29. 進み出す時間
今世で、ようやくユリウスと想いを通じ合わせることができた。
転生の門は、しっかりと閉じられた。あの重々しい音は、今も耳の奥に残っている。だからもう、赤い月に向かって泥だらけの道を歩く必要はない。
だが、それでめでたしめでたしとはいかないのが、この世界の面倒なところだった。
昼食を取ろうと、一人で食堂の椅子に座ったコートニーは、指先でスープの木匙を弄びながら小さく息を吐いた。
「あらコートニー、彼氏ができたのに、どうしてそんな浮かない顔をしているのかしら?」
優雅な所作で隣に座ってきたのは、先輩のアニタだった。
艶やかに波打つ栗色の髪に琥珀色の瞳。今日ばかりは、彼女の放つ柔らかで可憐な気品をもってしても、胸の奥に居座る重たい雲を追い払うことはできそうにない。
「浮かない顔にもなりますよ」
「あら、彼氏と喧嘩でもしたのかしら? 嫌だわ。また戦争になるのかしら」
「勘違いしないでください。そんなんじゃないです。というか、嫌なフラグを立てないでください」
コートニーは冷めかけたスープを一口すくい、げんなりとした顔で木匙を置いた。
戦争、なんて物騒すぎる言葉が冗談で済まされないのが、ユリウスと自分の関係だ。
正直なところ、いくら恋心があっても、かつて敵と味方に分かれて刃を交えた二人の間には、片付けなければならない問題が山のように積み上がっている。
身分の問題は、言うまでもない。加えて、そもそも国防を担う大樹団の一員であるコートニーが、他国の、しかも次期国王となる王子と結ばれることに、ギルテール国内でも難色を示す者は少なくなかった。
『こちらの機密情報が、ライトリムに漏れるのではないか』
『いくら和平条約が結ばれたとはいえ、いつ相手が翻意するかわからない』
『銀薔薇の魔女を手放す代わりに、我が国にもたらされる利点は何だ』
ただ互いの想いを確かめ合い、正式に交際しようとしただけで、国を挙げての大騒動へと発展してしまっている。
「でもほんと、冗談抜きで大騒ぎですものね」
アニタはくすっと可憐に笑いながら、自分のトレイからパンを取り、小さくちぎった。
「第三団長なんか、和平の象徴だとおっしゃって、うっかりあなたたちの恋に賛成してしまったでしょう?」
「はい」
「だからヨハン殿下から嫌がらせを受けているらしいわ。何でも胃薬を飲みながら書類の山と戦ってるんですって」
「……団長には、あとでちゃんとお詫びの品を持っていきます」
コートニーは頭を抱えた。四度の人生を巡り、ようやく掴み取った「いま」の恋。だが、その相手が隣国の第一王子で、自分が国の戦力の一員である以上、二人の関係はどこまでも政治と国防の渦中にあった。
「来世でまた会おう」と諦めていた過去の自分なら、こんな面倒な現実に直面したら真っ先に逃げ出していたかもしれない。けれど、もう次はない。
ユリウス様も、今頃ライトリムで凄まじい決裁書類と戦っているんだろうな……。
彼の苦労を思うと、胸の奥が少しだけ痛む。同時に、言いようのない愛おしさが込み上げてきた。
「ねえ、コートニー」
アニタが琥珀色の瞳を悪戯っぽく細め、頬杖をつく。
「前みたいに『仕方ない』って冷めた顔で諦めてないじゃない。今のあなた、すごく大変そうだけれど、すごく楽しそうよ?」
「楽しそう、ですか」
「ええ。ちゃんと、この世界で生きてるって顔をしてるわ」
コートニーは一瞬言葉を失い、それから冷めたスープを口に運んだ。
重たい問題は山積みで、課題は尽きない。両国の貴族たちの思惑も、ヨハンの小言も、これからも山のように降りかかってくるだろう。
けれど、赤い月の下にある門を目指して、泥だらけの道を一人で歩いていた頃とは違う。
「そうですね。来世に期待するより、今世で頭を抱えているほうが、ずっと手応えがありますね」
コートニーは小さく笑うと、残りのスープを一気に飲み干した。
諦めるのは、もうやめる。この厄介で面倒な現実を、ユリウスと共に泥臭く切り開いていくことこそが、今の自分が選んだ「未来」なのだから。
*
