23. その手は取れない
ユリウスに導かれて辿り着いたのは、王城の庭園だった。
夜気に包まれた庭へ出ると、舞踏会の喧騒が急に遠のいた。ユリウスは小径を少し進んだところで足を緩め、繋いでいたコートニーの手を離した。
「寒くないか?」
「はい。厚手の団服を着ているので」
答えながら、コートニーは周囲を見渡した。月明かりに照らされた小径も、手入れの行き届いた花壇も、記憶にある景色と変わらない。噴水の水音に耳を澄ませていると、胸の奥にしまい込んでいた前世の記憶が、次々と蘇ってきた。
季節ごとに姿を変える草花を、二人で並んで眺めた。いつか夫婦となったら、どんなふうに暮らしたいか何度も語り合った。初めて口づけを交わしたのも、この庭園だった。
懐かしさに胸を満たされ、コートニーはつい、あの頃と同じ調子で口を開いていた。
「そういえば、そろそろパレット・ローズが咲く時期ですね。今年は何色の花を咲かせるのかしら」
その年ごとに花弁の色を変える、珍しい薔薇だった。王妃が自ら丹精込めて育てており、一般には出回っていない。毎年、二人で開花を心待ちにしていた花だ。
ユリウスが、ぴたりと足を止めた。
「なぜ、パレット・ローズのことを知っている?」
「え?どういう……」
問い返してから、コートニーは自分の失言に気づいた。
あの薔薇が咲くのは、この先にある、限られた者しか立ち入れない一角だ。かつては王子の婚約者として訪れることができたが、今の自分には、花の名前さえ知る機会がないはずだった。
「君がこの城に来るのは、初めてのはずだ」
静かな追及に、頬から血の気が引いていく。何か答えなければと焦り、思いつくままに言い訳を口にした。
「ガ、ガイドブックに」
「書いていない」
即座に否定され、言葉に詰まった。ユリウスは視線を逸らさないまま、さらに問いを重ねる。
「今朝、俺の飼っている聖獣の名前を口にしたのも、なぜだ?」
「それは、噂で聞いたからです」
笑って誤魔化そうとしたものの、頬がうまく動かない。自分でも苦しい言い訳だと思ったし、ユリウスの表情も少しも緩まなかった。
「だが、ミルフィは初対面の人間に、あんなふうには懐かない」
「魔力の相性が良かったんじゃないですか?」
苦し紛れに答えると、ユリウスはしばらく黙ってコートニーを見つめた。
「君は、いったい何者なんだ?」
からかう響きも、責めるような語気もなかった。ただ答えを求める眼差しに、かえって逃げ道を失った気がした。目の前の庭園がじわりと滲み、コートニーは唇を引き結んだ。
どうして、言っちゃったんだろう。
懐かしいからといって、気を緩めるべきではなかった。けれど、口にしてしまった言葉は取り消せない。答えられずにいると、ユリウスが一歩近づき、その影がコートニーの足元に重なった。
「答えてくれ、コートニー」
声が、先ほどよりも柔らかくなっていた。まっすぐに見つめてくる瞳には、何かを確かめずにはいられないような切実さが感じられる。
コートニーはためらった末に、かつての自分の名を口にした。
「ランベルゼ侯爵家のコートニーですわ」
ユリウスは困惑したように眉を寄せた。
「ランベルゼ?」
その反応に、胸の奥が静かに痛んだ。この世界には、ランベルゼ侯爵家は存在しない。わかっていたはずなのに、彼の口から聞き慣れた家名が疑問を伴って返ってくると、それだけで心細くなった。
「殿下は、先ほどの刺客の件でお話があるんですよね?」
それ以上その名について尋ねられるのが怖くて、コートニーは話を本題に戻そうとした。
「話を逸らすな」
「逸らしていません。さっき殿下が、その話をしたいとおっしゃって、私を連れ出したじゃないですか」
「それは、君と二人になるための口実だ」
「え?」
そこでようやく、コートニーは悟った。ユリウスは最初から、自分の素性を確かめるためにここへ連れてきたのだ。薔薇の名前を口にしなくても、同じように問い詰められていたのだろう。
夜風が、湿った土と草の匂いを運んでくる。噴水から跳ねた水滴が月光を受けてきらめいていたが、その美しさを楽しむ余裕はもうなかった。すぐ目の前に立つユリウスとの距離が気にかかりながら、コートニーは後ずさることもできずにいた。
「以前、俺に似た者を知っていると言っていただろう。あれから、その意味をずっと考えていた」
ユリウスは、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「君とは、初めて会った気がしない。この違和感の正体を、君は知っているんだろう?」
