露天風呂
潮風を喰らいすぎて頬が強張ってきた。日没は近い。
俺たちは車へ戻り、ベッドの上で胡坐をかいた。友春が地図を出してきて広げた。作戦会議だ。
しかしここで考えてみると、陽が暮れたからといって動けなくなるわけではないし、どこで力尽きたとしても、眠るベッドは確保されている。海沿いに走っていれば、友春が是非にと推す朝日に染まる水平線とやらも見ることができるだろう。
俺は道路の案内板や目印が見にくくなるという点で、走りたくないだけだ。
友春は何やら駐車場所に拘っていた。
そんな俺たちの心情を、運転をしない隆宏が汲むことはない。座った瞬間から、お風呂、お風呂、と繰り返している。隆宏が言うには……、移動中この車の後部には、どこぞから細かい砂がパラパラと降ってくるそうだ。頭が痒い。昨日も、一昨日も風呂に入っていない、と頻りに訴えていた。
そんなときに、この車の横をすり抜けていく地元民が、窓に映った。母娘だろうか。姿勢から、ウォーキング中だとわかった。
「ちょっと、尋ねてくるわいや」
隆宏が地図を掴んで飛び出していった。
***
「もっと地元のお得情報とか、なかったんけぇ」友春が訊いた。
「俺も訊きたかったんやけど、娘のほうがめっちゃ警戒しとんねん」隆宏は唇を突き出している。
そういう所、俺たちは気が回らない。隆宏の言い訳には納得したが「隆宏のヒゲがアカンのとちゃうけ。俺が訊きに行ったら良かったわいや」と言った。
目的地は温泉宿になっていた。いつの間に決定したのかは、わからない。
温泉宿までは、途中から道に案内看板が出ていたので、地図を追うまでもなかった。十分と走らないうちに、俺たちは目的地に到着した。
宿泊客と、外風呂のみの客とでは、入口から別れているようだった。錆が回った看板に(外風呂のみ二00円)と掲示してある。
俺と友春は、着替えやら洗面具一式をベッドの下から掘り起こしにかかった。それに手間取っていると、先に様子を見てきた隆宏が、小走りで帰ってきた。
「タオルとか全部あるんやて! 温泉の出る地域の奴は得やのぉ。お前ら、早よ来いや」
それだけを叫んで、また隆宏はさっさと一人で行ってしまった。
俺たちの出身県には(有馬)というメジャーな温泉街があるが、行動範囲内でいう地元には、銭湯が一軒残っているだけだ。値段は四百十円だったか……。それと比較すれば、かなりお得だと思う。街の特色がハッキリとしている分、住んでいる人にしかわからない苦労があったりするものだが。そんな街の裏事情に、俺たちの頭は無関心だった。
温泉旅館の受付へ行くと、財布と車のキーを預かってくれた。それ以外の物品は籠に入れて、脱衣所の棚に置くだけ。時期的なことか、時間的なことか、人気がないのか……、俺たちの他に客はいないようだった。隆宏の籠を覗くと、服が無造作に入れられている。ここでは盗難事件なんて起こらないのだろうか? 自分の籠に衣服を脱ぎ入れているときに、友春と目が合った。友春も同じ疑問を抱いているようだ。お互いの視線はそのまま下がり、チラッと男竿を見合って、同時にニヤリ。
脱衣所の小屋を出ると、そこは外だった。陽が傾きかけた空が見える外。周囲に目隠しの囲いはしてあるものの、潮風がビュービューと吹き込む、外だった。
粗砂利の比率が多いコンクリートの通路が続く。五メートルほど先に、ただ丸いだけの錦鯉でも飼っていそうな露天風呂があって、今は隆宏専用になっていた。途中にシャワーが二機だけ設置してある。ここで体を洗うのは、結構な我慢大会になりそうだと思った。
「なぁ、キュウ。露天風呂て、体を洗う所も外にあるんけ?」
「床っていうか、地面がめっちゃ冷たいねんけど……。風呂までたどり着けるんけ?」
お互いに返事することなく、言いたいことだけを言った。
