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記憶の枠組み


大学図書館の地下書庫は、乾燥した紙の匂いと、空調の低い唸りだけが支配する静寂の空間だった。中村健治は、積み上げられた社会学の専門書に囲まれ、自身の修士論文の構想に行き詰まっていた。ディスプレイに表示された論文計画書のタイトル、『戦後日本における社会構造の変容とアイデンティティ形成に関する考察』は、我ながら無味乾燥で、血の通わない言葉の羅列にしか見えなかった。


彼は知的であると自負していたが、その知性は感情から身を守るための鎧のようなものだった。人間の経験は、客観的な分析と理論の枠組みによって、きちんと分類し、理解できるはずだ――それが、中村が信じて疑わない「嘘」だった 。彼の「欲求(Want)」は、誰にも批判の隙を与えない、明晰で客観的な論文を書き上げること。しかし、彼自身がまだ気づいていない魂の「渇望(Need)」は、もっと混沌として、痛みと共感を伴う生々しい経験の理解にあった 。


この研究テーマに固執するのには、個人的な理由があった。彼の亡き祖父は、国鉄の鉄道員だった。しかし、民営化を境に寡黙で内向的な性格になり、家族との間にさえ見えない壁を築いてしまった。その沈黙の理由は、家族にとって解けない謎として残された。中村は、その個人的な謎を、感情的に向き合うことを避け、社会学という客観的なレンズを通して解明しようとしていた。


「中村君、少し行き詰まっているようだね」


背後からの穏やかな声に、中村ははっととして振り返った。指導教官の高橋教授が、心配そうな眼差しで彼の手元を覗き込んでいた。


「教授……。はい、テーマは決まっているのですが、どう切り込んでいけばいいのか」


高橋は中村の隣の椅子に腰を下ろし、ディスプレイに目をやった。「『社会構造の変容』か。壮大なテーマだが、このままではただの文献研究の域を出ないかもしれない。君は、モーリス・アルヴァックスを読んだことがあるかね?」


「はい。集合的記憶論の……」


「そうだ。彼は『学ばれた歴史』と『生きられた歴史』を区別した」高橋は続けた。「君が今やろうとしているのは、書物から得られる『学ばれた歴史』の分析だ。だが、社会の変容が個人の魂にどう刻まれたかを知るには、『生きられた歴史』、つまり人々の生の声に耳を傾ける必要がある」


高橋の言葉は、中村の鎧に小さなひびを入れた。「生の声、ですか」


「フィールドワークだよ。実際にその時代を生きた人々の話を聞くんだ。特に、戦後の大きな変化を直接体験した世代にね。君のお祖父さんのように」


祖父、という言葉に中村の心臓が小さく跳ねた。高橋はそれに気づかぬふりをして続けた。「君の研究は、単なる学術的な分析に留まらない可能性がある。これは、失われつつある記憶を未来に繋ぐための、重要な証言の記録になるかもしれない」


高橋の言葉は、中村の心に重く、そして深く響いた。それは、彼がこれまで築き上げてきた知的で安全な砦から、一歩踏み出すことを促す挑戦状のように聞こえた。彼の学術的な探求が、実は個人的な探求と分かちがたく結びついていることを、高橋は静かに示唆していた。中村は、目の前に広がる未知の領域への不安と、同時に抗いがたい好奇心を感じながら、ゆっくりと頷いた

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