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第82話「工場の子どもたち」

この日の記録は、ザック・ヴァレンハイトが書いた。


ルークの指示ではない。アリスの命令でもない。ザックが自分の意志で、自分の羊皮紙に、自分の言葉で書いた。サンアンド領の書記として三年間ペンを握り続けた男の、最も個人的な記録。


以下はその記述に基づく。


午前四時。まだ暗い。


浮遊都市の客室を抜け出した。ルークは隣室で眠っている。昨日の鍵盤施設の調査から戻って以来、ルークは図面と数字に没頭していた。地熱タービンの設計。代替エネルギーの計算。鍵盤を止めるための、論理の武器を鍛えている。


俺には、その武器がない。


数字は読める。書類は書ける。交渉の三原則も暗記している。


だから——俺にできることをやる。


前回、ルーク殿と二人で鍵盤施設を見た。地下の部屋。三十脚の椅子。管に繋がれた大人たち。あの光景は、今も瞼の裏に焼きついている。


しかし、あの日見たのは「C区画」の一室だけだった。掲示板にはA区画、B区画、C区画、D区画と記載があった。全部で四区画。ルーク殿が見たのはその四分の一。


残りの三区画に、何がある。


それを確認するのが、今日の目的だ。


ルーク殿には言っていない。言えば止められる。「危険だ」とは言わないだろう。


灰色の麻布を被り、背中の番号は前回と同じ3892。炭で書いた数字は二日経っても消えていなかった。


廃棄物投下口から地上に降りた。


午前五時。ラーシャの下位民街。


掲示板に朝の業務指示が焼きつけられる前の時間帯。路地には人影がまばらだ。早起きの労働者が数人、無言で港に向かっている。灰色の服。番号の背中。誰も俺を見ない。灰色の服を着ていれば、この街では透明人間になれる。


港の第三倉庫。奥の鉄の扉。前回と同じルートで地下に降りた。



C区画の前を通過する。前回見た部屋だ。


通路を北に進む。地下通路は思ったより広い。天井は高く、壁面の結晶体が一定間隔で薄い光を放っている。保守作業用の通路だろう。鍵盤のメンテナンスをする人間が通る道。


B区画の扉。閉じている。取っ手に手をかけた。重い鉄の扉が、軋みながら開いた。


中は——C区画と同じ構造だった。円柱形の中央装置。椅子。管。繋がれた人々。三十脚。すべてに人が座っている。


違いは一つ。


C区画よりも、人が小さかった。


最初は、意味がわからなかった。


椅子が小さいのだと思った。別のサイズの椅子を使っているのだと。しかし、近づいて見れば——椅子のサイズは同じだった。座面も背もたれも肘掛けも、C区画と同一の規格。


小さいのは、椅子ではない。


座っている人間だ。


子ども。


灰色の麻布を着た子どもたちが、大人用の椅子に座っていた。足が床に届いていない。細い腕に管が繋がれ、青白い光が脈動しながら流れ出している。


数を数えた。数えなければいけないと思った。ルーク殿ならそうする。感情の前に、まず数字を記録する。


二十八人の子どもが、鍵盤に繋がれていた。


年齢は——正確にはわからない。最年長で十二、三歳。最年少は——。


俺の足が止まった。


最前列の椅子に座っている子どもを見た。五歳か、六歳か。膝小僧が椅子の縁から突き出している。足がぶらぶらと垂れている。管が右腕と首の裏に接続され、接続部の皮膚が紫に変色している。目は閉じている。眠っているのか、意識がないのか。


俺の視界が歪んだ。


路地裏は冬だった。石畳が冷たく、腹が空いていた。ゴミ箱を漁り、半分腐ったパンの耳を見つけ、それを奪い合う相手は野良犬だった。犬に噛まれた右手の傷が、三年間の書記生活で消えたと思っていた。今、その傷が疼いている。


あの頃の俺に、名前の価値はなかった。


あの日から、俺の人生が変わった。名前で呼ばれた。「ザック」と。仕事を与えられ、文字を教わり、数字を学んだ。


目の前の子どもたちには、名前がない。


番号がある。背中に刺繍された四桁の数字。しかし——この子たちは、番号すら覚えていないかもしれない。読み書きができないのだから。


ルーク殿なら、ここで何をする。


答えは知っている。三年間、見てきた。


逃げない。戦わない。代わりに——。


俺はポケットからペンを取り出した。書記のペン。三年間、一日も手放さなかった仕事道具。剣より軽い。拳より弱い。しかし——ルーク殿が俺に教えてくれた、唯一の武器。


最前列の椅子に歩み寄った。


五歳くらいの子ども。目が閉じている。呼吸はある。管の中を青白い光が脈動している。


俺はしゃがんだ。子どもの顔の高さに、自分の顔を合わせた。


「おい」


小声で呼びかけた。反応がない。


「おい、聞こえるか」


まぶたが、微かに動いた。


「起きてるのか」


薄く、目が開いた。黒い瞳。光がほとんどない。港の子どもたち——上陸初日にルーク殿の弁当を食べた子どもたちと同じ目。何も映していない目。


しかし——完全には消えていなかった。目が開いたということは、声が聞こえたということだ。声に反応したということは、まだ人間が残っているということだ。


「お前の名前は?」


訊いた。ルーク殿があの老人に訊いたのと同じ言葉。


子どもの唇が動いた。音にならなかった。乾いた唇が、空気を震わせただけだった。


「聞こえないぞ。もう一回」


子どもが——少年か少女かもわからない、それほど小さな子どもが——もう一度唇を動かした。


俺の目から涙が落ちた。子どもの頬に落ちた。子どもが目を見開いた。たぶん、温かい液体が顔にかかったことに驚いたのだ。涙を知らないのかもしれない。泣き方を知らないのかもしれない。


