第 七章 シエスタ
シエスタ。世界の正午を過ぎ、気怠い爛熟を迎える。
大華厳龍國、又の名を龍梁劉禅というその国は未だ早暁であった。
大元汎都にある荘厳な大宮殿で行われる朝廷(毎朝、官吏がならぶ広い庭)は大華厳の間において、廷臣が集い、儼かしく始まった。。
朝廷の原義から言えば、本来は、屋外であるべきところだが、そこは一万人以上を収容できる広間であった。
龍皇帝、オウリュー十三世はポウ将軍の説を聴いていた。
「海を制すべきでしょう。
神聖帝国は海軍を寄せています。彼らが半島を西から攻める時、その動向を見守りましょう。恐らくは、彼らも必勝の理を、機らきをつかもうとしています。
しかし、我らが伝統から見れば、彼らは未だその道の素人でしかない。わずか二千年の歴史など。
シルヴィエ帝国の敗退の瞬間を狙い、我らはいゐりゃぬ国と和議し、いゐりゃぬ神を奉じ、我らが神となすのです。古来の精緻なる典礼儀式の妙を尽くして祀り」
皇帝は苦笑した。
「我らは通暁者か。
さような叡智があるか。
知とは、何ぞや。
イシュタルーナの衆講義の記録を読んだか」
ポウ将軍は一人の老人を招き寄せた。白く長い髪、白く長い髯、長人と呼ばれた天文占星学者タイパクである。
「天文占星を専らとする家、エイセイ家の長、このタイパク師によれば、いゐりゃぬ神は天然自然、万有を融通し、無罣礙、無為無差別、無分別が本来、今、イシュタルーナの味方になっているのは、風が西から吹いたり、北から吹いたりするのと同じ、現実の非情性と何ら変わりません。
我々天文占星の者たちは陰陽五行の理を尽くし、奇門遁甲の妙を究めて、いゐりゃぬ神の御心を推察しようとしております。
天然自然の理に心を寄せ、悟ろうとしています。
ロゴスに聴従しようとするように。
御心に寄り添うために、道を究め、平常道を究めようとしています。
天地の機らきを読み、機をつかめば、神の御心に適うのは、我らです」
冷厳なる皇帝は薄ら笑いを浮かべた。
「天地の理を読み解きて、世界を思うがままに渉った者など、歴史上、未だかつて、一人としておらぬ。
人は天地を読むというが、その人の心を機らかせているのは天地である。人は、ただ、天然自然の理のままに、動き、望み、考え、心する。
自由などない。
おまえの読みも、いゐりゃぬ神の手のうちだ。
どうなるかは、誰にもわからない」
大神殿の奥なる大御社の奥である〝祠〟、すなわち、御社にて、イシュタルーナが祈禱するとき、いゐりゃぬ神は告げた。
「叡智は世に満ちている。叡智を持つ者たちは、必ずしも専門家ではない。
ただ人にしか過ぎぬ一人の皇帝が叡智を抱く時もある。
イシュタルーナよ、我がしもべ、おまえに教えよう、今朝ほど、大華厳龍國の皇帝が何と言ったかを。
叡智は流出したいところへ流出する。龍皇帝、オウリュー十三世に語らせたいと思えば、皇帝ですらも叡智の言葉を語る。
これ東の帝国に限らず。西南北もまた然り。北の強大なる覇者、前の皇帝レオン・フランシスコ・デル・シルヴィエを廃位に追い込んだクーデター皇帝、今の絶対神聖皇帝イータであろうと同じこと。
すべては朕の思うとおりに動いている。選択肢はない。永劫の過去から、永劫の未来まで、一貫し、一瞬とても途絶えたこともない。無数の巨大な宇宙を包括する全世界のどこであっても、どこでなくても。遺漏はない。天網恢恢疎にして漏らさず。
朕は全知全能完全無欠全網羅である。
永遠の勝者は喪失を怖れない。釈迦牟尼は老病死苦を厭わぬことで老病死苦を超越した。神にならんとする者は神にはなれぬ。神ならぬ者こそ神なり。不死者は不死ではない。不死なる者は死を怖れるがゆえに不死である。死を恐れぬ者は不死とはならずに天然自然の理に従う。真の不死者は死ぬる者である。
