05. ひびが、はいる2
忘れていた何かを閉じ込めていた蓋が、ひび割れた。何が起きたのか理解するより早く、膨大な記憶が堰を切ったように流れ込んできた。
視界が揺らぎ、目の前にいるはずの男の顔に、別の光景が重なった。
最初に見えたのは、血まみれになった自分の姿だった。
継承権をめぐって軋むライトリム王国。次期国王と目されていた男は、第二王子を推す派閥から幾度となく命を狙われていた。コートニーはその男の婚約者で、彼を守るべきだと――守りたいと願っていた。
だから、あの舞踏会の夜。煌びやかなシャンデリアの下、笑いさざめく人々の合間を縫って忍び寄った刃物を持った刺客を見つけたとき、考えるより先に身体を動かした。
胸に刃が沈む感触。熱いと思う間もなく、冷たさが全身に広がっていく。
崩れ落ちる自分を、誰かが抱きとめた。
『また、来世で』
『……ああ。必ず』
待って。
コートニーは、今まさに自分の下に組み敷いている男の顔を見つめた。黒髪。金色の瞳。整いすぎるほど整った、感情の読めない顔立ち。
その顔に、寸分の狂いもなく記憶の中の顔が重なる。
胸の奥、かつて刺された場所が、とっくに塞がったはずの傷が、まだそこにあるとでもいうように鈍く痛んだ。
「……嘘」
声が漏れる。自分のものとは思えないくらい、掠れていた。
一度開いた記憶の扉は、もう閉じてはくれなかった。堰を切ったように、断片が次々と押し寄せてくる。
侯爵令嬢として、彼の代わりに胸を穿たれて果てた生。
男爵家の娘として、遥か遠くから彼の横顔をただ仰ぎ見た生。
名もなき平民として、彼の乗る馬車が撒き散らす塵に塗れながら、通り過ぎる群衆のひとりとして見送るだけだった生。
それぞれの人生で、コートニーは狂おしいほどにユリウスを欲し、その指先すら触れられないまま死んだ。
自分という器の中に押し込められた、無数の「コートニー」の遺骸。その重みに、立ち眩みにも似た眩暈を覚える。
「……また、転生したってわけ」
唇を滑り落ちた声には、驚きなどひと欠片も含まれていなかった。そこにあるのは、底なしの脱力と疲労感だけだ。
当然だった。繰り返される生の途上で、あまりにも多く、「コートニー」という絶望の器を演じさせられてきた。もはや、どの自分がどんな死に方をしたのか、一つずつ手繰り寄せることすらひどく億劫だった。
「大丈夫か?」
低く硬質で、それでいてどこか心配そうな声にハッとする。コートニーは慌てて、馬乗りになっていたユリウスの上から降りた。
冷たい牢の床に膝をつき、倒れていたユリウスから距離を取る。手の中のナイフが、カチャンと虚しい音を立てて石畳に転がった。
「……ええ。申し訳ありません、取り乱しました」
コートニーの態度に、身体を起こしたユリウスは訝しげに眉をひそめる。金色の瞳が探るように向けられ、思わず目を逸らした。
「顔色が悪いぞ」
「悪くありません。私の心配など、捕虜であるあなたがなさる必要はありませんわ」
思わず口をついて出た、貴族特有の凛としたおざなりな言い回しだった。その言葉遣いと声音の変化に、ユリウスの瞳の奥が一瞬、鋭く光る。
「『ありませんわ』……? 君は、何者だ」
「ギルテール王国の兵士です。ただの、しぶといだけの魔法剣士ですよ」
コートニーは自嘲気味に呟き、転がったナイフを拾い上げて鞘に収めた。
塞がったはずの胸の奥、かつて刺された場所が、まだ凍りつくように痛む。記憶が戻った。だが、戻ったからといって何になるというのだ。
四度目の今世。自分は敵国の兵士で、彼は捕虜の王子。
もう、届かないものに手を伸ばすのはやめよう。
どれだけ熱を注いでも、どれだけ必死に生を繰り返しても、結末はいつも自分を置いてけぼりにする。ならば最初から、彼を「かつての愛しい人」として見るのはやめるべきだ。
