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第八章:静かに風は吹く(一)

 ーー月の宮、月影離宮にて


 澪たちが水の国へ旅立ってからというもの、残された貞光と綱もそれぞれの務めを果たしていた。


 貞光は、火の国へ赴くまでの猶予を活かし、当主・古武時依こぶときよりについての情報や「羅生門」、さらに澪から聞いた「大江山」という地名についての調査を進めていた。


 人の噂は人の集まるところに集まる。

 そう踏んだ貞光は、月の宮でもとりわけ活気のある市場へと足を運んでいた。


 月の御所からほど近い位置にあるこの市は、月世中の商人が集う場所として知られ、昼を過ぎても人の波が途切れることはない。


 醤油を焼いたような香ばしい香りが漂う屋台、新鮮な野菜を詰めた籠を担ぐ商人、賑やかな呼び込みの声──

 だが貞光の眼差しは、それらを素通りしていた。

 ひたすら耳を澄ませ、必要な情報の断片を探している。


(火の国から来ている者がいれば、都合がいいのだけど……)


 頭の中で、今まで集めた国々の特産や傾向を反芻しながら、露店の一つ一つを目で追う。

 野菜は土の国、干物は水の国。

 狩猟が盛んな火の国なら、獣肉を扱う店が目印になるはず──


 薬草を並べる行商の老婆を横目に歩いていたとき、ふと目を留めた露店があった。


 干し綱に吊るされた鹿の背肉、猪の骨付き肉、そして燻製の香り──

 山間部の猟師たちから仕入れた獣肉を扱っているのだろう。

 藁束の陰から漂う乾いた血の匂いが、山里の空気を想起させた。


「……火の国のものですか?」


 貞光の問いに、露店の主らしき男が顔を上げた。

 煤けた顔に精悍な眼差し、獣皮の前掛け。まさしく山で生きてきた男の風貌だった。


「おう、よう分かったな。火の国の南寄り、峠を越えた麓の村から仕入れてる。鹿は今が脂のっててな。兄ちゃんもひとつどうだ?」


「そうですね……。私の欲しい情報に答えていただけたら、色をつけて頂きましょう」


 その言葉に、男の眉が僅かに動いた。


「……情報?」


「はい。これからいくつか尋ねますので、知っていることがあれば教えていただきたい」


「気の弱そうな顔して、なかなか物騒な頼み方だな。まあ、話せる範囲なら聞こうか」


「ありがとうございます。まずは、火の国の当主・古武時依こぶときより殿についてお聞かせ願えますか?」


「なんだ古武様のことか。あの方は立派なお人だ。鬼を倒したという逸話もあるくらいの豪胆さだが、それ以上に民を想う懐の深さがある」


「皆に慕われていると?」


「ああ。特に若い娘からの人気はすごいぞ。なかなかに色男でな。しかもまだ独り身だ。色気づいた娘たちは、どうにかして古武様に気に入られようと必死だよ」


「……そうなのですね」


(どこかの我が主と似たような境遇だな)


 思わず遠く水の国にいる主人を思い浮かべた。


 すると店主が、ふいに声をひそめて顔を寄せる。


「……ただな、最近妙な噂があるんだよ」


「……妙な噂、ですか?」


 貞光も声を落とす。


「火の国に入っていく女が増えてるって話だ。けど、街で見かける数は変わらねぇ。つまり、どこかで消えてるってわけだ」


「まさか、古武様が?」


「そう疑う声もあるが、あの人の性格じゃ考えにくい。……だが噂ってのは火のないところにゃ立たねぇからな」


(……物草聖の言う、火の国で鬼を見たと言う目撃証言と行方不明になっている女性が繋がるならば、古武時依こぶときよりが関与している可能性はあるな…)


「まあ、あの方が正室を迎えて子をなせば、こんな疑念も消えるんだがな」


 主人はやや興奮気味に語り続けていた。


「お話、興味深く聞かせていただきました。火の国もさぞ魅力ある場所なのでしょうね」


 貞光が火の国を持ち上げると、店主はさらに機嫌をよくした様子で胸を張った。


「ああ、水の国と違って泥臭いが、住めば都ってやつさ。ただ、兄ちゃんみたいな文官には、ちと居づらいかもしれんな」


「はは、それは残念です。……実は“大江山”という場所に興味があって。行ってみたかったのですが、私のような人間には向かない土地でしょうか」


 何気ない風を装って切り出したその名に、男の目つきがわずかに変わる。


「……兄ちゃん、知ってんのか。やめとけ。地元の人間でも近づかねぇよ」


「……修羅の国と関係が?」


「おうよ。鬼どもも古武様を恐れて火の国にゃ入ってこねぇが、あの辺りは国境に近い。何が潜んでるかわからん山だ。好んで行くやつはいねぇ」


「……なるほど。では、もう少し安全な場所でおすすめの土地などは?」


 それ以上詮索されぬよう、貞光は話題を観光へと逸らした。


 澪の話にあった地名が実在すること、そしてそれがおそらく火の国南部にあること。

 確かな手応えを得た貞光は、謝金として干し肉に色をつけて路銀を渡し、それを手土産に露店を後にした。


 風が一陣、通り抜ける。

 干し肉を吊るす網が揺れ、どこかで笛の音にも似た風の音が、かすかに聞こえた気がした。


(……やはり、火の国が鍵を握っているのは間違いなさそうだな)


「……しかし」


 貞光は自分の手元を見つめて独りごつ。


「この肉……どうしようか…」


 店主のいる手前、買わざるを得なかったが、貞光はあまり獣の肉を好まなかった。


「まあ、渡辺さんに全部食べてもらいましょう」


 ゆうに水の国へ行った仲間の分もあるほどの猪肉を全て綱に食べてもらう算段をつけながら、貞光は人混みへと歩を進めた。

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