さればこそ、朕は敗残の潰走者となるときに、敗残の潰走者となるであろう。死すときに死すであろう。すべてを想うようになせぬときに、思うようになせぬであろう。
完全無欠であるがゆえに。
そうでなければ、完全無欠ではない。
さあ、もうわかったであろう、イシュタルーナ、巫女騎士よ。大いなる季節が来る。歓び歌え。
大審問官と手を繋いで踊れ」
イシュタルーナは瞑目し、『大審問官』とは何か、甚深に思考した。そして、
「古代の洞へ。
大疑団の萌芽の起源となった彼方の究竟へ。
もっとも古い深層へ。如何なる懐疑も死に絶える彼方の極北へ。
逝にしへを甚深に究めようぞ。精妙に神妙に究竟せよ、と衆に言おう。よく噛み分けよ、香のよう味覚のように古生代の感覚を呼び戻せ、と。
いざ生きめやも。
真空の世に寄る辺なし。激流に足場なく、縋る洲もなし。
されば、棹を差さずばなるまい。
妾は衆に告げるであろう、人、敗れるとても、堂々果敢すべし、と」
かつての首都フジワラ、現今のイヰリャヌグラードの中心には、大きな公道が貫徹している。エスプレッソ街道だ。
北にある、イノーグ副聖都まで一直線に伸び、イヰリャヌートへと登る道に繋がっていた。
道路の幅は全体で二百メートルある。左街道、中央街道、右街道に三分割されていた。
左街道は幅五十メートルで、イノーグから南下する者が進んだ。
右街道もまた、幅は五十メートル、イノーグへ北上しようとする列が進むのであった。
いずれも、徒歩の人やロバやトナカイや馬車や牛車や騎馬や大羚羊が悠々と往復し、稀に駱駝や龍馬や麒麟や乗用白虎なども行く。
道路沿いには商店や旅籠などなど多くあるが、広い歩道上に露店を広げる庶民も数多いた。
中央街道は中央分離帯の役も果たしている。
イオニア式の円柱や、トレーサリーを上部に戴くアーチ、数々の彫刻で覆われた壁を処々に置き、壮麗なことこの上もなかった。
幅は百メートルあり、上と下の二層構造で、下道は屋根つき列柱廊で、高速専用の一般道である。屋根の高さは十メートルあり、左右の街道を行き来するための陸橋が処々に渡されていた。
実質的な道路幅は四十メートルほどで、両脇は食料品店や衣料店、食堂や喫茶、休憩所、薪売り、旅籠、飼葉販売、蹄鉄作りの鍛冶屋、湯浴み所、公衆酒場などがある。
上道はその屋根の上にあって、要するに屋上なのだが、胸壁を備え、軍事専用道路であり、急使や派遣された軍兵団などが疾駈していた。
胸壁と警備隊の駐在する小塔がある以外はフラットである。
ゾーイはイヰリャヌグラードを貫く幅二百メートルの街道を跨ぐような、陸橋型の城砦を、いや、屋敷を建てて、公私を問わずにいつも往来の監視をしていた。
この陸橋構造の城砦型の屋敷の両端には、石造建築が聳え、それぞれの中心には、四角い中庭があった。砂漠色した敷石が敷き詰められている。数百人の兵士が整列するときもあった。
自宅とは言え、兵舎や武器庫も兼ねているのである。
「静かな午後だな」
ゾーイは天球儀のある書斎で、海図を見ながら考え込んでいた。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音しか聞こえない。静寂であった。
瘦せっぽちで小柄な、大きな鼻、口髭を盛り上げるように蓄え、風采は貧相であるも、今や押すに押されぬ銀の聖闘士である。
窓の下を眺めた。街道を数多の人や馬車や騎馬が往来する。
絹の服を着て、豪勢な青貂の毛皮を被っていた。
国民のほとんどが鉄で、一般市民であるか、一兵卒、又は軍曹・曹長かであるか、極稀に少尉であった。
銅はブルジョワジー、又は下級将校や騎士などである。
