたのだ。
思わぬ桜理の行動に、実は呆気に取られて目をしばたたかせる。
「それ以上謝ったら怒るわよ?」
桜理は、一度尖らせた唇をすぐに笑みの形に変えた。
「実。あなたがこれ以上私のことを気に病む必要はないの。私ね、なんだかんだ言って、ここの生活が気に入ってるのよ? そりゃ、向こうへの未練は多少あるし、やることがなくて暇を持て余すことなんていっぱいあるけど。でも、ここの生活も楽しいの。ここの人たちはみんな優しいし、桜もいるし。私は、ここの生活が嫌だなんて思ったことはない。それだけは、誤解しないでよね。」
桜理が悪戯っぽく笑う。
実は、それに淡い微笑で答えた。
「ありがとう。」
その先に続く言葉は、そっと飲み込んだ。
きっと、そうはいかない。
自分は、永遠に桜理に縛られるだろう。
過去を思い出してはいくらでも後悔し、自分を呪うに違いない。
いつまでも、この心は罪の意識に苛まれる。
でも、それを嫌だとは思わなかった。
相手が桜理だというだけで、どんなことにも耐えられると思える。
桜理は自分にとって、自分以上に大事な人だから。
『お前が桜理を選んだ。そのことが、この悲劇を生み出した全ての原因だ。』
途端に、レティルの言葉が生々しくよみがえる。
胸が切り裂かれるように痛んで、表情が強張りかけた。
特別なんて、作らなければ……
そんな後悔があふれそうになるけど、桜理を想う気持ちに逆らうことはできない。
一度知ってしまったら、知らなかった時には絶対に戻れないのだから。
「そういえばね、実。私、実に一つ訊きたい事があるの。」
桜理がそう切り出したので、実は目だけで続きを促した。
桜理は何度か躊躇う仕草を見せた後、おずおずとその口を開く。
「あなたたちって、どうなってるの?」
訊ねられたのは、そんなこと。
想定外の内容に、思考回路が止まりかけた。
言葉の意味を掴みあぐねて、しばし無言のまま時が過ぎる。
桜理は、複雑そうにこちらを見つめている。
〝こんなことを訊いてもよかっただろうか?〟
闇色の瞳が、桜理の気持ちをありありと物語っていた。
そして、その表情を見た瞬間、桜理の質問の意味を理解する。
「もしかして………俺たちのこと?」
自分の胸を指す実。
それに、桜理はこくりと頷いた。
「私は、昔の実と今の実は全くの別人だと覚悟してたの。あの人にそう言われたっていうのもあるけど、変わってしまった実を見て傷つきたくなかったから。でも……私には、あなたたちには区別できるようなものがないように見えるの。」
「……じゃあ、桜理には今の俺がどんな風に見えてた?」
「……そのまま。」
実の問いに、桜理はそう告げる。
「そりゃあね、昔と比べて棘がなくなったなとか、嘘をつくのが上手くなったなっていうのはあるの。でも、言ってしまえばそれだけ。他の人とは距離を置くのに、私だけは特別扱いしてくれる。そんな根本的なところは何も変わってない。」
「そう…。そうかもしれないね。」
「だから、教えてほしいの。今の実と昔の実、その違いは何? 私は、何を頼りにあなたたちを見分ければいいの? 正直、今話している実がどっちの実なのか……私には、判断がつかない。」
「………」
桜理の言葉を聞き、実は静かに目を閉じた。
まあ、混乱するのも無理はないか。
今の話を聞くに、桜理は自分が背負っている運命までは知らないのだろう。
自分たちが決裂するに至った背景を知らなければ、自分たちの関係性も理解しにくい。
きっと、これまで内心ではかなり戸惑いながら自分と接していたはず。
実は、自分と彼の関係について簡単に説明した。
自分たちが生まれた経緯。
それによって今の自分が抱える問題。
そして、桜理のことに関してだけは、自分たちの想いが完全に同じであること。
難解な実の話に、桜理は真剣に耳を傾けている。
長い話に一区切りついたところで……実は、急に押し黙った。
桜理が〝どうしたのか〟と首を傾げる。
実は、その視線を嫌がるように顔を背けた。
「………」
正直、迷っていた。
『私は、何を頼りにあなたたちを見分ければいいの?』
未だに解消されていない桜理の疑問。
その疑問が、胸の中に重い澱を落とす。
果たして、今自分が感じていることを桜理に―――いや、他人に言うべきなのだろうか。
このことを話せば、皆が余計に自分から離れられなくなってしまうかもしれない。
ならば、このことこそ自分一人で抱えているべきだと思う。
自分は、また同じ過ちを繰り返すの?
そして、桜理のような悲劇を再び誰かに起こしてしまうの?
そんな自問が、たまらなく怖い。
なら、秘密を打ち明ける〝特別〟なんて、もう二度と……
思考は孤独を選ばせるかのように巡るばかり。
そんな自分の前で、桜理は根気よくこちらが口を開くのを待っていた。
ふとした拍子に見た桜理の瞳。
その深い闇色に、孤独に走ろうとする思考が吸い込まれるような気がした。
この瞳からだけは、逃げてはいけない。
これ以上、彼女を傷つけてしまわぬように。
元々、昔からこの目には嘘をつけなかったんだ。
強がりを見せることも、ただの空気のように無視することもできなかった。
そうすることを心が嫌がった。
理由は単純だ。
―――桜理が、ただ一人の特別だから。
特別だと認めたから、心を許した。
心を許したから、ありのままの自分でいられた。
多くは望まない。
桜理の笑顔を見ていられれば、それだけでいい。
笑う彼女と共に過ごしている間だけでいいから、この安らぎに身を委ねていられたら―――
それは、今も心の奥に根深く残る、泣きたくなるほどに切ない願い。
ここまで桜理を特別視していたとは、さすがに自分でもびっくりだ。
ここまで来ても揺らがない自分の気持ちに、最早観念するしかない。
「桜理……驚かないで聞いてほしい。」
ようやく、秘密を打ち明ける覚悟を決める。
「実は―――俺にも、よく分からないんだ。ここにいる俺が、一体どっちなのか。」




