拮抗する気持ち
突然背後から放たれた声に、尚希たちを見送ってドアを見ていた拓也は飛び上がってしまう。
「みっ…実!? お前、起きて…っ」
「いつまで狸寝入りをしているのかと思いましたよ。」
驚く拓也とは対照的に、ハエルは呆れたように息をついた。
「あ、気付いてた? やっぱ、動物の勘ってすごいね。他のみんなはちゃんと騙せてたみたいなのに。」
悪戯っぽく笑い、実はベッドから降りた。
その動作は、これまでの無理を感じさせない軽いものだ。
「実、大丈夫なのか?」
「ん? ああ……さっきは尚希さんのげんこつで、一瞬意識が飛んだだけ。本当はすぐに気がついてたんだけど、なんか起きたらやばそうな空気だったからさ。ハエルに説明を押しつける形で、寝たふりを決め込んでたわけ。」
そこで鋭くなる実の表情。
「今日は、暢気に寝てる場合じゃないんだよね。あいつも、俺が起きたってとっくに気付いてるはずだから。」
「おい、実。」
拓也の咎めるような声が耳朶を打つ。
それで顔を上げてみると、声音とは全く違う、とても心配そうな表情がそこには広がっていた。
「………」
その表情を見て、つきりと胸が痛んだ。
しかし、それだけだ。
立ち止まっている暇などない。
実は静かに首を左右に振った。
それで、拓也の声と己の迷いを振り払う。
「だめなんだ、拓也。無茶なのは承知の上だし、周りを心配させてるのも分かってる。でも、今近付いてきてる嫌な気配……俺が眠ってなきゃ、来ることはなかったと思う。俺の責任なんだから、俺が始末をつけなきゃいけない。やめるつもりはないからね。」
言い切ると、瞬時に拓也の表情から揺れるものが消えた。
代わりにその表情は、波紋が立たない水面のように静かな色に彩られる。
相手の心をどこまでも見透かすような、じっくりと高みから静観するような紺碧色の瞳。
それが、まっすぐにこちらを捉える。
「なら、一つだけ訊いておく。―――死ぬことはないんだよな?」
この場を支配する空気が、急速に緊張を帯びていくような気がした。
嘘をつくことを許さないと、拓也の双眸が語っている。
いくら上辺だけの言葉でごまかしても、今の拓也にはそんなもの通じないかもしれない。
そう思わせるほどの威圧感が、拓也の全身から迸っていた。
「正直なところ、分からない。」
逡巡した結果、重たげな溜め息と共にそう告げる。
それと同時に、胸が空くような感覚に陥った。
―――死ぬかもしれない。
直接口にしなかったその可能性に、自分の奥底に眠る破滅願望がゆっくりと鎌首をもたげた。
まるで、水が地に染み込んでいくかのように脳内に広がる諦観。
この脱力感に全てを委ねられたら、どんなに楽なのだろう。
そんなことを思いつつ、実は伏せていた目を上げる。
「でも、自分から死にに行く気はないよ。そもそも、そう簡単に死ねないと思う。……この世界に戻ってきちゃった以上は、さ。」
この世界に再び組み込まれるからには、死ぬことすら許されない。
封印を解いた時に、あの子供はそう言って嗤った。
そして、その言葉の意味を、自分は心のどこかで知っている気がする。
自分は死ねない。
この世界での役割を果たし終えるまでは、死んで楽にはなれないのだ。
「………分かったよ。好きにしろ。」
しばらく実を見定めるように観察していた拓也が、ふいに目を閉じる。
拓也が出した想定外の結論に、実は思わず目をしばたたかせた。
「え……いいの?」
我ながら、間抜けな問いかけだと思う。
案の定、拓也は呆れたような半目でこちらを睨んできた。
「お前な…。引く気もなかったくせに、何言ってんだ? 何も言わずに暴走するならもちろん止めたけど、ちゃんとした理由があるんだろ? なら、無理に止めはしねぇよ。実は、自分が正しいと思うことを精一杯やればいい。」
拓也はそこまで言うと、少し間を置いて「でも…」と続ける。
「助けが必要な時は、ちゃんと言ってくれ。お前は、一人じゃないんだからさ。」
当然のように向けられる微笑み。
それを真正面から見た実は目を見開いて、その場に立ち尽くしてしまった。
先ほど、ハエルは己にできることは自分を独りにしないことだけだと言った。
そして今、拓也は自分は一人ではないのだと言う。
自分を支えてくれる誰かの存在。
それは幼い自分が遥か昔に捨てたはずのものであり、そんな昔の自分に抗おうとする今の自分が、無意識に遠ざけようとしながらも、その反面でやっぱり欲しているものでもあった。
この言葉に甘えてしまいたい。
でも、この言葉を受け入れたら絶対に後悔することになる。
助けてほしい。
でも、手を伸ばすことが怖くてたまらない。
拮抗する気持ちが、身動きできないくらいに脳内で交錯して絡み合う。
拓也の言葉に返す言葉が見つからずに、じわじわと追い詰められる心を救ったのは―――皮肉なことに、全身が震えるような不吉で嫌な気配だった。
背筋が戦慄し、実は反射的な速さでその方向を振り仰ぐ。
「実…?」
拓也が首を傾げるが、実はそれに答えることなく一直線に窓へと駆け寄った。
日はもう西に傾いており、低く射すオレンジ色の夕日がまぶしい。
屋敷からまっすぐに伸びる大通りの先を目で追って、実は深い溜め息をついた。
「……やれやれ、思ったよりも早いお着きだこと。」
「え…? 何が?」
拓也が実の後ろから、その視線が向かう先を追う。
懐疑的だったその顔は、一瞬で驚愕に取って代わった。
「なっ……なんで…っ」
「嫌な気配が来てるって言ったでしょ。」
予想はできていた来客だ。
目を剥く拓也に構わず、窓から離れる実。
その表情は、触れれば切れてしまいそうなほどに冷たいものだった。




