11. 銀薔薇の忠誠
リアのハニートラップ作戦が盛大な自爆に終わった、その翌日のことだった。
前日のあり得ない失態に、今日のユリウスの見張り勤務のシフトは誰かに変わってもらおうと決め、相手を探していると、ヨハンに呼び出された。
用件も聞かされないまま彼専用の執務室へ通され、椅子に腰かけたヨハンは、こちらを見るなり開口一番に言った。
「最近、様子がおかしいね」
「……何のことですか」
コートニーは平静を装って聞き返した。心当たりがないわけではない。むしろ、ありすぎるくらいだったからこそ、平静を装うしかなかった。
「君は、ユリウスを好きなの?」
あまりにも直球すぎる問いに、コートニーは一瞬息を呑んだ。それでも動揺を悟られるわけにはいかない。すぐさま顔を上げ、きっぱりと言い切る。
「違います」
嘘ではない、とコートニー自身は思っていた。少なくとも、今の自分の感情を好きという単純な言葉だけで片づけられるとは思えない。
「ふうん」
ヨハンは興味深そうに目を細めた。その口元には薄い笑みが浮かんでいるが、そこには人を値踏みするような冷たさが混じっている。
「ならば、これは何かな」
そう言ってヨハンが机の下から取り出したのは、黒い団服の詰襟のジャケットだった。見覚えのある型どころか、ついこの間まで自分の身体を包んでいたものだ。
投げられたそれを、反射的に受け止めた瞬間、すべてを理解した。
昨夜、ユリウスの部屋から逃げ出したとき、椅子の背に掛けたまま置き忘れてきた、あの上着だ。
どうりで、どこを探してもないはずだった。
血の気が引いていく。
めちゃくちゃやばくない?
言い訳を探そうと口を開きかけたものの、何を言ったところで、この状況を取り繕える気がしなかった。そんなコートニーを見つめながら、ヨハンは静かに口を開く。
「君がこれまで戦場で鮮やかに勝ちを重ねてこられたのはね、いざとなったら人間らしい部分を、きちんと削ぎ落とせる者だったからだよ」
そこに皮肉も揶揄もなかった。ただ事実を淡々と述べているだけの口調だった。だからこそ、その言葉はコートニーの胸へ深く突き刺さる。
「守るものを持った人間は強い。それは間違いない。でもそれは、弱さにもなる」
コートニーは黙って聞いていた。反論しようにも、言葉が出てこない。
「何度も言うようだけど。美しいものにはね、棘がなくちゃ意味がないんだよ」
それが、彼の信条なのは知っている。
ヨハンにとって美しさとは、ただ愛でるためのものではない。鋭い切っ先を持ち、触れれば血を流すからこそ価値がある。棘を失った花は、彼にとってただの飾り物に過ぎないのだ。
「もし君が、ユリウスに対して正常な判断ができないというなら――」
ヨハンの声から、ふっと温度が消えた。
「見張りの任務から、外すことになるよ」
コートニーの身体の奥が、すっと冷えていく。
それは、単なる配置換えの話ではない。ヨハンにとって不要になった駒がどうなるのか、コートニーは誰よりもよく知っている。役に立たなくなった刃は、ただ鞘に収められて終わり、などという優しい世界ではない。
それでも、その恐怖より先に胸を貫いたのは、別の感情だった。
ヨハンを失望させた。
その事実が、何よりも堪えた。
コートニーにとって、今世で命を懸けてもいいと思える相手は、ヨハンただ一人だ。それは恋などという甘い感情ではない。もっと乾いていて、もっと切実なものだ。
孤児院で生まれ育ち、行き場もなかった自分を拾い上げ、居場所を与え、魔法剣士としての価値を認めてくれた人。ヨハンへの忠誠は、コートニーという人間をこの世界につなぎ止めている、たったひとつの杭だった。
それを失えば、自分がどこに立っていればいいのかわからなくなる。
その杭が今、揺らいでいる。
コートニーは手の中の団服を、ぎゅっと握りしめた。
ちょっと待って。
自分自身に問いかける。
確かに、自分には前世の記憶がある。幾度もの人生を繰り返し、そのたびに、あの金色の瞳を追い求めてきた。それは紛れもない事実だ。けれど、それがどうしたというのだろう。
今、自分が生きているのは四回目の人生だ。孤児院で生まれ、修道女に名前をつけてもらい、剣を握り、ヨハンに拾われ、ここまで這い上がってきた、この人生。前世の記憶がどれだけ積み重なっていようと、今のこの身体で、今この瞬間を生きているのは、他でもない自分自身だ。
これは、私の人生だ。
そう悟った瞬間、胸の奥に絡みついていたものが、ふっとほどけた気がした。
きっと、また転生するのだろう。次こそ、もふもふの聖獣になるかもしれない。あるいは、喋る絵画のような、人間ですらない何かに生まれ変わるかもしれない。それを想像すれば、やっぱり怖いし、できることなら絶対に避けたい。
それでも、その未来まで今の自分が背負う必要はない。次の人生が訪れるのなら、そのときの自分に任せればいい。今までの自分が、何度も前世の自分に振り回されてきたように。
前の人生を背負うなんて、もう無理だし。
今世の自分には、今世の人生がある。
その当たり前の事実が、ようやく胸に落ちた。
コートニーは顔を上げ、まっすぐにヨハンを見つめた。
「どうするの? 降りる?」
ヨハンが静かに問いかける。
コートニーは、もう迷わなかった。
「降りません」
声に揺らぎはない。
「引き続き、任務につきたいです」
しばらくの間、ヨハンは何も言わずにコートニーの顔を見つめていた。その視線には、まだ値踏みするような色が残っている。それでもやがて、満足そうに目を細めた。
「ようやく、僕の薔薇が戻ってきたね」
その言葉に、コートニーはほんの少しだけ目を見開いた。
ヨハンは微笑んでいる。
恐ろしいほどに、美しい笑顔だった。
その美しさには、確かに棘がある。美しい顔で平然と部下へ無理難題を押しつけ、必要とあれば容赦なく切り捨てる冷酷さを、彼は決して失わない。今この瞬間だって、コートニーの心の柔らかな部分を容赦なく抉り、それでも自分の足で立ち上がって戻ってきたことを、彼は満足そうに見届けている。
ほんと、食えない人。
コートニーは心の中で毒づいた。それでも、不思議なほど胸の奥には安堵が広がっていた。
ヨハンが打った杭は、まだそこにある。
自分の足元を支えてくれるものが、まだ確かに残っている。ならば、もう前世の自分に惑わされる必要はない。
コートニーは、手の中にある黒い団服へ視線を落とした。胸元には、銀の刺繍糸で薔薇の紋章が施されている。その薔薇には、鋭い棘がある。それは、今世の自分が選んだ、自分自身の居場所の証だった。
コートニーはその紋章を指先でなぞると、団服をしっかりと胸元へ抱き寄せた。




