曇りのない視界で見る、自分の姿。
「ああ。」
リンドルもチェイレイもないのに、それでも人間をやり直したいのか。
その問いかけに、ディライトは静かに首を縦に振った。
迷いや躊躇いのない、即答とも取れる速さだった。
「どうして?」
実はただ、穏やかな口調で訊ねる。
その声には、否定も肯定も存在していなかった。
「君が、どうしてって訊くのかい? ずっと人間に絶望していた君なら、言わずとも分かると思うんだけどな。」
「……やっぱり、魔力と一緒に俺の記憶も取ってったんだ?」
特に驚くことではなかったので、実は肩をすくめて笑うだけだった。
なんとなく、そうだろうなと思っていたのだ。
先ほど本音をぶちまけた時、ディライトは何も対立意見を述べなかったし、自分がこう思う根拠を訊いてくることもなかった。
かといって、いきなり突拍子もない話を始めた自分に驚いて、言葉を失っている風でもなかった。
こちらを見つめる表情は、何もかもを悟ったように静かで。
愁いを帯びた瞳は、こちらに同情するかのように気遣わしげで。
ああ……
彼はもう、自分がどんな半生を歩んできたかを知ってるんだなって。
そこで、状況を察していた。
「少しだけだよ。今がいつで、ここがどこかを知りたかったから。でも、私が今人間をやり直そうと強く思っているのは、さっきのルティ君の言葉を聞いたからだよ。」
「俺の言葉?」
はて。
自分は何か、ディライトの心を揺らすようなことを言っただろうか。
小首を傾げる実を見るディライトは、深い憐憫を漂わせていた。
「ルティ君。君は今言ったじゃないか。人間が嫌いで、本気で生きたいと思ったことはないって。」
「うん。言ったね。」
「それが、どんなに悲しいことか分かるかい?」
「さあ…?」
そこで、実は理解に苦しむような表情を浮かべて虚空を見上げた。
「まあ、俺の気持ちが一般的じゃないことは認めるよ。でも、それが悲しいことなんだって言われても、いまいち実感は湧かないかな。だって―――」
ディライトに視線を戻した実は、こう告げる。
「俺には、それが〝普通〟だったから。」
実に、特に強がっている雰囲気はない。
ただ単純に、ここにある事実を言っているだけ。
そう語るように、薄茶色の瞳は純粋だ。
だからこそ、その言葉はディライトから瞬間的に言葉を奪った。
ディライトが反応できないでいる間にも、淡々とした実の言葉は続く。
「そりゃあね、地球での生活を壊されそうになった時は、なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだって、周りが疎ましくもなったよ? 俺は不幸だーなんて、そう思いもしたよね。でも、いざ昔のことを思い出しちゃったら……ねぇ。―――ああ、そっか…。地球での平和な暮らしの方がまやかしだったのかって。そう思ったよね。」
語りながら、過去に意識を向ける。
過去の自分とは決別するんだと、必死に言い聞かせてきた。
今の自分にしがみつきたくて、何度も考えた。
どうして自分は、普通に幸せに生きられないの?
地球にあった平和にすがりたいと願うのは、いけないことなの?
そう思って、何度悔しさや悲しみを噛み締めただろう。
だけど、その気持ちを誰かにぶつけることはできなかった。
殺意や悪意を向けられた時、自分を信じてくれと訴えることもできなかった。
―――まあ、仕方ないよね。
自分はどうせ、この世界じゃ殺されるだけの存在でしかないし。
何を言ったって、意味ないよなぁ。
胸を満たすのは、いつだって空虚な諦感。
幼い頃に感じていたはずの悲しみも感じなくなっていた。
当時は自分が過去に飲まれているんだって思って、その気持ちを無理やり見ないことにしていたけど……
幼い自分の姿を借りた彼が、自分とは全然違う存在だったと知って。
自分は人を殺していなかったって分かって。
レティルに追い詰められた末に、人間が嫌いだって認めて。
そうしてここに立っている自分の視界は、ものすごくクリアになっている。
だから、今なら分かる。
自分は、昔から根本的なところは何も変わっていない。
思い込みで目隠しをしていただけで、本当は〝鍵〟としての記憶を取り戻したあの瞬間から、この世に対する期待なんか捨てていたんだって。
殺すなら、さっさと殺してくれないかな?
下手に逃げ道とか残さないでよね。
それに気付いたら、生きなきゃいけなくなるじゃん。
殺すなら、徹底的に希望を絶って、これじゃあ死んでも仕方ないって思える殺し方にして。
それなら、俺が死んだことを誰も責められないでしょ?
あーあ。
誰か、早く俺を殺してよ。
正直……今の俺じゃ、この封印を守れる自信がないからさ……
胸の奥でくすぶる破滅願望が、気付いたら自分にそう思わせていた。
その度にその気持ちを振り払おうとしたけど、どうしても打ち消すことはできなかった。
それは決して、過去の絶望に飲まれていたからだけじゃない。
むしろあれは―――今の自分だからこそ抱いた気持ちだったと思うんだ……




