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第68話「ユイの秘密と、逃亡者の覚悟」

文化辞書の第一項——「ホウシ」の注釈文をザックが書き上げたのは、翌日の昼過ぎだった。


『ホウシ(原語):シャングリア文化圏における自発的行為。対価を前提としない。「労働」とは異なる概念。詳細は本人に確認のこと』



その文化辞書をユイに見せたとき、彼女は長い時間をかけて一文字一文字を指でなぞり、最後に小さく「ありがとうございます」と言った。万国舌を通さなくても伝わる種類の感謝だった。


しかし——とルークは思う。


文化辞書は言葉の問題を一時的に棚上げしただけだ。ユイ・シャングリアという人間そのものについて、まだ何もわかっていない。どこから来たのか。なぜ小舟一つで海を渡ったのか。右腕の刻印は何なのか。



ルークはその日の夕方、ユイを屋上に呼んだ。


サンアンド領のペントハウス屋上。西日がオレンジ色に染める時間帯。


ルークは定位置の椅子に座り、ユイには向かいの椅子を勧めた。テーブルの上にはコーヒーが二つ。ユイが自分で淹れたものだ。漂着から三日目にして、彼女は豆の挽き具合をほぼ完璧に覚えていた。学習速度が異常に速い。それ自体が、ひとつの情報だった。


「座ってくれ」


「はい」


ユイが椅子に腰を下ろす。背筋がまっすぐに伸びている。姿勢の良さは初日から気になっていた。漂流で半死半生だった人間が、回復した途端にこの姿勢を取る。身体に染みついた所作。それは——教育を受けた人間の姿勢だ。


ルークはコーヒーを一口飲んだ。温度、濃さ、ともに申し分ない。


「ユイ。訊きたいことがある」


「……はい」


「君は何者だ」


直球だった。普段の田中修なら、もう少し遠回りに訊く。相手の警戒を解き、自然な流れで情報を引き出す。


しかし今回は、それをしなかった。


ユイの目を見ればわかる。この女性は、遠回りを必要としない。むしろ、遠回りされることを嫌う。真正面から問われることを、どこかで待っている。


紫色の瞳が、一瞬だけ揺れた。


それから——ユイは、話し始めた。


「わたしは、シャングリア宗家の直系です」


空気が変わった。


隣のテーブルでコーヒー豆の在庫表を作成していたザックのペンが止まる。階下の窓辺で書類を読んでいたアリスの気配が、微かに張り詰めた。二人ともこの場にいることをルークは承知している。聞かせるつもりで、ここを選んだ。


「シャングリア宗家。それは——」


「シャングリア大陸における最上位の魔法家門です。七つの大家門の頂点に立ち、大陸全土の『奉仕制度』を統括する一族」


ルークは黙って聞いた。


「わたしは宗家の当主の第二子として生まれました。幼い頃から奉仕の理念を学び、魔法刻印の継承を受け、十五歳で正式な奉仕者として認定されました。大陸では名誉ある地位です。少なくとも——上位民にとっては」


「上位民」とルークは繰り返した。


「シャングリア大陸には階層があります。上位民と下位民。上位民は魔法刻印を持ち、『奉仕を行う者』。下位民は刻印を持たず、『奉仕を受ける者』。制度上は、上位民が下位民に奉仕することで社会が成り立っています」


一見すると理想的な制度に聞こえる。力を持つ者が、持たない者のために働く。ルークの脳裏に、元の世界の「ノブレス・オブリージュ」という言葉が浮かんだ。高貴なる者の義務。


しかし——ユイの声には、明確な翳りがあった。


「現実は違います。『奉仕を受ける側』の下位民には、奉仕を拒否する権利がありません。上位民が決めた内容を、決めた時間に、決めた方法で受け入れなければならない。拒否すれば『奉仕の侮辱』として処罰されます。奉仕の名目で土地を取り上げられた村がありました。奉仕の名目で子どもを連れ去られた家族がありました。そして——」


ユイの声が、初めて震えた。


「奉仕の名目で、命を落とした人がいました」


風が止んだ。


西日がユイの横顔を照らしている。紫色の瞳の奥で、何かが燃えている。怒りではない。悲しみでもない。もっと静かで、もっと深い何か。


「幼馴染でした」


ユイの声は低く、しかし一語一語が明瞭だった。


「下位民の子です。名前はリオ。わたしより二つ年下で、いつも笑っていて、魚を獲るのが上手で——宗家の庭に忍び込んでは、わたしに貝殻を持ってきてくれました」


ルークは口を挟まなかった。


「リオの村に、宗家の『奉仕事業』が入りました。灌漑工事です。上位民の奉仕者が設計し、下位民が——受益者として——その恩恵を受ける、という建前でした。しかし実際には、工事の過程で村の水源が汚染され、代替の水路を引く予算は宗家の他の事業に回されました。リオは汚染された水を飲み続け——」