青銅が上位の騎士や、男爵など小貴族、将であった。
そして、銀は聖なる闘士という神聖な身分で、大貴族という時代である。
ゾーイの子分であったチエフも、今や男爵だ。彼自身はゾーイ同様に小柄だが、筋骨隆々たる銅の騎士数名を常にさぶらわせ、華美な儀装に、威風堂々。嗅ぎ煙草を嗜む。
「時々、我に還って、顧みる時、信じられない思いがする。数か月前と何と違うことか。足軽風情の俺が王侯貴族の身分になっちまったんだからな」
「運命ですね」
「ちげえねえや。ふふ。まあ、諸行は無常なのさ。なるようになるさ」
「そうですね。しかし、わかっていても、人間って奴あ、悪足搔きするもんです」
「そのようだな。おい、チエフ、相も変わらずシルヴィエはスパイを送り込んで来てるんだな」
「ええ。いゐりゃぬ神の力に納得がいかないのでしょう。何とか工夫をすれば、いゐりゃぬ神の眼を免れるかと、毎度、毎度、あの手この手でさまざまに創意工夫しています。まったく感心するほどですが、所詮、人間の力ですから、無限ではありません」
「おかげで、向こうの動きが解って、こっちは助かっているが」
ゾーイはポケットから乾燥煙草を取り出して鼻腔に吸い込む。
「まあ、それが偽の情報だったということもあるんです、こちらをハメるための。
しかし、裏の裏の裏の裏の裏の裏であろうとも、いゐりゅぬ神が知らないことなんてありませんから、問題はありません。
そこまでバレバレなのに、あたかもバレてないだろう的な自信満々で来るから、いや、滑稽で滑稽で、楽しくて仕方ない」
「確実にわかっているのは奴らが侵攻して来ることだ。大艦隊でな。
大航空母艦に、ジェット戦闘機だ。
俺には、わからないが、それでも、俺たちが勝つんだろうな」
「いいえ、衆講義のとおりです。
ちなみに、東大陸の帝国たちも、我らを潰そうとしています。新しい力が気に入らないのでしょう。特に、強い力が。
人は実は皆、怯えて生きています。
彼らには不安と猜疑があるのです。不安なので、信じることが怖くて、すべてを信じたくないのです。
彼らは彼らが見ている現象、すなわち、彼らが見たいように見えるように企投した現象を見て、事実を推測しています。
猜疑心でモノを見るから、猜疑的にしか見えない。
結局、実在があって、それを感受して反映する感覚を、その段階では何者でもない感覚を、何かのかたちに構築してモノ・コトとして整理し、整理されたものを命名して分類し、認識が生じる、現象がある、ということではない。ってことです。
まずは、いきなり現象があって、そこから〝実在〟が捏造されるのです。すなわち、人はありもしない実在の幻影を見ているのです。起因もキッカケもなしに、最初から企投しているのです。
すべては心です。
我々は宣教も侵略も何も考えていないのに、不思議なものです。勝手に脅威を感じているようです、奴らは」
「戦争なんて、そんなことなのさ。もしくは、武器商人の販売促進活動さ。それがために、庶民は家族から引き裂かれ、見知らぬ土地で悲惨な死を遂げなければならないのだから、堪ったもんじゃない」
「商売ですからね」
「ふ。そんな奴らでも、娘の誕生日にはプレゼントを買うのさ」
「政治家も高級官僚もです」
「確かにな。
栄華と権勢と名誉と金銭とを求める。清貧を嫌い、名声への依存、妄想的に肥大した自己の優越性を顕示することへの欲望。
多くの国の官僚は国家を私物化している。自分の成功と収入のため、ポストを求めているに過ぎない。
人は奇妙だ。そんな奴らでも、慈悲を説く神の前で祈り、家族を愛し、週末にはご馳走を食べ、夏には海辺の別荘へバカンスに行く。大したもんだ。
そんなことのために庶民は運命を狂わされ、夢も絶え、見知らぬ場所で辛酸を舐め、斃れて死す。
