第69話「右腕の刻印と、ザックの仮説」
ユイ・シャングリアがサンアンド領に漂着して、六日が過ぎた。
奉仕ポイントの木札は市場の日常に溶け込み、ホウシ・ボードには毎朝新しいメモが貼られている。文化辞書はザックの手で第四項まで増えた。「ホウシ」「亡命」「宗家」「刻印」。いずれもシャングリア原語を併記し、三行以内の注釈を添えた簡潔な書式。コンプライアンスガイドの付録として綴じられている。
街は平穏だった。しかしルークの頭の中には、未解決の案件が一つ残っていた。
ユイの右腕。
午前十時。ペントハウス二階の応接室。
テーブルの上にはコーヒーが四つ。ルーク、アリス、ザック、そしてユイ。四人が揃うのは、ユイの身元が明かされた翌日以来だった。
「改めて見せてもらっていいか」
ルークの言葉に、ユイは無言で右腕の袖をまくった。
前腕の内側。手首から肘にかけて、青白い紋様が皮膚の下に浮かんでいる。幾何学的な直線と、有機的な曲線が交差する複雑な構成。中心には星形の図形——六芒星に似ているが、頂点の数が違う。
七つ。
七芒星だ。
「ザック」
「はい。準備できてます」
ザックはすでに羊皮紙とインク瓶を広げていた。ペンを走らせる手は正確で、三分もかからず精密な模写が仕上がった。三年間ルークの下で書類を書き続けた手だ。線の太さも間隔も、原本と寸分違わない。
ルークは模写を受け取り、窓際の光に透かした。紋様の構造が改めて浮かび上がる。七つの頂点。頂点同士を結ぶ線。中央の核となる円。そしてその円の内部に、肉眼ではぎりぎり確認できる微細な点が——七つ。
「アリス。この紋様に心当たりは」
「ありませんわ」
アリスの声には断定の重みがあった。
「エンドレア大陸の魔法体系は、四大元素を基盤としています。火、水、風、土。対応する基本図形は四芒星。上位魔法でも六芒星が最大です。七芒星を基盤とする刻印術は、四大魔法学院の文献にも、冒険者ギルドの記録にも存在しません」
つまりエンドレア起源ではない。ルークは予想通りだと思いつつ、ユイに目を向けた。
「ユイ。この刻印はいつから?」
「生まれたときから、あります。母も、母の母も同じものを持っていました」
「使ったことは?」
「使い方がわかりません。ただ——ときどき光るのです。遠くの何かが呼んでいるように」
ルークは頷いた。それから刻印に右手の人差し指を近づけた。
「触れてもいいか」
ユイが頷く。
指先が刻印に触れる寸前——空気が震えた。
静電気に似ているが、もっと深い。皮膚ではなく骨の内側を何かが貫通したような感覚。一瞬だけ、視界の端に紫色の光が走った。事なかれスキルが反射的に起動する。
ルークは指を離した。
アリスがカップをソーサーに置いた。磁器の澄んだ音が、静まった部屋に響く。
四人の間に沈黙が落ちた。
口を開いたのは、ザックだった。
「あの……一つ、いいですか」
全員の視線がザックに集まる。ザックは一瞬たじろいだが、すぐに手元の模写を指さした。
「この七芒星の中心部分。ここに小さな点が七つあります。頂点と同じ数です」
「ああ。それは確認した」
「で、この点と頂点を線で結ぶと——」
ザックはペンで薄く補助線を引いた。中央の点から外側の頂点へ、七本の直線が放射状に伸びる。
「車輪の輻みたいな図形になります。ここまでは普通です。ただ——」
ザックのペンが、頂点の先端部分を指した。
「エンドレアの刻印は、すべて閉じた円で構成されます。魔力を内側に封じ込めるためです。四芒星も六芒星も、外周を円が囲んでいる。漏れないようにする構造です」
「この刻印は違う、と」
「はい。この七芒星の頂点は——外側に開いています。線が途切れている。封じる構造になっていない」
ザックは深呼吸をした。自分がこれから言うことの重みを、確かめるように。
「この刻印は、魔力を封じるためのものじゃありません。放出するためのもの——いえ、もっと正確に言えば」
ペンを置いた。
「繋ぐためのものです。何かと何かを、接続する回路」
応接室が静まり返った。
アリスが息を呑む気配。ユイの紫の瞳が見開かれている。ルークだけが、表情を変えなかった。
変えなかったが——内心では舌を巻いていた。
三年前、路地裏で拾った少年だ。字が読めず、数を数えられず、名前すらまともに書けなかった。その少年が今、未知の魔法体系に対して独自の観察と論理で仮説を立てている。証拠は不十分だ。検証もされていない。だが仮説の構造は——筋が通っている。
「ザック」
「は、はい」
「上出来だ」
ザックの耳が赤くなった。三年間で何度も聞いた言葉のはずだが、毎回耳が赤くなる。この反応だけは成長しない。ルークは内心でそう思いつつ、顔には出さなかった。
「ただし、今の段階では仮説だ。裏付けがない。焦って結論を出すと大体ロクなことにならない」
「は、はい。承知してます」
「アリス。七芒星に関する文献を洗い出してくれ。エンドレア大陸外の資料も含めて。期限は一ヶ月。急がなくていい」
「承知しましたわ」
「ザック。模写を三部複製。一部はアリスの書庫、一部はギルド記録室、一部は俺の引き出し」
「了解です」
ルークはユイに向き直った。
「ユイ。刻印が光るとき、何か感じることはあるか。方角とか、距離とか」
ユイは少し考えた。
「方角は——わかりません。ただ、『遠い』という感覚だけがあります。海の向こうよりも、もっと遠い場所」
海の向こうよりも遠い場所。
ルークの背筋を、冷たいものが走った。シャングリア大陸のことではない。もっと根本的に「遠い」場所。ルークには一つだけ心当たりがあった。次元転移の虹色の光の中で、一瞬だけ垣間見たあの場所。紫色の空。銀色の光。白い椅子。湯気の立つコーヒーカップ。そして——誰かの輪郭。
第三の場所。
恐怖からではない。情報が足りないときに動くのは、管理で最もやってはいけないことだ。不十分なデータで結論を出せば、対策が的外れになる。的外れな対策は、問題を悪化させる。二十四年間の実務経験が、それを骨の髄まで教えている。
「わかった。今日はここまでにしよう」
ルークは立ち上がり、窓辺に歩いた。港が見える。ユイの小舟がまだ波止場に繋がれている。朝日を受けた船体の紋様が——微かに、ほんの微かに——青白く光った気がした。
気のせいかもしれない。
ルークは振り返らず、デスクに向かった。今日の業務は通常通り。定時退社。それがサンアンド領のルールだ。




