第五章:忍び寄る影(一)
――翌朝
空が薄紅に染まりはじめた頃、物草家の屋敷には静けさが満ちていた。庭には風のそよぎと鳥のさえずりだけが漂っている。
澪は、まだ少し冷たい井戸水で顔を洗い、支度を整えていた。旅装束に袖を通し、鏡台の前に座って鏡に映る自分を一瞥する。昨夜の聖との出来事を反芻しながら、その瞳はどこか引き締まっていた。
やがて、屋敷を後にする刻がやってくる。
頼光、綱、貞光、そして澪の四人は門前に揃って立っていた。
「……準備、整いました」
澪が頼光にそう告げると、頼光は小さくうなずいた。
そこへ、物草聖が姿を現す。
「おやおや、もうお発ちですか。せめて朝餉を召し上がってからでも……と言いたいところですが、そうもいきませんか」
相変わらずの笑みを浮かべ、聖はのんびりとした口調で言う。
「お気遣い感謝します。ですが、我々も月の宮に戻らねばなりませんので」
頼光はきっぱりと応じた。昨夜の件を引きずらず、しかし明確な距離感を保つその姿勢には毅然としたものがあった。
「ごもっとも。では少しだけお待ちください、今道中に食べられるものを持って来させますので」
聖は近くの使用人に目配せし、使用人が屋敷の中へ戻っていった。
「私のお伝えした情報がお役に立つといいのですが……行方不明となった娘の人相書もこちらに。見かけたら私にお知らせいただけるとーー」
そう言って袂から一枚の紙を出し、頼光に渡す。頼光はそれを受け取り、広げる。澪も後ろから覗き込むと、娘の特徴と似顔絵と思しき絵が描かれていた。昨日は行方不明の娘を心配するそぶりが見えなかったが、頭領としての勤めはしっかり果たすつもりのようだった。
「しかと承りました」
頼光も神妙にその紙を畳んで落とさぬよう袂に仕舞い込んだ。
しかし、無事に見つかったとしてもそれが彼女にとって幸せなのだろうか?そんな疑問が一同の頭によぎっていることを悟ってか、使用人が戻る暇つぶしとしてか、聖は柔らかく話す。
「昨日はお話ししていませんでしたが、彼女の行方不明はもともとあの農夫が私に直接言いに来たのです。それこそ普通の親のように、娘がいなくなったことを悲しむようにーー。しかし、明らかに不摂生な顔色から使いに家を調べさせると大量の酒瓶が見つかりました。娘を虐げていたのではと伝えると、男はすぐに白状したのです。そのような人間なので、私はあなた方を試す口実に使えると踏んで今回の計画を企てました。私が極悪非道な人間のように見えているでしょうが、彼だけでなく、今回協力していた周りの住民も、実は私に借りがありましてね。」
「借り……ですか」
続きを話したそうにする聖の意図を汲み、頼光が相槌を入れる。
「ええ、私が今の地位についたのは、元はこの国に頭首がいなかったからなんですが、頭首がいなくて困った時に、いい厄介払いになると、それらしいことを言われ持ち上げられましてね。彼らはその時に私を持ち上げた者たちなのですよ」
そう言って、綺麗な笑みを浮かべているが、その内面には目には目をとでも言いたげな冷酷さが宿っていた。
”それらしいことを言われ持ち上げられた”その言葉に澪は、書き換えられた『ものくさ太郎』の
”「されば物草太郎に押しつけ申さん」”
という一節を思い返していた。
「私は清廉潔白な人間ではありませんが、火のないところに煙を立てるほど悪人ではありません。それだけは誤解なきようーー。ですから、農夫の娘の件は、彼女が例え望んでここを出て行ったとしても、私の大切な国民です。もし見つかれば親元には返さず、身柄はこちらで確保するつもりにしておりますので、その子に会えたらそのようにお伝えください」
「わかりました。その言葉、彼女を無事に確保できた時にはしかと伝えましょう」
そう言って頼光は深々と礼をした。頼光の礼に頷いたのち、聖は彼の後ろに控えていた澪に目を向ける。
「それと、望月さん。昨晩は失礼をいたしました。これに懲りず、今度は土の国に遊びに来てください。心から歓迎いたしますよ」
きっと気軽に来ることはないだろうと思いながらも澪は会釈をする。
その頃に先ほど屋敷に戻っていった使用人が、包みを持って再び現れた。
「……では、参ります。」