ユイは一度目を閉じた。三秒。それから開いた。


「十四歳でした」


沈黙が落ちた。屋上に夕風が戻る。ルークのコーヒーはすでに冷めていた。


「わたしは宗家に抗議しました。制度の見直しを求めました。下位民の声を聞く仕組みが必要だと。しかし宗家の答えは——『奉仕とは与える者の意志であり、受ける者の評価を必要としない』」


ルークの事なかれスキルが、静かに作動した。


ルークは唇を引き結んだ。知っている構造だ。元の世界でも、異世界でも、形は違えど本質は同じ。善意を名目にした支配。フィードバックなき「改善」。それは改善ではない。独善だ。


「追放されました」


ユイの声は淡々としていた。


「宗家の理念に反する者として、刻印の剥奪を宣告されました。しかし——この刻印は血統に刻まれたもので、剥奪には至りませんでした。代わりに、大陸からの永久追放。船も護衛も与えられず、港の隅にあった漁師の小舟を一つだけ。食料は三日分。水は二日分」


「それで海に出たのか」


「はい。噂がありました。海の向こうに、大陸とは違う場所がある。人が人として——奉仕者でも被奉仕者でもなく、ただ人として扱われる場所があると」


ユイがルークを見た。紫色の瞳が、真っ直ぐにルークの目を捉えた。


「サンアンド領の噂は、シャングリアの港町にまで届いていました。かつてブラック騎士団に支配されていた土地が、一人の男によって変わったと。定時で帰れる街。誰も怒鳴られない街。働く者の権利が、紙に書かれて守られている街」


ルークは居心地が悪くなった。大げさだ。自分がやったのは、当たり前のことを当たり前にしただけだ。コンプライアンスガイドを作り、労働時間を管理し、休息を制度化した。元の世界では最低限の法令遵守に過ぎない。


「わたしは——あの大陸を変えたいのです」


ユイの声が、一段低くなった。


「リオのような人を、二度と出したくない。制度を変えたい。奉仕の意味を取り戻したい。でも——」


唇が震えた。


「わたしには、変える力がありません。宗家を追われた一人の女に、大陸を動かす力はない。だから、力を持つ人を探しに来ました。この海の向こうに、仕組みを変えられる人がいるかもしれないと——」


ユイの言葉が途切れた。最後の一語を飲み込むように、唇を噛んだ。


屋上に沈黙が降りた。


ザックは羊皮紙の上でペンを握りしめたまま動けずにいた。アリスは階下の窓辺で、書類を持つ手が微かに震えていた。


ルークは——冷めたコーヒーを、一口飲んだ。


カップの底に、ユイが淹れた深い琥珀色の液体が薄く残っている。彼女が覚えたばかりの挽き方で、丁寧に淹れたコーヒー。温度も濃さも、三日前より確実に良くなっている。


この子を放っておいたら——明日の朝のコーヒーが、不味くなる。


比喩ではなかった。田中修という人間は、四十七年間、大義名分で動いたことがない。世界を救いたいとか、正義を貫きたいとか、そういう動機で手を動かしたことは一度もない。ただ、目の前の不具合が気になるから直す。隣の席の同僚が辛そうだから紙ナプキンを渡す。朝のコーヒーが美味いから、それを淹れてくれる人間が泣いていたら——落ち着かない。それだけだ。


「ユイ」


「はい」


「大陸を変える方法は、俺にはわからない。約束もできない」


ユイの瞳が僅かに翳った。


「ただ——」


ルークは窓の外に目を向けた。サンアンド領の街並みが夕日に染まっている。定時を告げる鐘が、遠くで鳴り始めた。


「——明日も、コーヒーを淹れてくれ。話はそれからだ」


ユイは三秒ほど動かなかった。それから、その紫色の瞳から涙が一筋、頬を伝った。


「……はい」


声は震えていた。しかし、ルークは慌てなかった。昨日までなら慌てていた。事なかれスキルに「涙への対処」は実装されていない。だが——今はわかる。この涙は、対処すべきものではない。


『亡命(シャングリア原語:不明)——故郷を離れる行為。ただし、捨てたのではなく「取り戻すために離れた」場合、この語は正確ではない。該当する訳語、現時点で存在せず』


定時の鐘が鳴った。

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