1-33. エディンバラ城(前編)
「もうこんな時間か……」
目を覚ましてスマホの画面を点けると、既に時刻は11時近かった。
「うう……寒……」
半分空いたカーテンの奥で、窓は結露している。お腹は空いていたけれど、あまり食欲はない。ぼくは毛布から覗いていた足をひっこめると、再び目を閉じた。季節は、もうすっかり冬だった。
今日は練習もオフなのをいいことにうたた寝を決め込んでいると、ノックもなしに玄関のかぎが開けられる音がした。せっかちな早歩きの足音が近づいてくる。どうしたんだろうか。今日はオフのはずだけど――
「リサさん……。今日はお昼ご飯いらな……寒っ! ちょっと、閉めて! 閉めて!」
蓑虫のように布団にくるまって叫ぶぼくを、リサさんはぎろりと睨みつけた。開け放たれた窓から、強い風と冷気が容赦なく部屋に吹き込んでくる。
「いい加減起きてください。休みの日でも正しいリズムで生活を送るのは、アスリートとして基本的なことです」
「や、休みの日くらい好きにさせてよ!」
顔まで毛布を引き上げ、抗議の視線を送る。すかさず、冷たい視線と容赦ない舌打ちが飛んでくる。
「たいして試合にも出てないくせに……」
「ううっ……」
そう、12月の初めにあったウォーリアーズ戦で途中交代させられて以降の数試合、ぼくはスタメンから外れ続けていた。マルティンが復帰しポジションが無くなったショーンとともに、ベンチを温める生活に逆戻りだ。
ハイバーズ戦で良い感触をつかんで、これからが本番だと思った矢先のことで、正直少し落ち込みはした。毎日死んだような顔で練習に来るショーンほどではないけど……。
「いいから、早く着替えてください。今日は出掛けますよ」
「え!? 外に出るの?」
よく見ると、リサさんは黒のロングコートを着て、マフラーまでしている。
「一人で行って来てよ……。せっかくの休みなんだから家に居たいよ……」
「……」
「ちょっ! やめて! 行く! 行くから!」
ぼくの制止も虚しく、リサさんはリビングの一番大きい窓を開け放った。海から吹く強く冷たい北風が部屋の暖かい空気をすべて運び去り、ぼくはしぶしぶ布団から這い出した。
――――――
ぼくたちは、二階建てのバスに乗り、新市街に移動した。ひとまず昼食を済ませないとということで、リサさん行きつけのカフェに入り、スープとサワードウのパンを注文した。リサさんは朝食を食べたらしく、コーヒーだけを頼んで席に着いた。
サワードウとはライムギ粉と小麦粉でつくる伝統的な発酵種のことで、これで作ったパンは少し酸味があってスープとよく合う。ぼくもリサさんが買ってきてくれて初めて食べたんだけど、独特の風味が気に入って朝食の定番になっている。
リサさんはコーヒーを一口飲むと、コートを脱いで椅子に掛けた。いつものチームジャージ姿とは違うアイボリーのリブニットが、身体のラインを柔らかく強調していた。
「? どうかしましたか」
「あ、いや、もうすっかり冬だなーと思って……」
「……そうですね」
ぼくは慌てて窓の外に目を遣る。リサさんは、人々が行き交う石畳の街路を眺めながらコーヒーに口をつけた。建物の窓には赤と緑のリースが飾られていて、街はもうクリスマス一色だった。この時期、夜になると、世界遺産の街は一層煌びやかに輝く。曇天の多い冬のスコットランドは、日が暮れてからの方が明るいくらいだ。
「それで、今日はどこに行くの? こんな寒いのにわざわざ……」
「特に決めてはいませんが――」
ぼくが恐る恐る放った嫌味を華麗にスルーし、リサさんはコーヒーにミルクを注いだ。
「せっかくなので少し観光でもしませんか? こちらに来てまともに外出していないでしょう?」
「それは、まあ、確かに」
思い返せば、スコットランドに来てから4か月以上たつが、家と練習場の往復以外に外出した記憶があまりない。最近やっと慣れてきたが、当初は英語がほとんど分からなかったということもあるし、風景が日本と違いすぎてそれだけで満足していた。
なにせ、エディンバラは街のかなり広い範囲がまるごと世界遺産に登録されているような珍しい場所だ。今いる新市街だってその一部で、“新”といっても建設されたのは200年も前のこと。こんなに古い建物でいまだに多くの人が生活しているなんて、日本ではあまり想像できない。
「それにしても……」
リサさんは、ぼくの頭の先から胸までを舐めるように見て、ため息をつく。
「あなた、休みの日でもベンチコートを着ているのですか……」
「しょ、しょうがないじゃん! 冬服なんてほとんど日本において来ちゃったんだから!」
スコットランドに来るときは、ほとんど準備する期間もなく、着の身着のまま飛行機に飛び乗ったようなものだ。あの時は夏だったし、当然、冬の衣服なんて一着も持っていない。冬服を送ってもらうために父さんに連絡するのも嫌だし……と、そんなこんなで、今は手持ちの服の中で最も暖かいベンチコートを着ている。なんならその中は支給されたチームロゴ入りのパーカーだ。
リサさんが小さな声で呟いた。
「……本当にベンチがお好きなんですね」
「ひ、ひどすぎる!」
――――――
「ちょ、ちょっと! 何なのここ!」
ぼくは、先を歩くリサさんに抗議の声を上げるが、彼女は聞く耳を持たない。リサさんはカフェを出ると、迷いなく新市街の道を進み、ある一角で足を止めた。
そこは商店街のように道沿いに店が立ち並ぶ通りだった。しかし、その雰囲気は明らかに洗練されていて、商店街やさっきまで歩いていた古風な街並みではない。ジョージアン風の石造りの建物をベースにしながらも、その外壁に一切の汚れはなく、店の床は大理石で貼られている。
極めつけは、立ち並ぶ店の看板。Louis Vuitton、Gucci、Burberry、OMEGA……どの店も、ファッションや自分の身に着けるものに興味のないぼくでさえ聞いたことがある名前ばかりだ。
リサさんは、その中のとりわけ高級そうな店に何の躊躇もなく入ろうとする。
「待って! ちょっと待って! 待ってってば!」
もちろん、彼女がぼくの制止に耳を貸すはずもない。リサさんを見て、ウォーリアーズの選手たちと同じくらいの体格の黒スーツが恭しくお辞儀をしてドアを開ける。
「ほら、早くいきますよ」
「いや! やめて! 嫌だぁぁぁぁ」
もちろん、抵抗が報われることはない。そうして、ぼくは未知の空間に引きずり込まれたのだった。




