第81話「外交の修羅場」
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この日は、アリス・クラウディアの物語だ。
朝六時。浮遊都市の客室で目を覚ましたとき、ルークはすでにいなかった。
枕元に紙片が一枚。ルークの几帳面な字で「ザックと出かける。夕方戻る。アリスに任せる」と書かれている。それだけ。行き先も目的も書いていない。書く必要がないと判断したのだろう。アリスなら察すると。
鍵盤の施設をもう一度確認しに行ったのだ。あの男は一度見ただけでは納得しない。数字を確認し、構造を記録し、証拠を積み上げる。管理とはそういう仕事だと、三年間で学んだ。
問題は——今日の予定だ。
テーブルの上に、もう一枚の紙片。こちらはセルジュから昨夜届いたもので、公式な書簡だった。
『本日午前十時、中立都市群の外交代表カイゼル・ヴェーバー卿が浮遊都市を訪問。サンアンド領使節団との非公式協議を希望する。場所:白鳳の間・小会議室。出席者:使節団代表一名』
使節団代表一名。ルークがいない。ザックもいない。ユイは宗家の追放者として外交の場に出るのはリスクが高い。
残ったのは、アリス一人だった。
アリス・クラウディア。元ブラック騎士団副団長。サンアンド領のCEO——ルークが冗談のようにそう呼ぶ——として、三年間の実務を積んできた。内政、治安、人事、財務。ルークが設計した仕組みを、現場で回し続けた女性だ。
しかし——外交は未経験だった。
ルークの外交は違った。海賊のガルドとの交渉を船の上で見ていた。あの男は一度も声を荒らげず、一度も脅さず、数字と論理だけで海賊の頭目を商人に変えた。
数字と論理。
アリスは鏡の前で身支度を整えながら、額に浮かぶ冷や汗を拭った。元騎士団の戦闘経験は数えきれない。剣を抜けば震えない手が、外交と聞いただけで湿っている。
ルークが教えてくれた交渉の三原則を、頭の中で反復した。
一、相手の本当の欲求を聞き出せ。 二、先に譲歩を見せろ。 三、最後に「一緒にやりましょう」と言え。
そしてもう一つ。
「交渉で絶対にやってはいけないのは、先に怒ることだ。先に怒った方が負ける。感情は最後の切り札であって、最初に使うものじゃない」
アリスは深呼吸した。銀髪を後ろで束ね、正装の白い上着の襟を正した。
「やるしかありませんわね」
白鳳の間・小会議室。午前十時。
部屋は昼間でも薄暗かった。窓が小さく、魔法の燭台が低い光量で灯っている。外交の場に強い光は不向きだ。表情が読まれやすくなる。この部屋の設計者は、その程度のことを理解している。
テーブルは円形。対等の立場を演出する配置。しかし椅子の質が微妙に違う。アリスの椅子は来客用の標準品。向かい側の椅子は、わずかに座面が高く、肘掛けの装飾が豪華だ。座った者の視線が自然と高くなる。心理的な優位を作る仕掛け。
アリスはそれに気づき、自分の椅子の上に折り畳んだ外套を敷いた。座面が三センチ高くなった。視線が揃う。小さな対抗措置だが、気づかないよりはましだ。
ドアが開いた。
カイゼル・ヴェーバー。中立都市群の外交代表。
第一印象は——小柄、という一語だった。アリスの予想に反して、百戦錬磨の外交官は背が低かった。百六十センチあるかどうか。痩身で、白髪で、深い皺が顔全体に刻まれている。年齢は七十を超えているだろう。しかし、目だけが若かった。灰色の瞳が鋭く、瞬きの間隔が短い。すべてを見逃さないという意志を、目の動きだけで表している。
「お初にお目にかかります。中立都市群外交代表、カイゼル・ヴェーバーと申します」
声は穏やかだった。丁寧な言葉遣い。しかしアリスは直感した。この穏やかさは武器だ。相手の警戒を解き、油断を誘う。ルークの沈黙と同じ種類の——しかし、もっと意図的に研磨された技術。
「サンアンド領副官のアリス・クラウディアですわ。本日は使節団代表のルークが不在のため、わたくしが代理を務めます」
「代表がご不在とは。お忙しいことですな」
一手目。「代表がいない場に来た我々は軽んじられている」という暗示。穏やかな声の下に棘がある。
アリスは笑みを返した。
「ルークは現場主義ですの。この大陸の実情を自らの目で確認するために出ています。外交より現場を優先する男でして——失礼をお許しくださいませ」