ペンを握り直した。


「名前ってのはな——お前だけの言葉だ。お前が誰かを表す音だ。番号じゃない。お前がお前であるための——」


言葉が詰まった。ルーク殿ならもっと上手く説明する。簡潔に、正確に、必要十分な言葉で


子どもの目が、俺を見ていた。光のない目。しかし——焦点が合っている。俺を見ている。俺の涙を見ている。


「名前をつけていいか」


子どもは答えなかった。答え方を知らないのだ。許可の概念がない。自分に対して何かが「与えられる」という経験がない。


俺は構わず続けた。


「お前がいいって言うまで待ちたいけど、待ってたら朝になる。だから俺が勝手につける。嫌だったら後で文句言ってくれ」


何と名付けるか。三秒だけ考えた。


ルーク殿なら——意味のある名前をつけるだろう。歴史や文化や言語学に基づいた、何か意味のある名前を。


俺にはそんな知識がない。


「リンゴ」はさすがにまずい。


次の椅子を見た。隣の子ども。少し大きい。八歳くらいか。


その隣。十歳くらい。


その隣。七歳くらい。


全員の顔を見た。二十八人。全員の顔を、一人ずつ見た。


俺はペンを取り出し、羊皮紙に書いた。番号と、仮の名前。全員分。


番号は背中の刺繍を読んだ。名前は——俺が知っている言葉から、一つずつ選んだ。サンアンド領で出会った人の名前。市場の商人。パン屋の孫。鍛冶師の娘。冒険者ギルドの受付嬢。三年間で覚えた名前の断片を、この子どもたちに分けた。



最前列の子ども——最初に声をかけた、五歳くらいの子ども——の前にしゃがみ直した。


「お前の名前は——」


声が震えた。情けない。ルーク殿なら震えない。いや、ルーク殿も震える。あの人は震えを隠すのが上手いだけだ。コーヒーカップを握って、表情を消して、全部カップの中に落とす。


俺にはコーヒーカップがない。だから——そのまま震えた。


「リュカ。お前の名前はリュカだ。嫌なら変えていい。後でいくらでも変えていい。でも今だけは——リュカだ」


子どもの目が——動いた。


黒い瞳の奥で、何かが灯った。理解ではない。好奇心ですらない。もっと原始的な何か。音に反応する生命の、最も古い機能。自分に向けられた音を、自分のものとして受け取る——その瞬間の、微かな点火。


子どもの唇が動いた。今度は、音になった。


「……リュ、カ」


そうだ。それがお前の名前だ。


「リュカ……」


もう一度。今度は少しだけ大きく。


「ぼく、の……なまえ」


B区画の扉を閉め、地下通路に出たとき、俺の膝が折れた。


羊皮紙を広げた。二十八人の番号と名前のリスト。インクが滲んでいる。涙が落ちたせいだ。


「ルーク殿……」


誰もいない地下通路で、呟いた。


「俺、ちゃんとできましたか」


答えはない。当然だ。ルーク殿はここにいない。


でも——聞こえる気がした。いつもの声。感情を排した、平坦な、しかし温度のある声。


「上出来だ」


その声が幻聴だったのか、それとも三年間の記憶が自動再生したのかは、わからない。


わからないが——俺は立ち上がった。


羊皮紙を折り畳み、胸ポケットにしまった。ペンを握り直した。インクの残りは少ないが、まだ書ける。


地上に戻る。ルーク殿に報告する。B区画の子どもたち。二十八人。年齢は推定五歳から十三歳。全員が鍵盤に接続されている。管理板の数値は確認できなかったが、椅子の構造はC区画と同一。


そして——報告に加える。


二十八人の仮名リスト。


ルーク殿は笑わないだろう。笑わないし、怒らないし、呆れもしない。たぶん、羊皮紙を受け取り、リストを一行ずつ読み、最後まで読んでから、一言だけ言う。


「これは大事な書類だ。三部複製しろ」


そう言う。絶対に言う。ルーク殿は、そういう人だ。


俺は地下の石段を駆け上がった。朝日がまだ届かない下位民街の路地を走った。灰色の服のまま。背中の番号3892のまま。


走りながら、あの子の声を反芻した。


「ぼく、の……なまえ」


二十八人に名前を配った。たかだか仮の名前だ。書記が勝手につけた、何の公的効力もない名前だ。しかし——あの子の目に光が灯った瞬間を、俺は一生忘れない。


ルーク殿は言った。名前を知らない人間に名前を返す。それがこの大陸での最初の仕事になるかもしれない、と。


最初の仕事は——書記がやった。



それだけは、確かだ。

最後までお読みいただきありがとうございます。


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