頼光の言葉とともに、一行は門を出る。足元には朝露が残る石畳。屋敷を背にして振り返る者は、誰一人いなかった。
こうして、彼らは月の宮への帰路についた。
*
土の国の関所を抜け、しばらく行ったところで頼光は緊張を解いたように息を吐いた。
「頼光様…どうされましたか…?」
主君が不調を抱えているのかと心配した綱が不安げに声をかける。
「いや、なんだかどっと気疲れしたなと。貞光についてきてもらって正解だった。俺だけでは彼の策略は見抜けなかっただろう」
「お役に立てて何よりです。しかし、月世は月守を頂に、統率された世界だと思っておりましたが、意外にも一枚岩ではないようですね。次の火の国の頭首は義に厚い者と噂されています。あまり私のお役に立てる相手ではないように思いますので、その間にもう少し月世のことを調査したいと思います」
「それもそうだな。考えておこう」
ぽつりぽつりと先のことを話しながら、一同は坂道を登っていた。
そんな中、澪は男性の歩く速度に合わせていたせいか、徐々に息苦しくなっていくのを感じていた。
(どうしよう……。こんなに毎日長時間晒をつけてなかったせいか、苦しくなってきた…)
「澪さん…大丈夫かい?顔色が少し優れないように見えるが…」
ふと澪が顔を上げると、心配そうな頼光が立ち止まって澪の顔を見ていた。
「確かに青白くなっているな。」
つられて綱も澪の顔色の悪さを心配する。
すると貞光が理由を察し、
「胸を締め付けているのが苦しいんじゃないですか?」
と包み隠さず言った。
「むっ?!」「なっ、なるほど!!」
女性に免疫のない綱は反応に困ったように、
前科がある頼光は先日の記憶を呼び起こさないように、澪から目を逸らした。
「足を引っ張ってすみません…。ちょっと坂道が体にきたようで…。少しだけ晒を緩めてきてもいいでしょうか?」
「わかった。もう少し先にひらけたところがあったはずだから、そこで少し休憩を取ろう。それまで頑張れるかい?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
そうして一同が少し歩くと旅人が休憩に使っているのか、木が倒れたところに人の足で土が踏み固められ、広場のようになった場所を見つけた。
おそらく行きしなにも通ったはずだが、澪は行きには感じなかった既視感を覚えた。
(この場所ーー。どこかで見たような……?)
「じゃあ俺たちは少し離れたところに待機するから、澪さんはここで休んで。もし何かあれば声をあげてくれたら駆けつけるから」
「ありがとうございます。」
そう言って、頼光は綱と貞光を連れて距離をとった。
澪は3人の足音が遠ざかるのを確認してから、身頃を少し開き晒に手をかけた。流石に外ということもあって、完全にはだけるのは気が引けたため、晒の締め付けを少し緩めるだけにしようと着物の中に手を入れて結び目を解いた。
結び目を解くと、締め付けから解放され新鮮な空気が深くまで吸えるようになった。土と葉の瑞々しい匂いをしばらく胸いっぱい吸い込む。徐々に先ほどの気分の悪さが落ち着いていくのを感じていた。
しばらくそうしてから、締め付けを少し緩和した状態で晒を撒き直す。その間もこの場所の既視感の原因を考えているとふと、思い当たる記憶に行き着いた。
(そうだ。ここ、物草家の屋敷で見た夢の場所に似てるんだ……)
完全に一緒と言えるほど詳細まで覚えていたわけではないが、今自分が腰掛けている丸太や、整備されたわけではなく人の足で徐々に踏み固められてできた空間がなんとなく似ていると思えた。
(そんな場所、きっとこの世界では至る所にあるだろうけど……)
きっと気のせいだろう、そんなことを思いながら、服を整えた澪はそろそろ頼光らと合流しようと思い立ち上がる。
ーと、その時だった。
背後に強い視線を感じ、澪は振り返った。
ひと筋の風が吹き抜け、空気が張りつめる。
振り返った澪の視線の先ーー
そこには、見知らぬ男が立っていた。
金色の瞳。
夜明けのように赤と黒が溶け合う、なびく長髪。
額には、鈍く光る一本の角ーー。
「……鬼」
澪は気づけばそう呟いていた。
その場に縫い付けられたかのように、体が動かなかった。




