第四章:怠け者だった男の国(三)
土の国:豊かな土地があり、農耕を中心とした月世の食を支えている国
物草家:土の国の当主を務める一族
物草聖:物草家の当主であり、土の国の主
対屋に戻った一行は、それぞれの寝具に腰を落ち着けていた。部屋の隅には、女中が用意してくれた衝立が一枚。澪は自然とその裏を寝所に選び、誰もこちらに注意を払っていないのを確かめると、そっと着物の襟元に手をかけ、晒を解き始めた。
(ふう……。やっぱり長時間は少しきつかったな)
肌が夜気に触れ、ほっとした吐息が漏れる。
と、その時──
「澪さん、水をもらってきたんだけど、君もいるかい?」
不意に、衝立のすぐ向こうから頼光の声がかけられた。
ちょうど澪は、身頃をはだけ、晒も半ばほど解けた状態だった。胸元がそのまま露わになった格好で、思わず息を呑む。
咄嗟に身頃と晒を引き寄せて隠そうとするが、晒の端が足元にかかっていたらしく、強く引いた拍子にバランスを崩して尻もちをついてしまった。
「きゃっ……!」
「っ、大丈夫!?」
衝立の隙間から覗き込んできた頼光と、澪の視線がぶつかる。
一瞬、時が止まった。
澪の胸元は身頃が全開になり、晒が大きくずれ、元の膨らみがあらわになっていた。頼光の目が、そこに吸い寄せられる。
「……っ!」
澪がはっとして慌てて胸元を手で隠すと、頼光も我に返ったように視線を逸らし、
「す、すまない。見てない……見てないから……」
と言い訳のように早口で呟いた。耳までほんのりと赤く染まり、平時の落ち着きはどこへやら。
「い、いえ……!こちらこそ……お見苦しいところを……」
澪も顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で返す。
しばらく、沈黙。
頼光は衝立の向こうで静かに息を整えると、少し掠れた声で言った。
「……驚かせて悪かった。何かあったのかと思って。無用心だったね」
「私なら、大丈夫です……。本当に、少し転んだだけなので……」
「そうか……なら、よかった」
頼光はそれ以上言葉を重ねず、静かに踵を返して衝立を離れていった。澪は背を向ける頼光の気配を、胸の奥に熱を残しながら見送った。
(碓井さんも源さんも……気配がなさすぎて、心臓に悪い……)
今日だけで二度も背後から声をかけられた澪は、気配察知の修行でもした方がいいのではと、本気で思い始めていた。
障子の向こうでは、虫の声が静かに鳴いている。
*
夜も更け、皆が寝静まった頃。頼光は横になったまま、まんじりともせず天井を見つめていた。
隣では綱が、酔いのせいか気持ちよさそうに小さないびきを立てている。
(宴の酒が回ったんだな。綱は下戸だし……)
障子越しの虫の音に耳を傾けてはみるが、先ほどの澪の着衣が乱れて半分ほどあらわになった豊かな胸と白い肌、そして焦りで頬を熱らせるその表情を何度も思い出し、悶々としていた。
(こんなこと考えてるって知られたら、軽蔑……されるよな……)
頼光はそっと起き上がり、縁側へ出て夜風に当たる。夜空には月がなく、虫の声だけが空気を揺らしていた。
あぐらをかいて、目を閉じ、意識を静める。半刻ほどそうしていると、頭の熱もようやく落ち着いてきた。
そろそろ寝床に戻ろうと立ち上がったそのとき、
「……う……うぅ……」
微かに澪のうめき声が聞こえてきた。
頼光は一瞬迷ったが、慎重に衝立の外から様子を伺った。やがて、うなされているのだと分かり、そっと中を覗く。
澪は眉間に皺を寄せ、苦しげな寝顔をしていた。
(悪い夢か……?)
しばらく見守っていたが、依然として苦しそうな様子にいてもたってもいられず、そっとその額に手を添え、髪を撫でる。すると、澪の顔から少しずつ緊張が消え、寝息も穏やかなものへと変わっていった。
その安らかな顔に安堵した頼光は、額に添えた手を外し、そのまま自然な流れで首元の長い髪を一房掬った。
絹のような柔らかな感触。衝動的にそれにそっと口付け、囁く。
「おやすみ。……良い夢を」
そう言ってから気配を殺して静かに立ち去り、寝床へと戻っていった。
*
その一部始終を、貞光は寝た体勢のまま気配で読み取っていた。
澪のうわ言に目を覚ました彼は、様子を見に行くべきか逡巡していたが――間もなく頼光の気配が戻ってきたため、結局は身じろぎもせずに、布団の中で事の成り行きを伺っていたのだった。
位置的に二人の姿を直接見ることは叶わなかったが、最後に聞こえた「かすかな口付けのような音」は、耳が確かに捉えていた。
(あーあ。うちの大将って、ああいう人だったんだなー……流石にのめり込みすぎでしょ)
綱ほど盲目的ではないものの、幼い頃より頼光の才と人柄に惹かれ、常にその背中を追ってきた貞光にとって、女性に対してああも感情を露わにする姿を見るのは、少なからず動揺を伴う体験だった。
(にしても……なぜ彼女に、そこまで?)
出会ってまだ3日しか経っていない彼女になぜここまで心を砕いているのか、説明がつく合理的な理由を考えているうちに、彼の意識も静かに闇の底へと落ちていった。
*
その頃、澪は――夢を見ていた。
まるで神の視点のように、俯瞰で眺めている夢だった。自分の意志で動ける感覚はなく、ただ出来事の流れを追うしかない。
朱を溶かしたような空の下。場所はどこかの森の一角だろうか。小さな広場のように開けた地に、腰掛けられるような古びた丸太。まわりは踏み慣らされた草が生い茂るだけで、人の手が加わった気配はない。
そこへ、二人の男女が現れる。
女は、濡羽色の長い髪を背に流し、巫女装束を纏っている。顔までは見えないが、姿に気品と儚さを宿していた。
男は、炎のように赤い髪を持ち、鈍く光る角が額から覗いている。鬼――それ以外の言葉では言い表せない存在だった。
二人は手を取り合い、笑い合っていた。寄り添い、目を合わせ、風の音に紛れて、くすくすと笑うような仕草すら見えた。
だが――。
場面は突然、切り替わる。
先ほどの女が、三畳一間ほどの狭く暗い空間で髪を振り乱し、声にならぬ慟哭を上げている。口は開かれているが音はない。ただ振り乱した髪の奥に見えるその目だけが、狂気と絶望を孕んでぎらついていた。
見ているだけなのに、澪の喉が締めつけられるように苦しくなる。息ができない。何度吸おうとしても、空気が入ってこない。
(たすけて……)
叫びたくても声が出ない。口を開いても、ただヒュウヒュウと鳴るだけ。
その女の底知れぬ苦しみが、澪の胸を、頭を、感情の核を打ち抜いてくる。まるで自分のことのように、痛みが流れ込んでくる。
そのとき――ふと、額に温もりを感じた。
人肌のぬくもり。優しく、やわらかな熱。
それが澪の中に溜まりすぎた負の感情を、少しずつ溶かすように外へと押し出していく。やがて息が戻り、胸の圧迫感も和らいだ。
夢の中の澪は、まだ泣き叫ぶ女性を見つめながらも、ゆっくりと、さらに深い眠りの底へと沈んでいった。




