幕間:碓井貞光の独白
静かな書斎の一角で筆を置く。遠くの方では金時の話し声がぼんやりと聞こえていたが、迎えに出る気はなかった。
手元の斐紙には、ここにきてから起きた様々な出来事とそれに対する考察が並んでいる。これは自分がいつも頭を整理する時にやっている習慣だった。
けれど、昨夜の澪とのやり取りを思い出してから、筆先が進まない。
”「合理的なものを最優先にする碓井さんの姿勢が、私にとって安心感があり、今置かれている状況を俯瞰して捉えられる理由だと思うんです」”
”「確かに私が同い年の時と比べて碓井さんは比べ物にならないくらい聡明なので、どうしたらそんな風に育つんだろう?と驚きはありますが、尊敬こそすれ生意気だなんて思いませんよ。こんなに助けてもらってますしね」”
それを言う彼女は嘘をついているようには見えず、真っ直ぐな尊敬と感謝を湛えた瞳のように感じた。
――感情と事実を切り分けて考える。それは常に自分の核であり続けたものだった。
そして、それを核として実践してきた自分は周りから受け入れ難い存在となっていた。
幼少の頃から頭がよく回り、同世代は理解できない兵法書や詩経も10歳になる頃にはすでに読み込んでいた。それは大人からも同世代からも理解の範疇を超えていたようで、初めは喜んでいた周囲の大人たちも徐々に自分を気味悪がり、同い年の子どもたちからはいじめこそしないものの、距離を置かれていた。
しかし、それを悲しいと思ったこともなかった。すでに自分の中では自分の能力が周りに畏怖を与えるものだと言うことを事実として受け止めていたからだった。
それに、新たな知識を学び、点と点が線になる瞬間が面白く、勉学に励むことに飽きは来ず、孤独を寂しいとは思わなかった。
「たまにはお前も兵法ばかり読まず、同年の子らと共に遊んではどうだ?」
自分があまりにも外で遊ばないのを見かねて、父にもそう言われていた。しかし同年の子らとはすでに話が合わない自分は、父にもその場限りに曖昧な返事をして、一度も遊びに行くことはなかった。
――そんなときだった。あの人に出会ったのは。
「齢12にして、孫子、三略を知り、さながら諸葛孔明の如き鬼才と噂されている、碓井貞光というのは君か?」
今から4年前、そう言って現れたのが、清和源氏の家に連なる源頼光だった。
義を重んじ、仁を尊ぶ男女どちらからも噂に名高い源頼光の名は、人との交流の少ない自分にも届いていた。そんな彼がある日、自分を尋ねにやってきたのだった。
あの日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
「はい。私を諸葛孔明と言うのなら、貴殿は劉備元徳ということでしょうか?」
「いや、初対面で会えた以上、俺は劉備ではないのだろう」
三顧の礼に倣ったやり取りで、快活に笑うあの人を見て、今まで出会った人間の誰とも違うように思えた。
合理的なものを重んじる自分だが、あの時はふと、この人との縁が続くような、そんな非合理な予感を感じていた。
結果的にその見立ては間違っておらず、頼光に従う軍師として月世入りの人員にも加えてもらっている。
頼光と出会わなければ、きっと今頃得た知見を活かす機会もなく、燻っていただろう。その恩義は計り知れない。
綱ほどの盲信さはないものの、確実に自分の人生は頼光と切っても切り離せないものとなっていた。
そんな主人は、こと結婚に関してだけは優柔不断で、子どもがいてもおかしくない年齢にも関わらず、いつまでも伴侶を作らなかった。由緒正しき家柄ゆえ、求婚者には事欠かなかったが、頼光が心動かされる相手に会ったことがなかった。
実際に主人の行末を懸念して、なぜ相手を作らないのか?と聞いたこともあったが、「好きになれないのだから仕方ないだろう。いざという時は養子を迎えるさ」と言って多くを語らなかった。
だからこそ、望月澪の出現は衝撃だった。
日頃自分たちに見せる厳しい表情から一変し、美丈夫ぶりを発揮した物腰の柔らかい態度。
綱でさえ訝しむ、甲斐甲斐しさに、確かに妖術の類かと思いたくなるのは理解できた。
極めつけは、物草家での夜。うなされていた澪に口付けを落としたこと。
特別な異性として見ていることは明白だった。
今までの頼光から、一目惚れをするような印象は受けないが、澪は明らかに初対面だ。実際に彼女とは、我々よりも未来の世界で生きている可能性についてすでに話をしている。そんな彼女が頼光とここに来るまでにあっていたとは考え難いし、距離感を見ても見知っていた相手のようには思えなかった。
しかし、頼光の方は何かの確信を持っているように見えた。自分の慕う相手で間違いがないと。
初めから月守の手に渡らぬように最もな理由をつけて囲っているし、我々も彼女と二人になろうものなら静かに嫉妬の対象にされている。
なぜそんなに頼光は澪に入れ込むのか?という頼光への疑問と、
澪にそこまで思わせるものがあるのか?という澪への疑問がずっと頭にあった。
だが、昨晩のやり取りで、少なくとも後者の疑問が一つ解けたような気がしていた。
”「合理的なことが安心だなんて、変わったことを言いますね…」
「確かに、そうですよね。普通は共感してもらったりする方が安心しますよね。…でも、碓井さんは仮に私のことを嫌っても、嫌いだから貶めようという理由で今伝えている情報をあけすけに話されたりしない。そういう人だから、きっと頼光さんにも私の本の話をされてると思うんですけど、それは必要なことだけ伝えてるんじゃないかと思うんです。違いますか?」”
確かに今頼光たちに、澪の持つ本が自分たちの出てくる話であることや彼女が未来から来た可能性があることをいたずらに伝えても混乱させこそすれ、良い影響を生む段階ではないと判断し、話す気はなかったが、それを確かに見抜かれていたことにまず驚嘆した。
頼光からも自分の分析力や先を見通す力は役に立つとは言われたが、その力によって安心すると言われたことは初めてで、それにも驚きを覚えていた。
ただ変わった見方をするだけでなく、なぜ自分のこの力が安心するのか、そこにはしっかりと彼女なりの合理があった。
そして自分も、澪から安心すると評価されたことを嫌だと感じなかった。
それどころかむしろーー。
「ーーあ」
気がつくと、思考に没頭していたせいで、筆の穂先が斐紙に滲み、黒い染みが広がっていた。
我に返り、軽く頭を振る。
ーーこの先は考えてはいけない。
いつの間にか遠くからは、木刀のぶつかる乾いた音が響いている。
その音を耳に、再び紙の上に筆を走らせた。