俺たちはつま先立ちで駆け出し、露天風呂に飛び込んだ。冷やされて乾いた皮膚に、熱い湯がジンジンと痺れて染みた。
「最近の若い奴らは常識がないのぉ。お前ら、かけ湯て知らんのけ?」
隆宏が迷惑そうに顔を拭いながら、頑固親父ふうに言った。
「どうせお前もやってへんやろ」と友春は言い返した。
隆宏はジロリと睨んでから、うつ伏せになった。両手で縁の石に掴まると「やったわ、ボケー!」と怒鳴った。そして、高速のバタ足で湯を浴びせ掛けてきた。
これは隆宏の悪ノリが始まるパターンだ。なので、俺と友春はしばらく無視を決め込んだ。しかし……夏までサッカー部だった奴のバタ足は、なかなか激しい上に、持久力もあって、しつこかった。
それが予想以上に長かったので、俺たちは隆宏の足をむんずと掴んで引っ張った。湯に沈めて、交互に隆宏の生尻を踏んだ。
ひと通りのおふざけが終わる――。
縁の窪んだ部分に頭を乗せて、放心した。
俺は熱い風呂が苦手で、普段から入浴に時間をかけない。そんな俺でも、頭が石で冷やされていると、いつまでもこの湯に浸かっていられるような気がした。相当、温まっておかないと……。この寒空の下で洗い場に行くための、長風呂だ。
友春と隆宏の会話が途切れると、波の音が聞こえてくる。岩を穿ったパイプから、ボチャボチャと流れ落ちては溢れて消える、湯を眺めていた。
そのまま何分くらい呆けていただろうか。パパッと幾度か点滅して点いた照明が、もうすぐ真っ暗なると教えてくれた。まだ星のない空に感じる物足りなさを差し引いても、二百円以上の価値がある。
「うおっしゃぁ、温まった! これならイケる」
隆宏が唐突に叫んで立ち上がり、波を起こした。
大抵の男は、モノの大きさで優劣を決めたがるものだ。俺は隆宏の男竿を見てショックを受けた。友春とは互角だったので、彼の心情も察する。
「うぇぇ。まだちょっと寒いぃ!」
隆宏は叫びながら、もの凄い速さで髪を洗っている。
「たぶんやけど、ヒゲ宏もジョウチョていう漢字、書けへんのやろうなぁ」
友春の口から、情緒なんて言葉が飛び出したことで、今が非日常なんだと再認識させられた。
隆宏の裸に興味はない。隆宏が顎ヒゲを洗う時にシャンプーを使うか、石鹸で顔のついでに洗うのかだけが、気になった。それと、変な中腰でタオルを股間に擦りつけだした隆宏を、馬鹿だと思った。
隆宏と入れ替わるように、今度は俺と友春が並んで、熱く激しく体を洗った。
それからまた、三人揃って静かに湯船に浸かった。疲れて、のぼせて、目を閉じる。波と風の音が心地良かった。
――風に混じる砂が頬に当たって、俺は目を開いた。
風が強いと、芝生に覆われた起伏の頂辺の砂が、一旦浚われて降るようだ。
緩やかな芝生の斜面に腰を下ろすと、突然、すぐ左横でギターが鳴り出したので、驚いた。見ると、地面へ這い出た大きな木の根っこに座って、ギターを弾いている隆宏がいた。
「お前、そんな趣味あったんけ。それ、何かええやん。何て曲?」
この距離で、声が届かないはずがないのに、隆宏は返事どころかこっちを見ようともしない。その馬鹿が曲を中断し、突然空を仰いだので、俺は釣られた。……木の枝が張り出して影を落としているだけで、何もない。
「なぁ」と、もう一度話しかけた。隆宏はまた無視して、弦を弾いた。音を探っては戻って、を繰り返し、繰り返し……。
生意気に作曲でもしているのか。お前の柄じゃないだろう?
髭面で目つきの悪い隆宏が、エレキギターをギャンギャンとがなり立てる姿なら想像しやすい。アコースティックで、しかも白いギター。それはいったいどこで売っていたんだ……。
何にせよ、この状況で隆宏が話し相手になってくれないとなると、俺が暇でしょうがない。では、寝るしかないかと、後ろを振り返ると……危なかった! 犬の糞がある。行動にケチがついたということは、寝るな、というお告げか?
