義姉さん
土曜日の夕方――
工事現場から会社事務所に到着すると、アルバイトの指導を担当する社員さんが、毎日決まった台詞で、俺たちに日当を配っていく。
「ヘーイ、お疲れぇ、お疲れぇ。みんなぁ、来週の配属現場を、ちゃんと確認してから帰ってやぁ」
大手建設会社の下請けの下請けの……俺はあまりよく理解していない。この会社は給料が日払いである、という点を気に入っていた。
「おぅ、山西君は、今日で最後やて? 事務から連絡あったけど、ホンマかいな」袋もなしに現金の生渡し。
「ういっす、何とか目標金額が貯まりましたんで、さっそく来週から、車の免許を取りに行きますねん」
台帳にシャチハタで受領印をポンとつく。
社交辞令というやつかもしれない。若い人手を惜しんで、引き止めてくれる社員さんに、俺は「お世話になりました」と淡白に言って、帰り支度を始めた。
その最中にも、ここで知り合った日雇いのオッチャンたちが、次々と声をかけてくる。しかし、ここの経験が長い人は、最後だからとか、もう会う機会がないかもしれないからといって、しつこく呑みに誘ってくることはない。自分の生活で精一杯という雰囲気が滲み出ているし、入っては辞めて行く若いフリーターを、何人も見送ってきたからだろう。
俺は声をかけてくるオッチャンたち、一人一人に「また金に困ったら、お世話になりに来ます」と、冗談混じりに言った。
大人の事情で、事務所の二階に暮らすオッチャンたちにも別れを告げて、やたらと排気音のうるさい原チャリに跨った。これは兄貴から借りた物だ。俺の趣味じゃない。
どこへも寄らずに家へと急ぐ。
この時期に半帽のメットは本当につらい。鼻から首にかけては、グルグル巻きにしたマフラーで何とか凌げた。手足の耐久は二十分ぐらいが限界か。この気温で降り出せば、絶対に雪になる、と思った。
ひたすら前傾姿勢で農道の一本道を走り切り、本日も、やっとの思いで家にたどり着いた。
手を吐息で温める。冷えてギチギチと軋む背骨を曲げて、チェーンロックを掛けた。一連の動作の締めくくりとして「うぅ寒っ!」と独りごち、短く震えた。
「ホンマ、寒いね。久君、お疲れ様」
長く伸びた人影と足音で、後ろに誰かが近づいて来ているのは知っていた。てっきり、いつもこの時間帯に散歩している、近所のおじさんだと思い込んでいたので、虚を衝かれた。
「ゴメンなぁ、驚かしてしもた?」
俺の背後には、白いコートを羽織ったキャバクラ出勤前ふうの女性が、ニコニコしながら立っていた。フカフカで派手なファーが、彼女の赤い唇の近くまでを覆っていた。
俺に手を合わせて〈ゴメンね〉ポーズをする女性の後ろに、兄貴がニヤニヤとしながら突っ立っている。
「晩飯、できてっぞ。紹介したるけど、とりあえずは寒いし、家に入ろうけぇ」
兄貴は両手を脇に差し入れて、すぐに振り返って歩き出した。
そうか、この人が……。
俺は腰を伸ばして立ち上がり、二人の後ろについて歩き出した。そこで気づいたのは、兄貴の嫁さんは背が高いということ。176cmの俺と、同じぐらいだ。靴のヒールの分を差し引いても、170cmくらいか。それと、金髪の巻き髪。この低湿度の中で、その艶を維持する秘訣は何だ? 諸々を総合して「兄貴ぃ、この人で大丈夫かいな」と呟いた。
清楚なお義姉様像を膨らませていたのは、俺の低レベルな脳の勝手な想像。理想が崩れたといって、誰を責めるわけにもいかない。昔、人を見た目で判断するのは良くないことだと教わった。それでも、彼女の趣味がお菓子作りじゃない確率は、高いだろうと思った。