「いえいえ。現場を重んじる統治者とは、なかなかに珍しい」
カイゼルが着席した。アリスの外套に目を留めたが、何も言わなかった。気づいた上で、指摘しないことを選んだ。その一手で、アリスは確信した。この男は——自分より格上だ。
交渉は午前十時十五分に本題に入った。
中立都市群。シャングリア大陸の東部沿岸に点在する十二の自治都市の連合体。七大家門の直接支配を受けず、独自の統治体制を維持している。上位民と下位民の区別は存在するが、鍵盤の使用率は宗家直轄領より低い。貿易と手工業で経済を回している。
カイゼルの要求は明確だった。
「サンアンド領との通商協定。エンドレア大陸の市場への参入ルートを確保したい。具体的には、サンアンド領を経由した北方諸国との交易権」
悪い話ではない。サンアンド領にとっても、シャングリア大陸との通商ルートは価値がある。赤牙艦隊の海運をさらに拡張できる。ルークが描いた構想の延長線上にある提案だ。
「通商協定自体は、わたくしたちも歓迎しますわ。具体的な条件をお聞かせください」
カイゼルが書類を広げた。
条項が並んでいる。品目リスト、関税率、航路の設定、紛争解決の手続き。整備された条項だった。準備に時間をかけている。この交渉は、アリスたちの到着前から計画されていた。
アリスは一つ一つ確認した。ザックがいれば数字の検証を任せられるが、今は一人だ。品目リストと関税率は妥当に見える。航路設定も合理的だ。紛争解決は第三者仲裁。問題ない。
しかし——十二番目の条項で、アリスの目が止まった。
「第十二条。中立都市群の船舶は、サンアンド領港湾において、検疫および積荷検査を免除される」
アリスは条項を読み直した。検疫免除。積荷検査免除。つまり——中立都市群の船は、サンアンド領の港にノーチェックで入れる。
「この条項について、ご説明いただけますか」
カイゼルの表情は変わらなかった。
「通商の効率化ですな。検疫と検査には時間がかかります。船の停泊日数が増え、港湾の回転率が下がる。双方にとってコストです。信頼関係に基づく免除は、国際通商では珍しくありません」
論理的に聞こえる。効率の話だ。コストの話だ。
アリスの脳裏に、ルークの声が響いた。「品質管理で検査を省略するのは、不良品が流通するリスクを受け入れるということだ。リスクとコストの天秤。どちらが重いかを判断しろ」
しかし——アリスには、その天秤の重さを正確に計る経験がなかった。
ここで断れば、交渉が決裂するかもしれない。中立都市群との通商協定は、地熱プラント計画を進める上で重要な外交カードだ。シャングリア大陸内部に味方を増やす必要がある。宗家と保守派に対抗するためには、中立勢力の支持が不可欠。
決裂した場合の代替案——BATNAは何だ。
アリスは考えた。交渉学の基本。ルークが教えてくれた概念。交渉が決裂したとき、自分にとっての最善の代替案は何か。BATNAが強ければ、不利な条件を飲む必要はない。BATNAが弱ければ——妥協せざるを得ない。
中立都市群との協定が成立しなかった場合。サンアンド領はシャングリア大陸内部に通商パートナーを持たない。地熱プラントの資材調達は地底鍛冶に依存するが、完成後の魔力の流通網は——大陸内部のネットワークが必要だ。中立都市群なしでは、地熱タービンが完成しても、その恩恵を大陸全体に広げる手段がない。
BATNAが——ない。
アリスは内心で歯を噛んだ。ルークなら、交渉に臨む前にBATNAを三つは用意する。代替の交易相手、独自の流通網の構築案、あるいは中立都市群の内部分裂を利用した個別交渉。しかし今のアリスには、その準備がなかった。ルークの不在を知ったのは今朝だ。準備の時間がなかった。
カイゼルの灰色の瞳が、アリスを静かに観察していた。。
先に怒るな。先に焦るな。
アリスは背筋を伸ばした。
「第十二条について——修正案を提示しますわ。完全免除ではなく、簡易検査への切り替え。検査時間を通常の三分の一に短縮する形で、効率と安全を両立させてはいかがでしょう」
カイゼルが首を傾げた。
「簡易検査の基準は?」