俺は選択肢の二つ目、周辺を散歩することにした。立ち上がって、ズボンの尻をパシパシと払う。手応えが俺の体の記憶と違った。それでも変だとは思わず、舗装されている通路まで降りて、初めて「え、ココ、どこ?」と、三拍子で呟いた。
もう少し先に行けばわかるかもしれない、と一歩踏み出して気づいた。ここにたどり着くまでの記憶がない。――これは、また夢の中だ。
さて、いつものパターンだと、すぐ近くにもう一人の俺がいるはずだ。しかし、木のベンチには誰も座っていないし、コンクリートのベッドもシンプルな塊でしかなかった。
どうにもわからないと首を捻ったところで、先ほど尻を払ったときの違和感を思い出した。腰を捻って尻を見ると、やっぱりそこから白い紐が出ていた。引っ張れば、向こうが反応するかもしれない、と考えたが……。
相変わらずその紐は細くて薄いので、触らないように、こちらからたどって行くことにする。手繰り寄せて処理しながらでないと、切れたり絡まったりはしないだろうか? そんな不安が頭をよぎり、なかなか大胆な一歩が踏み出せなかった。
そんな考えは杞憂に終わる。近づけばその分短くなるようで、紐は弛まず宙に浮いていた。さすがは夢の中、と笑えないのは、それはそれで怖い気がしたからだ。
「こんなんも自動巻き取り式かいな! 便利な世の中になったもんや」
夢だとわかっているのに、呟いてみた。
エンジ色の歩道は小さな丘に沿って左へ大きくカーブしている。俺はただ、フヨフヨと浮く紐をたどって歩いた
すると道の向こうから、二人の女の子に両手を引かれて、邪魔くさそうに歩いて来る、俺が見えた。
……向こうの体が起きている。歩いている。笑っている。これは困った!
今さら、身を隠す場所もなく、どう対処していいのかもわからない。隆宏の所まで戻ればいいと、体は回れ右をするが、隠れなくてはならないのか? と思ってまた向き直る。でも、あれに対面しては駄目だと心がいうので、後ろを向いて一歩踏み出すと、夢の中で何がどうなるわけでもない、と頭がいって立ち止まる。その場で三回くらいは回った。結局、俺はその場から動けていない。
そうしている間に、向こうとの距離はどんどん縮まって、もう五メートルほどにまでなっていた。
向こうの三人は、まるで俺が存在していないかのように、堂々と道の真ん中を歩いて近づいてくる。
――多数決で俺が譲って端に寄った。
俺はそんな歩き方をしているのか。へぇ、と呟いて腕を組んだ。俺の横顔は子供らに何かを喋っているようだが、声は発していない。後ろ姿は……自分で思っていたより短足に見えて、心に軽い傷を負った。そんなことより、離れていってしまうけれど、いいのだろうか? 以前にあった同化前の眠気が来ない。先ほど、隆宏の隣で感じた軽い眠気がそれだったのか? なぜだか離れてはいけないような気がして、俺は走って一気に差を埋めた。
彼らが止まれば俺も止まり、しばらく後ろについて歩いた。話し声も聞こえない上に、埒が開かないというか、ついて回るのに飽きたので、思い切って呼び止めてみよう、と決めた。
生まれて初めて口にする言い様だった。「おい、そこの俺」
肩に手を掛けようとした瞬間、男の右手を引いていた女の子が、俺を振り返った。その女の子の顔から笑みが一瞬にして消えた。見開く目に潤いはなく、生気の欠片も感じられなかった。
キキっと背中に張りをおぼえて、俺はその背中を引っ張られるように後退りした。一歩、二歩とバックして、体を反転させたところで、目が覚めた。
両手の冷たく纏いつく物を見ると、もう女の子たちは俺を見ていた。夢はまだ続いている! 俺の吸った酸素が喉でヒッと鳴った。慌てて手を引っ込めて、子供たちとの繋がりを絶った。
俺から視線を逸した女の子たちは、お互いを見合って頷くと、手を取り合って駆け出した。
何度か振り返っては、俺を馬鹿にしているような、意地悪い笑顔で耳打ちし合っていた。
俺は膝から崩れ落ちて地面に両手を着いた。何て色の無い瞳……。背中を丸めると、首から張った二本の筋が余計に突っ張った。
「夢やて知ってる俺をここまでビビらせるって……あのガキんちょども、なかなかヤルやんけ」
俺は悪態を吐いた。その声はみっともなく裏返った。
顔中から噴出する汗が、顎の先で一瞬止まって、落ちた。息が浅くて苦しかった。正座したまま、反り返って深呼吸を試みる。まだ立ち上がれないでいた。
ギャリギャリッゴシャ!