戦争が終わって生きて帰れば、少女を姦したか、こどもを殺したかと問われ、非難される。庶民は徹底して犠牲者だ」
「王侯貴族は兵士など駒としか思っていませんからね」
「上流階級の子弟は激戦地にはあまり行かないようだしな。
どこであろうと、いつの時代も、侵略されているのは庶民であって、国じゃない。攻めた国も攻められた国も、犠牲者は庶民、庶民がいつも被害者なのさ。
国単位、宗教単位で裁こうとしても、実態に沿わないと思うぜ、俺は。
つまりはヒエラルキーの下層が犠牲者で、悪はその上の方にいる連中なのさ」
「まるで、階級闘争の話みたいですね」
「俺は共産主義に興味はない。私有財産という蜜を知った人類が原始共産主義には戻れないように、共産主義には根底から無理がある。或る意味、基督教的な禁欲的理想主義だ。全員が私利私欲のない善人ならよかったんだがな。
社会制度をいくら工夫しても無駄だと思うね。人は皆、抜け道を見つける。したたかなクズどもはね」
「他人を犠牲にしても、人生、うまくやればよい、という考えはクズです。生きる意味も、価値も、資格もない」
「まあ、公平に言えば、誰も彼もうまいことやろうとしてる。そこは貴賤を問わずだよ。大したもんじゃねえか。素晴らしい世界だ」
「酒場にでも行きましょうか」
「あゝ、それがいい」
ゾーイは高級な店になど、あまり行かない。バルなどの立飲みが基本の大衆酒場によく行く。
上等な服を脱いで、粗くて、機能的で、頑丈な服に着替えた。いい気分だ。剣を佩く。非番の歩兵だと思われるであろう。それも楽しい。
行きつけに行った。二の腕の太い亭主は実は彼の配下で、抜け目のない男だった。
「スワン、元気か」
「おや、旦那、久しぶりで」
スワンなどという綽名とは似ても似つかない、海坊主のような漢だ。
昔は海賊皇リュウの家来の下っ端だった。直属の親分はポセイ。ポセイは渦巻く髪の毛と渦巻く鬚・髭・髯、ネプチューンのような大男で、リュウの配下でも特に暴れん坊であった。その親分の気風を受け継ぎ、スワンも元は冷厳な海賊であった。
「あゝ、そうだったかな? まあ、最近は、忙しかったからな。海の方にでも、行こうかと思ってな、どうだい、あっちは」
「いろいろ、ありやすぜ」
「まあ、今はいいや。明日、報告書をくれ」
「了解でっさ」
「ところで、つまみはチーズと生ハムでいいっすか」
「まかせるよ。うまいチーズだろうな」
「あっしの道楽はあちこちの地方や国に行って、うまいワインやチーズを探し当てることでっさ。特に人知らない田舎でね、農家が自家用に作っている奴がまた特別イケてることがあるんですよ、そいつを見つけたときの喜びったら、いや、これで病みつきなんでっさ。ご存じでがしょう」
「まあな。俺も引退したらやるか」
チエフがくすくす笑う。
「この前は養蜂家になるって言ってましたけどね」
「俺がか? ばかばかしい。シャーロック・ホームズの引退後じゃあるまいし」
「そもそも、あなたが引退できますかね」
ゾーイの顔が曇った。
「なかなかな、今の情勢を鑑みると、引退なんて夢のまた夢だな」
「でしょうね」
「やっと半島が落ち着きつつあるが、そうなると今度は大陸の連中が黙っていない。もし龍皇帝を黙らせても、他の大陸の超大国どもが黙っちゃいない。
そして、戦争。そして、何千何万もの人たちが死ぬ。一度しかない人生を奪われてな。その人にとっては世界の終わりだ。
戦争を起こした者には永遠の罪がある。人の法は免れても神の法は免れられない。くだらない人生だ。勝手に大国の夢を描き、自己満のために何万人もの命を犠牲にする。地獄へ最速で直行さ。権力者、財閥、武器商人ども。彘どもだ」