政治のことはわからないと割り切り、コートニーはユリウスと文通を続けながら、長期休みが取れたときには、国境付近にある小さな街で待ち合わせをして、密会を重ねるようになった。
昔は自分の周囲に目を光らせる侍女がいて、ユリウスの周囲には当たり前のように近衛がいた。たとえ婚約者だったとしても、未婚の男女が二人きりになることなど許されなかった最初の人生。常に大勢の視線に晒され、決められた礼儀作法と立場に縛られていたあの頃と比べれば、今の状況はあまりにも自由だった。
大樹団の制服を脱ぎ、ごく普通の旅装に身を包んだコートニーの前に現れるのは、王族の華美な飾りのない、どこか素朴な服を着たユリウスだ。
変わらずユリウスの周囲には、人混みに紛れるように近衛がいる。だが、平民出身である上に、自分で自分の身を守れるコートニーは護衛など連れず、一人で約束した場所に立っていた。
「待たせたな、コートニー」
そう言って人混みの隙間から伸びてきた彼の手が、コートニーの指を絡め取る。その手は、いつだって温かい。
どれほど政治的な思惑が渦巻いていようと、国の偉い人たちが難しそうな顔で議論を重ねていようと、ユリウスの隣を歩くこの時間だけは、ただのコートニーとユリウスでいられた。
二人で街の市場を歩き、安っぽい露店の串焼きを買い食いしたり、前世では決してできなかった普通の恋人らしい時間を、一歩一歩積み重ねていく。
「東部地区で大規模な演習の予定があるので、次回の休みは二ヶ月後になりそうです」
「そうか。ならば、次に休みが取れた時には、ライトリムの南にある湖に行こう。君に見せたい景色があるんだ」
「ええ、楽しみにしています」
もう、「来世で」と遠い未来に願いを託す必要はない。
数ヶ月後、あるいは一年後。この同じ世界で、同じ時間を過ごす約束ができる。
約束を重ねるたびに、胸の奥が確かな幸福感で満たされていった。
「ユリウス様」
「ん?」
ふと名前を呼ぶと、ユリウスは足を止め、優しく微笑んでこちらを見つめ返す。
「今世で、あなたに出会えてよかったです」
「俺もだ、コートニー。何度も諦めずに、俺を見つけてくれてありがとう」
重なり合う視線と、繋いだ手の温もり。
言葉が途切れると、二人の間に流れる空気が、甘く静かな熱を帯びた。
ユリウスは繋いでいた手にふわりと力を込めると、そのままコートニーの腰を引き寄せ、人目の届かない路地裏の木陰へと誘った。木に背を預けたコートニーを見下ろす黄金色の瞳が、深く、愛おしそうに揺れている。
「ユリウス様?」
驚いて名前を呼んだ瞬間、コートニーの頬を大きな手が優しく包み込んだ。
「……触れてもいいか」
掠れた低い声に、コートニーは答える代わりにそっとまぶたを伏せた。
唇の上に、柔らかく温かな感触が重なる。
最初は確かめるような、小さく控えめな触れ合いだった。けれど、コートニーが彼の服の裾をそっと掴み返すと、ユリウスの腕に強い力がこもった。溢れ出す想いを抑えきれないように角度を変え、深く、甘く、吐息を分かち合うようなキスが降ってくる。
かつての人生では、こんなふうにキスをされたことがない。そのことに気づいて、コートニーの胸の奥がきゅっと甘く締め付けられた。
一回目の人生でも、キスをされたことはあった。でも、これほど情熱的で、一筋縄ではいかない愛おしさを叩きつけられるような口づけを交わしたことなど、一度もなかった。
あぁ、やっぱり、この人は今のユリウスなんだ。
過去の記憶の名残でも、前世の思い出の延長でもない。
いま自分を強く抱きしめ、息が詰まるほど深く唇を重ねてくるのは、四度目の人生で傷つきながら生きてきた自分を見つけてくれた、この世にただ一人の男だった。
ゆっくりと唇が離れると、ユリウスの額がコートニーの額にそっと重ねられた。至近距離で見つめ合う彼の瞳は熱を帯び、愛おしさに満ちあふれている。
「またすぐ、手紙を書く。君に会いたくて仕方がなくなる前に」
「はい。楽しみに待っています」
紅潮した顔を隠すように彼の胸に顔を埋めると、耳元でユリウスの愛おしそうな笑い声が揺れた。
四度の人生を巡り、長く冷たい夜を越えて、二人の物語はようやく本当の「現在」を刻み始めていた。