コートニーは深く息を吐き出し、いつもの無機質な兵士の顔を作って立ち上がった。
「失礼いたしました。今日の尋問はここまでにします。お体、お大事に」
「待て。君は――」
背後から呼びかけるユリウスの声を振り切り、コートニーは一度も振り返ることなく牢の重い鉄扉を閉めた。
扉に、ガチャリと鍵がかかる音が響く。
冷たい廊下に一人佇み、コートニーは己の手のひらをじっと見つめた。そこにはもう、かつて彼と手をつないだ侯爵令嬢の柔らかさは微塵もない。戦場で剣を握り続け、タコと傷に塗れた兵士の手があるだけだった。
*
大樹団の独身寮に戻り、使い古されたベッドに横たわっても、泥のように重い身体に反して脳だけが冴え渡っていた。
どれほど目を閉じようと、開いた記憶の蓋は閉じない。
自分は転生者だ。
嫌になるほど確かな事実として、それがあった。
ふと思い出す。あの不吉な赤い月へと続く、泥濘んだ死者たちの道を歩いていたとき、誰かがぽつりと零した一言。
『転生をすればするほど、もう人ではなくなるんだってさ』
当時は前に進むことに夢中で、深く考えなかった言葉だった。それが今になって、遅効性の毒のように効いてくる。
コートニーの原型とも言える最初の生。侯爵令嬢だった頃の自分は、剣の柄すら握ったことがなかった。趣味は繊細な刺繍で、好きな色は淡いピンクの薔薇色。他人の悪意に怯え、蝶よ花よと過保護に育てられた純粋な娘だった。
それが、どうだ。今の自分は、すれていて、誰かの素直な善意すら「どうせ裏がある」と斜めからしか受け取れない歪んだ兵士だ。優しさより実利、情よりも打算。この手で何人の命を奪ったのかわからない。
かつての自分が今の自分を見たら、間違いなく怪物か何かと勘違いして悲鳴を上げるだろう。
このまま、これを永遠に繰り返したら――。
「人間にすら、なれなくなるってこと?」
口にした途端、ぞっとした。想像が、あまりにも具体的に浮かんでしまったからだ。
たとえば、ユリウスが飼っていた超高級のもふもふとした聖獣。日がな一日、王城の庭で丸くなって撫でられるだけの存在。あるいは、城の開かずの間に飾られた、喋ることしかできない絵画。額縁の中から決して外へは出られず、彼のことをただ見つめ続けるだけの何か。
「そんなの、一生交わらない平行線じゃない」
想像しただけで、盛大な脱力感がコートニーを襲った。何百年も惨死と苦痛を繰り返し、辿り着く最終形態が毛玉かキャンバスだなんて、笑えないブラックジョークにも程がある。
だが、それが冗談で済まないからタチが悪い。
転生を重ねるたびに、二人の身分は開いていく。
出会う時期は遅くなる。
記憶を取り戻す時期も、どんどん先延ばしにされていく。
今世でようやくここまで来られたのも、はっきり言って綱渡りだった。次があるとすれば、もう、人として会話すら許されない絶望が待っているに決まっている。
今日、自分の下でこちらを見上げていた男。今世のユリウスの顔を思い出す。
前世の彼は、優しかった。愛してくれていた。
今の彼は、回復魔法をかけても礼のひとつすら口にしない。何より、自分を敵としか見ていない。
その落差を思うと、笑いたくなるくらい馬鹿馬鹿しかった。何のために、こんなに何度も、しつこく生まれ変わってきたのだろう。会うたびに遠くなっていくだけの相手を、なぜ諦めずに追いかけ続けてきたのだろう。
答えなんて出ないけれど、たった一つだけ、痛烈に理解したことがある。
このまま同じことを繰り返していれば、いつか自分は、人間の形すら保てなくなる。
コートニーは天井を見つめたまま、静かに、しかし強い声で呟いた。
「――今世で、終わらせてやる」
それは誓いというより、もっと切実な、生存のための宣言だった。