居間を通り抜ける際に、俺の目が炬燵の上で火にかかる鍋を捕らえた。蓋の穴からポッポと吹き出る湯気が、明らかに誘っている。もちろん、腹は減ってはいるが、俺は晩飯よりも先に湯船に浸かって、悴んだ手足の血行を回復したかった。
言えば、兄貴は先に食べ始めるなりするだろうが、今晩からは義姉さんが一緒だ。義姉さんがどういう人なのか、全くわからないだけに、俺は洗濯機を回しながら思考を巡らせた。
俺なりの気遣いは、兄貴の「何しとんねん。早よ来いや」で振り払われた。
それで、手洗い、うがい、着替えるだけで居間へ行った。
夕方に終わるバイトに変えてから、晩飯の準備は専ら俺の役目だったので、久しぶりに味わう据え膳には、かなりテンションが上がる。座ると同時に、がっつきたい衝動を抑えるために、両手を炬燵の中で揉んだ。
俺が座ってすぐに、ン、ンッ、とお爺みたいにタンを切った兄貴が口を開く。
「まぁ、何ちゅうか……嫁の智美や。旧姓は木村で、ワシと同いやし、お前の五つ上になるわな。はい、終わり。タマゴが、まだちょっと染みてへんかな?」
兄貴の電撃発表のときから比べると、だいぶ興味は薄れていたので別に構わないけれども。見た目のことが、大きく圧し掛かっているのは言うもでもない。
兄貴を挟んで一通りの挨拶が終わると、俺たちは徐ろに、おでんをつつき始めた。遠慮がちに会話しながらの走り出しだったが、俺と兄貴は五分としないうちに加速していった。
頃合いを見計ったように酒が出てきて、無言で食う、呑む、鼻を啜りながらの戦いが、しばらく続いた。うちは親父も母ちゃんも呑める口だったので、俺たち兄弟は、遺伝的にもアルコールが得意なのだが、義姉さんが冷酒をカパッと口に放り込む仕草に、俺だけが呆れた。
おでんが一段落すると、三人共通の中学校の昔話で盛り上がった。俺を孤立させないよう、共通の話題を選んでくれていたのかはわからない。いちおう未成年という体裁を保って、ちびちびと日本酒を舐める俺に対して、兄貴たちのピッチは早い。二人だけにわかる主語のない話に、俺は愛想笑いをするしかなくなっていった。
「おい、今お前、智美のことを何ちゅうデカい女や、て思ぅたやろ!」
「思ぅてないっちゅうねん」
「え~久君、そんなん思てたん? もぉ、気にしてんのに」
「だから、思ぅてないっすよ」
「おぅ、智美に謝らんかいドアホ! 智美がデカいのは、背ぇだけやないんやぞコラッ」
「…………」
「いや~ん、タケちゃん、エロいわぁ」
二人は弟に絡んできたかと思えば、イチャイチャと遠い世界へ行ってしまった。
お邪魔虫になるときが、思いの外、早くやってきたということだ。初日からこんな感じなのか。
普段から、食器洗いは俺の仕事なので、どうせこの場も片付けることになりそうな予感がする。余り物はやっつけてしまおうと、今いち人気薄だったゴボ天を頬張った。
すると、かろうじて現世に意識を保つ兄貴が、また絡んでくる。
「な、コイツ、ガバガバとカバみたいに、よぅ食いよるやろ」
面倒くさい奴だ。普段なら、蹴りの一つも出る場面だが、心のブレーキが働いた。初対面の義姉さんを前にして、すぐキレるガキだと思われたくない。
「えぇやん。ティーンの男の食べっぷりとか、素敵やん」
「何ぃ! ほんならワシも、もっと食う」
「やーん、タケちゃんも素敵~。ヒサポンも残ったらもったいないし、ガンガンいってや」
……ヒサポンって俺?