息が詰まった。胸の奥に押し込めていた言葉が、一度に溢れ出しそうになる。
私は、あなたを愛していた。あなたを庇って死んで、もう一度会いたくて、何度も生まれ変わってきた。
今世で、これほど打ち明けたいと思ったことはなかった。すべて話すことで、この繰り返しを終えられるのなら、迷わずそうしたい。自分が彼の危機を引き寄せているのだとしても、転生が終われば、もう危険に晒さずに済むかもしれない。
けれど、それで何かが変わるという保証はなかった。
ここは、かつて二人が生きた世界とは違う。生まれ変わるたび、自分とユリウスを中心に、何もかもが書き換えられているようにさえ思える。今のコートニーは、ギルテール王国に仕える平民上がりの一兵士で、目の前にいるのは、ライトリム王国の次期国王となる男だった。
かつて婚約者だったと告げたところで、今の二人が結ばれるわけではない。
「違和感なんて、気のせいですよ。殿下」
コートニーは、できるだけ平静に聞こえるよう答えた。
「私と殿下は、ギルテールの牢獄でお会いしたのが初めてですから」
「そうか」
ユリウスはそれ以上追及せず、庭園の暗がりへ視線を向けた。納得したようには見えなかったが、コートニーも言葉を足すことはできなかった。
風に乗って、舞踏会の音楽がかすかに届いた。しばらくその旋律を聞いていると、ユリウスが再び口を開いた。
「帰国してから、君と話した時間を何度も思い返していた」
「暇なんですか?」
つい憎まれ口が出た。捕虜と看守だった頃から、彼を前にすると、どうしても素直な返事ができない。
「暇ではない。君は情緒に欠けすぎだ。今、俺が言いたいのはそういうことではなくて」
ユリウスは小さく咳払いをした。珍しく視線を泳がせ、後頭部を少し乱暴に掻いている。いつもの落ち着き払った王子らしからぬ仕草に、コートニーは目を丸くした。
「俺は」
そこで言葉を切り、ユリウスは一度、深く息を吐いた。それから改めて、コートニーをまっすぐに見つめる。
「俺は、たぶん、君が好きなんだと思う」
心臓が大きく跳ねた。聞き間違いではないかと疑うよりも先に、口が動いていた。
「たぶん?」
「いや、その、こういう気持ちになったのは初めてだから」
戸惑うような返事に、胸が甘く締めつけられた。同時に、その「初めて」という言葉が、少しだけ悲しかった。
前世の彼が抱いてくれた想いは、今の彼にはない。あの庭園で交わした言葉も、初めての口づけも、覚えているのはコートニーだけだ。積み重ねてきた時間が自分の中にしか残っていないことを、改めて思い知らされた気がした。
それでも、ユリウスは今のコートニーを好きになってくれた。刺繍と詩歌をたしなむ侯爵令嬢ではなく、団服に身を包み剣を振るい、彼に憎まれ口を叩く自分を。
そのことが、たまらなく嬉しかった。かつての想いを取り戻せたのではない。今の自分として過ごしてきた時間の中で、彼が心を寄せてくれたのだ。
ごめんね。でも、これは私の人生だから。
前世の自分にそっと詫び、コートニーは身体の脇で拳を握った。小さく息を吸ってから、ユリウスの瞳を見つめ返す。
「私は、今、嬉しいです」
「そうか。ならば」
ユリウスの表情が緩み、コートニーへ手が差し出された。その手を見た途端、触れたいという気持ちが湧いたが、動きかけた指を握り込んだ。
「だけど、あまりにも身分が違いますから。殿下のその手は、取れません」
嬉しいからこそ、曖昧にはできなかった。コートニーは差し出された手から視線を上げ、はっきりと告げた。
ところが、ユリウスはそのまま手を伸ばし、コートニーの手を握った。
「聞いています? 今、手は取れないって言ったじゃないですか」
抗議して引こうとしたが、彼の手は離れなかった。ユリウスは繋いだ手に目を落とし、不思議なものに触れたかのように、そっと指を握り直した。
「なぜだろう。こうしていると、ひどく懐かしい気がする」
この男は、人の話を聞く気があるのだろうか。コートニーは目を細め、もう一度抗議しようとした。
けれど、次の言葉に声を失った。
「もう二度と、離してはいけない気がするんだ」
コートニーは息を止め、繋がれた手を見つめた。
自分から伸ばしたくても、指一本動かせなかった最期の記憶が蘇る。あのとき触れられなかった彼の手が、今は温かく、自分の手を包んでいた。
振りほどこうとしていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。同時に、コートニーの奥深くに眠っていた何かが、静かに揺さぶられるのを感じた。




