囁かれる甘い毒
「そん……な……」
衝撃の事実を知って呆けた実の手が、レティルの胸ぐらからするりと落ちる。
(桜理の未来を潰したのは、やっぱり俺だったの…?)
桜理を忘れて彼女から逃げたことが最大の過ちだと思っていたけど、本当はその前からずっと間違え続けていたってこと?
そもそも、自分が桜理に心を許さなければ。
彼女を大事だと思わなければ。
そうすれば、桜理はこんなにつらい道を歩まずに済んだ…?
(俺は、独りでいなきゃいけなかったんだ……)
愉快でたまらないのか、レティルがさらに笑い声を漏らした。
彼は実の頬をなでていた手を顎に滑らせると、その蒼白な顔を上向かせる。
「いい表情だ。お前のそんな顔が見られるとは、桜理は私の想像以上に役立ってくれたようだな。」
どこか愛しそうに、レティルが目を細めた。
一方の実に、抵抗する気力はない。
「お前は……何がしたいんだ。そんなに……そんなに、俺を器にしたかったのか…?」
ぼんやりとした頭のまま、虚ろになった声で訊ねる。
〝運命から逃れた子供も面白い。お前の子供を次の器にしよう〟
レティルが自分を器に指名した時、彼がそう言っていたと拓也から聞いた。
そう聞いた時は、レティルが宿る体の限界が近くなった際に、たまたま〝鍵〟として格別強力な魔力を持っていた自分に白羽の矢が立っただけかと思っていた。
でも、今の話を聞けば現実は違ったんだと嫌でも分かる。
レティルは自分を正式に器として指名するよりもずっと前から、自分という存在に目をつけていた。
もしかすると、自分が禁忌の森でひっそりと生まれた時から。
自分が地球へ逃げることは、レティルにとって都合が悪かった。
だから、自分をこの世界に呼び戻すために桜理をさらった。
桜理をアティと繋いだのも、彼女の記憶を地球の人々から消し去ったのも、彼女を助けに来た自分から〝桜理を地球に帰す〟という選択肢を奪うため。
桜理がこの世界でしか生きていけないという状況を作り上げれば、自分もこの世界で生きることを受け入れざるを得ない。
そこまでしてでも、レティルは自分をこの世界に繋ぎ止めておきたかったのだ。
桜理をさらって、父を国から追い出して―――自分の大事な人をとことん踏みにじって、この神は自分をどうしたいのだ。
実の問いかけに、レティルは軽く肩をすくめた。
「さてな。どう思うかはお前次第だ。……ただ。」
レティルは、実の耳元に口を寄せる。
「お前は、自分の思うとおりに行動すればいい。私に従いたくないなら、とことん抵抗してみせろ。お前が動きたがらないなら、動かざるを得ない状況を作ろう。必要なら、いくらでも桜理を利用する。……それとも、どうする? 桜理の安全のために、いっそのことこのまま私の下に下るか?」
レティルは囁く。
実は、それに思わず目を閉じた。
聞いてはいけない。
これは、甘い毒だ。
確かに、レティルの元に下って彼に従って動くだけの人形と化せば、これ以上誰も犠牲にしなくて済むのかもしれない。
桜理の命は保証できた。
それならもう、意地を張る必要などないのでは?
心の脆い部分が、そんなことを言う。
実は黙したまま、レティルの手から逃れた。
一方のレティルは、素直に実の顎から手を離す。
「俺は……」
ぐっと。
両手を力強く握り締める。
―――いや、だめだ。
「お前の思いどおりにはならない。どこまでも抗ってやる。」
この神の意志に従ってはいけない。
目の前にいる神が誘うのは、きっと破滅への道だ。
レティルを睨む実。
その瞳はどこか静かで陰鬱としていたものの、強い光を宿していた。
実からの敵意に満ちた視線を一身に受けながら、レティルは声高らかに笑う。
「やはり、お前はこうでなくてはならん。さあ、もっと私を愉しませてくれ。期待しているぞ。」
「その期待に応える気はない。」
実はつっけんどんにそれだけ言うと、踵を返した。
その瞬間、レティルがふと笑い声を収める。
「どうかな? お前が見たものには、何が映っていた?」
突飛な内容。
何を言っているのか掴めない、曖昧な物言い。
しかし、レティルが何を意味してそう問いかけてきたのか、正確に理解できてしまった。
だからこそ、彼の言葉は自分を絶望の底に引きずり込もうと絡み付いてくるように思えて……
思わず、一度立ち止まってしまった。
「……何も映ってない。俺が壊すから。」
自分に言い聞かせるように呟くと、レティルはくすりと笑った。
「やってみるがいい。」
あくまでも明るいレティルの声を振り切るように、強く床を蹴って再び歩き出す。
その途中、廊下の惨状に言葉を失っていたサリアムと対面した。
こちらには、これ以上話をする余裕はない。
そういうわけで、サリアムの隣を無言で通り過ぎた。
事情説明を求められても無視を決め込むつもりだったのだが、彼はこちらに声をかけてこなかった。
多分、状況についていけなかったせいでタイミングを逃したのだろう。
こちらとしても、ありがたい展開だ。
部屋を出ていく実を、サリアムはまばたきを繰り返しながら見送るだけ。
そんな二人を眺めていたレティルは、実の姿が消えた途端に笑みの種類を変えた。
満足そうなその笑みに宿るのは、紛れもなく―――
<第7章 本当の気持ち>END 次章へ続く…