しばらく、ワーワーと言い合って酒が進む。やがて二人がごろんと横になった。
俺は余りを鉢皿に移し替えてラップした。ガスコンロのカセットボンベを外すだけにして、二階の自室へ上がった。
階段を行く体は、いい具合に温まっている。おでんの味付けが、うちとは違うという点も新鮮に感じたし、結果として美味かった。額に滲む汗を袖で拭って、俺はフウっと熱い息を吐いた。あ~ぁ、風呂に入って、部屋に引きこもろう。
***
自動車教習所へ通い始めて三日――
実質二日目で、学科講習の混雑ぶりにはうんざりしていた。それでも、一つずつ潰していけているので、順調といえなくもないのだが、楽しみにしていた実車教習のほうが、全く進まなかった。一度教習車に乗った……触っただけで、次の予約も取れやしない。
ここは県内でも有数の〈甘い〉と噂の教習所。
俺の家から一番近くにあったのが、ここだったというだけで、甘さと安さを求めて、ここに申し込んだわけじゃない。教習所選びのポイントは、人それぞれだし、同じ年頃で同じことを考えている奴らの集まり、とはいい切れないか。とにかく、教習生がわんさといるせいで、教官も教習車も足りていないようだ。
家に帰ると、暇そうにしていた義姉さんが、教習の進み具合を訊いてきた。
俺がそのことで愚痴を溢すと、少しでも早く免許を取得したいのなら、実車予約が取れてなくても、朝一と最終時間だけは、教習所内にいろ、と言う。
俺は教習所の待合室で、キャンセル枠狙いをしている自分の姿を、頭上に描いてみた。
夜は兄貴が車を出してくれて、山間の道路で練習させてくれることになった。どうやら、義姉さんの口利きがあったらしい。こういうときに、無免許だの法律だのといってこない兄弟は、面倒くさくなくて、何かと便利だ。
何はともあれ、夜中の教習所がオープンして、四日が経つ。
毎晩同じ峠、同じ車で、五時間超の集中講座だ。そりゃあ、車の挙動も掴めるし、道路のギャップも頭に入る。
四日目の晩ともなると、兄貴の言葉に熱が込もってきた。
「おぅ、次の左コーナー、七十キープで、大外から三速のまま突っ込める。ビビるなよぉ。そう! ここで踏み! よぉし、上手くなった!」
認めるのは癪だが、兄貴のナビは的確だ。特にS字カーブの組立てが、凄く上達したように思う。走行ライン重視で、切り返し時のサスペンションのお釣りをコントロールした。カウンターステアを当てて、車の向きと推進力の違いも体感して理解できた。
「切り返しん時のチョンブレーキが、ちょっと強すぎる。ええかぁ久ぃ、スピードを殺すブレーキングやなくて、荷重移動のブレーキや! 一瞬遅れて来る前荷重を感じる前に、もっと早いポイントで操作入力して、スパッと車の向きを変えろ」
まだまだコーナーの入口が少しずれると、次の操作が後手に回ってしまって、結果的に走行ラインを外してしまう。
「まだやぁ。まだやで~ここや! 回転数を落とすな! シフトダウンに、もたつきがある。久ぃ、この車は四駆やさかい、ちょっとくらい滑り出しても、グイグイ前へ押し出してくれっけど、FFの教習車やと、こう簡単にいかへんぞ。絶対、頭が膨らんでいきよるしな。ブレーキ一発で車の向きを変えたら、すぐアクセル入れてパーシャルに持っていけ! それで耐えて耐えてぇの……ドーンや!」
兄貴の熱い教習は、毎日空が白み始めた頃に終える。
本日も「ウッへ~、これは今日もヤバい」となって、兄貴は俺と運転を交代して、家路を急いだ。
兄貴は今から帰宅しても、少し眠ったら、すぐに仕事に行かなければならない。俺が照れながら、滅多に口にしない感謝の言葉を言った。
「トモちんが教えたれって、うるさく言いよるし、面倒くさいけど、しゃぁないやんけ」
兄貴は憎まれ口を叩いて、それっきり黙ってしまった。
***
「山西さん! スピードメーターをちゃんと見て! 今、前の車を追い抜こうとしたでしょ。教習所内で何考えてんの! それと、シフト変える時にアクセルを吹かしたらあかんて、何回言わすの? アホとちゃうか」
助手席の教官が、必要以上に顔を近づけて注意してくる。口から迸る汁が、俺の耳にかかった。教官の口調が段々と荒くなっていく中、兄貴がこちらを指差してバカ笑いする姿が、フロントガラスに浮かんだ。
兄貴は先週から、毎晩、車を出してくれていた。途中から気づいていたが、その内容は実際の教習所では、全く役に立たない。ようやくスムーズになってきつつあった、ヒール&トゥも、免許取得までおそらく一回も使う機会はないだろう。
しかし、そのことで俺が文句の一つでも付けようものなら、兄貴は余計に笑い飛ばすに違いない。ぶつけ所のないイラっとした感情のせいで、教官の言葉は左から右へと抜けていった。免許取得に関係ないといっても、夜の教習はすでに俺の楽しみになっていたので、立腹度は低めだ。
兄貴は多分、俺のツッコミを待っている。もしかしなくても、智美義姉さんは共犯だろう。そのことに気づいたからといって、ふて腐れて黙り込めば、まだガキンチョだという証、と言われるだろうし、それはそれでまた馬鹿にされる。ならば、お望み通りにツッコんでやろう。どっちにしても、俺は笑われるように仕組まれていたことが悔しい。そして、いちおうのオチが付けば、それで夜の教習は終わってしまうだろう。