第94話「海底都市ムーと、時間が通貨の世界」
遺跡の壁画を解読したのは、ユイだった。
未知の文字は、シャングリア宗家の古語文献に断片的な対応表が残っていた。ユイが幼少期に暗記させられた儀礼用の祝詞の中に、同じ字体の単語が三つ含まれていたのだ。そこを手がかりにアリスが文献を突き合わせ、二週間で壁画の七割を解読した。
北壁の点線に添えられた文字は——「海底路」。
三つの大陸を繋ぐ海底の道。そして三つ目の大陸の名は——「ムー」。
南壁の詳細図には、海底路の入口の位置が記されていた。中継島の東岸、海岸線から約二百メートル沖、水深四十メートルの海底。
「行くのか」とギムリが聞いた。
「行く」とルークが答えた。
ガチャを回した。単発一回。出たのはSRアイテム「深海の肺」。飴玉型。舐めると二十四時間、水中呼吸と水圧耐性が付与される。四人分を追加で三回回し、NとRに混じってSRがもう一つ出た。残り二人分はNランクの「水泡膜」で代用。効果は六時間。時間制限はあるが、調査には足りる。
ルーク、ザック、ユイ、ギムリの四人が潜った。アリスはサンアンド領で通信待機。
* * *
水深四十メートルの海底は、暗かった。
魔法灯の光が届く範囲は半径五メートル。それ以上は濃紺の闇。水温は低く、肌を刺すような冷たさを水泡膜が遮断している。
海底路の入口は、すぐに見つかった。
岩礁の間に、灰色の素材で作られたアーチ型の門が立っていた。遺跡と同じ素材。門の上部に、円形の紋章が刻まれている。空白の円——三つ目の大陸の記号。
門をくぐると、道が始まった。
幅約四メートル。両側に低い壁。天井はない。海水の中を、灰色の道がまっすぐに南へ伸びている。道の表面にはうっすらと光る苔のようなものが付着しており、魔法灯がなくても足元は見えた。
歩いた。海底の道を、四人で歩いた。
水の中を歩く感覚は奇妙だった。深海の肺と水泡膜のおかげで呼吸も視界も確保されているが、身体にかかる水圧と浮力が、一歩ごとの感覚を陸上とは別のものにしている。
三十分ほど歩いた頃、ザックが前方を指さした。
「ルーク殿——光です」
道の先に、光が見えた。青白い、柔らかい光。近づくにつれて光量が増し、やがて——視界が開けた。
海底路が終わり、巨大な空間に出た。
水泡だった。
直径およそ五百メートルの、巨大な水泡。海底に半球状の空気の膜が張られ、その内側に——都市があった。
* * *
最初に目に入ったのは光だった。
天井にあたる水泡の膜を通して、海面からの光が拡散し、都市全体を青白い柔光で包んでいる。太陽光が海水で濾過され、影のない均一な明るさになっている。朝も昼も夕方もない、一定の光。
建物は珊瑚だった。白い珊瑚を積み上げた低い建造物が、同心円状に並んでいる。最も外側の円が住居。内側に向かうにつれて建物が大きくなり、中心に——広場があった。広場の中央に、大きな珊瑚の柱が一本立っている。柱の表面に、文字が刻まれていた。遺跡と同じ文字。
人がいた。
水泡の内側で、人々が暮らしていた。肌の色はやや青みがかった白。髪は銀色か薄い緑。服は海藻を編んだような薄い布。裸足。耳の後ろに、鰓のような器官が見える。
四人が海底路から水泡の内部に踏み入った瞬間、周囲の人々の動きが止まった。全員がこちらを見ている。驚きの表情。しかし——恐怖はなかった。敵意もなかった。ただ、純粋な驚き。
一人の老人が、広場の方から歩いてきた。背は低く、痩せていて、銀色の長い髪を後ろで結んでいる。目は大きく、瞳の色は薄い青。
老人がルークの前に立ち、何かを言った。
聞き取れなかった。言葉は聞こえるが、意味がわからない。翻訳魔法の万国舌は、この言語に対応していなかった。
「——ユイ、古語で通じるか」
「やってみます」
ユイが宗家の儀礼用古語で挨拶を試みた。老人の目がわずかに動いた。通じてはいないが、何かを認識したらしい。老人が右手を上げ、人差し指で空中に文字を書いた。光る文字。遺跡の壁画と同じ字体。
ユイが読み上げた。
「——『ようこそ。あなたたちは、上の道から来たのですか』」
「上の道。海底路のことだな」
「はい。——返事を書きます」
ユイが同じ古語の字体で空中に文字を書いた。万国舌では音声翻訳ができなくても、文字の対応表があれば筆談は可能だった。
筆談が始まった。
老人の名はエルダ。この都市の名は「ムーリア」。ムー大陸圏の、現存する最後の都市。
かつてムー大陸は海上にあったが、三千年前の大変動で海底に沈んだ。水泡技術によって一部の都市が生き残り、ムーリアはその唯一の残存都市だという。人口は約八百人。海底で完結した生活圏を維持している。
外部との接触は——三百年以上、途絶えていた。
* * *
エルダの案内で、ムーリアを歩いた。
最初に気づいたのは、通貨がないことだった。
広場に面した場所に、市場のような空間があった。珊瑚の台の上に、海藻、貝、魚の干物、編んだ布、小さな道具類が並んでいる。人々がそれらを手に取り、持ち去っている。しかし——対価を払っている様子がない。
「ザック、あの取引——金を渡していないように見えるが」
「見えます。——物々交換にも見えません。一方的に持っていっているように見えます」
ルークはエルダに筆談で尋ねた。
