逸る心と葛藤
静かに、ドアが開く。
それは、気配を極限まで殺したような本当に微かな音だ。
しかし、それよりもさらに静かな空気の中では、どんな微かな音でさえも大きく響いて聞こえてしまう。
時刻は朝の四時を回ったところ。
日はまだ昇っておらず、辺りは冷たく冴えた静寂と闇に満たされていた。
しんと張り詰めた空気が、そこにいるだけで自然と緊張感を引き立ててくる。
そんな空気の中、実は人一人が通れる程度に開いたドアの隙間から、壁一枚が隔てるその先へと体を滑り込ませた。
「……ふぅ。」
閉めたドアに寄りかかり、細く息を吐く。
数日前まで毎日のように過ごしていたはずなのに、自分の部屋を見るのがひどく懐かしく思えるのだから不思議だ。
感慨深い気分もそこそこに、薄暗い部屋の中を迷うことなく進んで目的のクローゼットへ。
そんな自分の耳に、規則正しい寝息の音が聞こえた。
無意識に、そちらへと目を向ける。
ベッドの上では、もう一人の自分が眠っていた。
今の自分とは正反対の、穏やかな寝顔で。
実は自分の身代わりである影に近寄ると、無言で手をかざした。
彼には、もう少し代役を担ってもらう必要がある。
そのためにも、魔力を十分に供給しておいた方がいいだろう。
ついでに、拓也たちだけではフォローしきれないであろう、細かい自分の性格や思考をインプットしておく。
影に対する用が終わると、実はクローゼットを開いててきぱきと身支度を整え始めた。
これから、どうしてもやらなければいけないことがある。
拓也たちに散々注意されたので、しばらくは言われたとおりに大人しくしておいたが、それに耐えるのも限界。
何もせずに休息を取る時間は、自分に苦痛しかもたらさないのだから。
拓也たちにこの行動を知られれば、再び厳戒態勢を敷かれてしまうのは必至。
安静にしていたものの、極度の精神疲労の影響か熱がなかなか下がらず、今も本調子ではないのだ。
正直なところ、動くのも億劫な状態である。
しかし、体調なんかどうでもいいと思えるくらい、自分の中で荒れ狂う衝動に急かされているのが現状で……
『会いたくはないか? 涼霧桜理に。』
何度も何度も脳裏に木霊して消えない、レティルの言葉。
それが、自分に休むことすら許してくれないのだ。
『お前が会いたいと望むなら、私がその手助けをしてやろうというのだ。』
記憶の声は心にねっとりと絡み付いて、自分を一向に離さない。
まるで、今も常に耳元で囁かれているかのような気分だ。
『気が向いた時で構わない。こちら側に来るといい。その時、私はお前を涼霧桜理の元へと導いてやろう。』
噛み締めた奥歯が、軋んだ音を立てる。
『もっとも、お前の中に〝行かない〟という選択肢はなさそうだがな。』
―――ガンッ
乱暴な音が静寂を破る。
実の拳がクローゼットの扉に打ち込まれた音だった。
「くそ…っ」
実の表情が、様々な感情に彩られて険しく歪む。
何もかも知っているかのようなレティルの口調が、癪に障って仕方ない。
彼の誘いに乗って動いていることが悔しい。
そして、レティルの言葉を覆せないことが、どうしようもなく情けない。
自力で桜理を捜すと言い切れたら、どんなに楽だっただろう。
けれども、あの時の自分には桜理を捜す有力な手がかりもなければ、レティルの手を振り払うだけの余裕もなかった。
何よりも―――桜理に会いたいと願う気持ちが、レティルを拒むことを許さなかった。
桜理がさらわれてから、この世界でもあの世界でも何年も過ぎた。
今さら彼女を捜したところで、どれくらいの時間がかかることか。
それに……もし、彼女がすでにこの世を去っていたら。
そんなことばかり考えて、この罪悪感には耐えるしかないんだと思っていた。
そんな時に、桜理に会える可能性を突きつけられたのだ。
それを拒むことなど、どうしてできようか。
闇雲に彼女を捜すよりも、レティルの情報に頼った方が確実性は高い。
しかも、彼が自信満々でああ言ったということは、桜理は確実に生きているのだ。
ならば、何を躊躇う?
そもそも、躊躇う資格が自分にあるとでも?
桜理に会いたいのなら、どれだけ不本意でも確実なものにすがるべきだ。
今回は、すがるべき情報源がたまたまレティルだっただけ。
冷静な理性はそう分析して、この現実に納得しようとしている。
けれど、胸の中には激しい怒りと悔しさがくすぶったままで……
割り切ってしまえば、一気に楽になるのは分かる。
でも、理性じゃ割り切れない心が悲鳴をあげている。
―――この言葉に従ってしまえば、運命から逃れられなくなるのではないか。
そんな危機感が、脳裏を埋め尽くす。
桜理に会いたい。
しかし、彼女に会ってしまえば、自分は心をもあの世界に囚われてしまう。
桜理を地球に連れ帰ることもできるだろうが、自分以外の人間が彼女を忘れてしまったこの世界で、果たしてそれが現実的かどうか。
考えれば考えるほど、複雑な気持ちが広がる。
どれだけ逃げても、どんなに拒絶して別の道を模索しても、定められた運命はどこまでもついてくるようで。
運命からは、絶対に逃げられない気がして―――
「………」
実は固く口を引き結んだまま、未だにクローゼットに打ち込まれている拳を見つめた。
―――本当に、桜理に会いに行くの?
怯えた心が、そう問いかけてくる。
だけど……
(もう、今さらだよ。)
何度考えたって、自分が取るべき行動は変わらない。
そうとしか思えない理由が、自分の手元にある。
(桜理のことからは、結局逃げられてないんだもん……)
クローゼットにかかっていた制服のとある一点をなでて、実は泣きそうな顔で目元を歪めた。
どこか諦めに似た気持ちになりながら、ふと目に入ったカーテンを少しめくる。
夜明けが近いのか、遠くの空がわずかに白んでいる。
そして、窓の外には相も変わらず桜の花びらが舞っていた。
「桜理……」
彼女に会えば、何かしらの答えが得られるだろうか。
自分でも出口を見出だせないこの葛藤に、決着をつけられるだろうか。
「もう、行かなくちゃ……」
ぽつりと呟いて、実は部屋を後にした。