「サンアンド領のコンプライアンスガイドに準拠した書類審査のみ。物理的な積荷検査は、ランダムに十回に一回の頻度で実施」
「十回に一回。九割は検査なし、ということですな」
「ええ。信頼に基づく運用ですわ」
カイゼルは微笑んだ。穏やかな微笑み。しかしアリスには、その微笑みの裏が読めなかった。
「結構です。その修正案で、第十二条を改定しましょう」
あっさりと受け入れられた。あまりにあっさりと。
アリスの心臓が一拍跳ねた。嫌な予感が走ったが、根拠がなかった。修正案は通った。完全免除よりはましだ。十回に一回は検査できる。ルークの基準から見れば不十分かもしれないが、ゼロよりはいい。
そう——自分に言い聞かせた。
残りの条項は順調に進んだ。カイゼルは適度に譲歩し、アリスも適度に受け入れた。ルークが教えてくれた通り、先に小さな譲歩を見せ、相手の警戒を解き、最後に「一緒にやりましょう」と締めた。
正午過ぎ。通商協定の仮合意書にアリスとカイゼルの署名が入った。
「良い交渉でしたな、アリス殿」
カイゼルが手を差し出した。アリスはその手を握った。乾いた、薄い手だった。力は弱い。しかし指先が微かに冷たかった。
「こちらこそ。実りある協議でしたわ」
カイゼルが去った後、アリスは一人、小会議室に残った。
仮合意書を見つめた。第十二条。簡易検査。十回に一回。九割は検査なし。
これで良かったのか。
判断がつかなかった。ルークなら——この条項をどう評価するか。
アリスは合意書を丁寧に折り畳み、胸元にしまった。
冷や汗が、まだ止まっていなかった。
夕方。ルークとザックが戻った。
二人ともスラムで何かを見てきた顔をしていた。
アリスは交渉の結果を報告した。通商協定の仮合意。十三の条項。カイゼル・ヴェーバーの人物評価。そして——第十二条の修正経緯。
ルークは合意書を読んだ。
第十二条で、ルークのペンが止まった。
五秒間の沈黙。
「アリス」
「はい」
「これは——お前が判断したんだな」
「はい。わたくしの判断です」
ルークは合意書をテーブルに置いた。顔を上げなかった。
「十回に一回の検査で、密輸品や禁制品が入り込むリスクは——お前の見立てでどのくらいだ」
アリスの心臓が冷えた。
密輸品。そこまで考えが及んでいなかった。通商の効率化という文脈で捉えていた。しかし——検査の頻度を下げるということは、検査の網をすり抜ける確率を上げるということだ。サンアンド領の港に、何が入ってくるかわからない。
「……正直に申し上げます。その観点での評価は、行っていませんでした」
沈黙。
ルークはペンを置いた。目を閉じ、三秒。開いた。
「第十二条だけは、正式合意の前に再交渉する。」
ルークの声は穏やかだった。
「お前は交渉を成立させた。十三条項のうち十二は完璧だ。一つのミスで全体を否定するのは、管理じゃない。不適合を特定し、修正し、次に活かす。それだけだ」
ルークが続けた。
「次から交渉に臨むときは、BATNAを三つ用意しろ。交渉の席に着く前に、決裂した場合の代替案を必ず持て。代替案がないなら——席に着くな。延期しろ。延期は敗北じゃない。準備だ」
「承知しましたわ」
ルークは合意書を丁寧に折り直し、アリスに返した。
「十二条以外は上出来だ。カイゼルって男、相当やり手だろう。あの男と対等に渡り合って、これだけの条件を引き出したのは——大したもんだ」
アリスは合意書を受け取った。
ルークの評価は、いつも正確だ。褒めるときは具体的に、指摘するときも具体的に。感情ではなく事実で語る。
「ルーク殿」
「何だ」
「次は——負けませんわ」
「期待してる」
窓の外で、浮遊都市の明かりが灯り始めていた。その光の一粒一粒が、まだ誰かの命で燃えている。
しかし——あと少しだ。地熱タービンの基礎工事は進んでいる。代替エネルギーの目処は立っている。
あと少しで、この光の燃料を変えられる。
BATNAとは、交渉学の用語で「Best Alternative To a Negotiated Agreement」の略称で
日本では「交渉が決裂した際の最善の代替案」とされ
交渉において、もし相手と合意に至らなかった場合に、自分にとって次にベストな選択肢は何かをあらかじめ特定しておくプロセスを「BATNAの策定」と呼びます。