「取引に通貨は使わないのか」
エルダの返答。
「『通貨? 金属の板のことですか。我々は使いません。ムーリアの通貨は——時間です』」
時間。
エルダが広場の中央に立つ珊瑚の柱を指した。柱の表面に、名前と数字が刻まれている。八百人分。全住民の名前と、その横に——数字。
「『これは時間台帳です。一時間の労働は、一時間分の信用になります。信用がある限り、市場から必要なものを受け取れます。一時間魚を獲れば、一時間分の信用。一時間布を編めば、一時間分の信用。一時間子どもに読み書きを教えても、一時間分の信用。全ての労働は、等しく一時間です』」
ルークは柱の数字を見つめた。
「全ての労働が等価——医者も漁師も教師も同じ一時間?」
「『はい。一時間は一時間です。何をしたかではなく、どれだけの時間を共同体に捧げたかが、信用になります』」
ルークは腕を組んだ。
タイムバンキング。前の世界で聞いたことがある概念だった。一九八〇年代にアメリカの法学者エドガー・カーンが提唱した代替経済システム。一時間のサービス提供が、他者から一時間のサービスを受ける権利になる。通貨を介さない、時間の等価交換。
理念としては美しい。全ての労働を等しく評価することで、市場経済では見えにくい家事や介護や教育の価値を可視化する。しかし——
「エルダ殿。一つ聞きたい。一時間の漁で魚を百匹獲る者と、十匹しか獲れない者がいた場合——その差はどう扱われるのか」
エルダの返答は、短かった。
「『差はありません。一時間は一時間です』」
「熟練者と未熟者の成果が同じ評価になる。——それで、不満は出ないのか」
エルダはしばらく考え、それから文字を書いた。
「『出ません。なぜなら、ムーリアでは——誰も他人より多く持とうとしないからです。必要なものを、必要なだけ受け取る。それがムーリアの掟です』」
ルークは黙った。
完全な等価交換。能力差を無視した時間ベースの経済。成果主義の対極。人口八百人の閉じた共同体だからこそ成立する仕組みだろう。全員が互いの顔を知り、誰が何をしているかを把握できる規模でなければ、信頼は維持できない。
同時に——脆い仕組みでもあった。
「ザック」
「はい」
「柱の数字をよく見ろ。全員の信用時間を記録しろ」
ザックが柱に近づき、数字を読み始めた。そしてすぐに、顔色が変わった。
「ルーク殿。——数字に偏りがあります。上位の二十名ほどが、平均の三倍以上の信用時間を持っています。逆に、下位の百名ほどは——信用がほぼゼロです」
「ゼロ?」
「はい。直近の記録が数ヶ月前で止まっている名前が複数あります。——労働していない、ということでしょうか」
ルークはエルダを見た。エルダの表情は変わっていなかった。穏やかな、しかしどこか——疲れた顔。
「エルダ殿。信用がゼロの住民は、市場から何も受け取れないのか」
「『受け取れます。ムーリアでは、信用がゼロでも飢えることはありません。最低限の食事と住居は、共同体が保障します』」
「では、信用がゼロでも生きていけるなら——なぜ働くのか」
エルダは文字を書く手を止めた。
長い沈黙の後、こう書いた。
「『……それが、今のムーリアの問題です』」
* * *
エルダが四人を自宅に招いた。珊瑚の壁に囲まれた、四畳半ほどの小さな部屋。海藻の茶を出された。味は薄かったが、温かかった。
エルダが語った——正確には、書いた——ムーリアの現状。
人口八百人のうち、定期的に労働しているのは約五百人。残り三百人は、信用がゼロのまま、最低保障で暮らしている。若年層に多い。働かなくても生きていけるのだから、働く理由がない。時間通貨の仕組みは機能しているが、参加者が減り続けている。
生産力は年々低下している。漁獲量は十年前の七割。水泡膜の維持に必要な魔力珊瑚の培養も、担い手が減って品質が落ちている。このままでは——あと二十年ほどで、水泡の維持が限界に達する。
「共有地の悲劇だ」ルークが呟いた。
コモンズの悲劇。共有資源を誰もが利用できる状態にすると、個人は自分の利益を最大化しようとし——あるいは、ムーリアの場合は労力を最小化しようとし——結果として共有資源が枯渇する。
時間通貨は美しい理念だが、「働かなくても生きていける」安全網が、逆に労働参加のインセンティブを消してしまっていた。
前の世界の経済学なら「モラルハザード」と呼ぶ現象だ。
「ルーク殿」ザックが小声で言った。「これは——サンアンド領の問題とは正反対ですね。サンアンド領では休ませることが課題だった。ここでは——」
「ここでは、働く理由を見つけることが課題だ。——休みすぎて壊れる社会。ブラックの反対側にある、もう一つの壊れ方だ」
ルークはエルダの顔を見た。穏やかで、疲れた顔。三百年以上外部との接触を絶ち、閉じた水泡の中で——ゆっくりと、静かに壊れていく社会を見守ってきた老人の顔。
「エルダ殿。俺たちに何ができるかは、まだわからない。だが——もう少し、この都市を見せてくれないか。見て、記録して、考える。それが俺のやり方だ」
エルダは頷いた。
「『どうぞ。見てください。——あなたたちは三百年ぶりの客人です。時間なら、いくらでもあります』」
時間なら、いくらでもある。
その言葉が、ルークの耳に残った。