唐突に、俺のすぐ後ろで車が事故ったような音がして、動けなかったはずの体が、咄嗟に飛び退いた。サーブボールを待ち受けるような臨戦態勢から、先ほどと何も変わらない風景に「何やねんな。もぉ」と言って肩を落とした。大きな木の傍まで戻って来ていた。
木の根元ではギターを抱えたまま、首だけ捻った状態の隆宏が、泣きそうな表情で俺を見ていた。
今の一部始終を、隆宏に見られていたかと思うと、凄く恥ずかしい。隆宏の表情の意味はわからなかった。
何やら熱くなってきた頭で、隆宏のことや女の子のことを、俺なりに整理しようとした。そこへ何の脈絡もなく、耳元でカチャッとドアノブを回す音がした。次から次へと起こる事象に振り回わされて、俺の喉はカラカラだ。
――あぁ、の底、はてる、キュ……。
湯の波が耳の中に触って、俺は頭を振った。ザバっと立ち上がって波を起こしたのは、隆宏だった。
「アカーン! 暇すぎて悟りを開いてしまいそうや。お前ら、まだゆっくりするんけ? お先に上がるわぇ」
体から蒸気を放ちながら、冷たい床をものともせずに出て行った。
「隆宏のスネ毛って、防寒の役割もあるんやな。……キュウ、マジで寝てたやろ。寝言、言うてたで。(あの川の底を這ってんじゃん)って、何や? 何で東京弁やねん」赤ら顔でフフッと笑った友春は「お前、どんな夢見とんねん」と言った。
「俺が、あの川の底を何とかって、ハッキリ言うたんけ?」
「おぅそうや。波の音を聞きながら寝るさかい、タラバになった夢でも見たんとちゃうけ?」
「川でタラバ蟹にはならんやろ。そんな夢とちゃうんやわ」
友春がのぼせた顔でヘラヘラとしていた。
時間にして、どれくらい眠っていたかな……。風呂の縁に引っ掛けていた後頭部が、ジンとする。タオルでも敷いておくべきだったか。
「ええ加減、のぼせるなぁ。出るか」
二人で同時に立ち上がった。
今の外気温は? 温泉パワーに守られた俺の体から、大量の湯気が立ち昇った。ほぉなるほど、これはいい。全然寒くない。
たまにはいいものだ、なんて話しながら、脱衣所の引き戸を開けると、すっかり着替えを済ませた隆宏が、備え付けのドライヤーをズボンに入れようとしているところだった。
「うぅわ。キュウ、アイツ見てみ。何ちゅう手癖悪いねん。こんな長閑な温泉宿のドライヤーをパチろうとしとるで」
「お前なぁ、俺らもこれから使うんやから、一個しかない物、そっとしとけよ。アホとちゃうか!」
二人のフルチンに説教されるほど、情けないことはないと感じてくれればいいのだが。
「いやいや、冗談やん」
コソ泥隆宏はドライヤーを鏡台に戻して、コンセントに挿し直した。
盗難防止のチェーンを引きちぎっておいて、冗談も何もあったものではない。
隆宏は先に車へ戻る、と言って逃げるように出ていった。俺は旅館の人に代わって、寝る前に説教してやろう、と思った。
バスタオルで体を拭い、自分の籠を引っ張り出すと、確実に持ってきたはずの俺の下着が失くなっていた。代わりに置いてあったのは、隆宏の腐ったパンツだった。
「あのボケは!」
隆宏のパンツと靴下をゴミ箱に叩き込んだ。
「腹がチギれそうや!」
友春が膝を折って大笑いしていた。




