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連れる旅の事象  作者: ゆぞぅ
第一章  義姉さんが来る
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義姉さん

 土曜日の夕方――

 工事現場から会社事務所に到着すると、アルバイトの指導を担当する社員さんが、毎日決まった台詞で、俺たちに日当を配っていく。


「ヘーイ、お疲れぇ、お疲れぇ。みんなぁ、来週の配属現場を、ちゃんと確認してから帰ってやぁ」


 大手建設会社の下請けの下請けの……俺はあまりよく理解していない。この会社は給料が日払いである、という点を気に入っていた。


「おぅ、山西君は、今日で最後やて? 事務から連絡あったけど、ホンマかいな」袋もなしに現金の生渡し。


「ういっす、何とか目標金額が貯まりましたんで、さっそく来週から、車の免許を取りに行きますねん」


 台帳にシャチハタで受領印をポンとつく。

 社交辞令というやつかもしれない。若い人手を惜しんで、引き止めてくれる社員さんに、俺は「お世話になりました」と淡白に言って、帰り支度を始めた。

 その最中にも、ここで知り合った日雇いのオッチャンたちが、次々と声をかけてくる。しかし、ここの経験が長い人は、最後だからとか、もう会う機会がないかもしれないからといって、しつこく呑みに誘ってくることはない。自分の生活で精一杯という雰囲気が滲み出ているし、入っては辞めて行く若いフリーターを、何人も見送ってきたからだろう。

 俺は声をかけてくるオッチャンたち、一人一人に「また金に困ったら、お世話になりに来ます」と、冗談混じりに言った。

 大人の事情で、事務所の二階に暮らすオッチャンたちにも別れを告げて、やたらと排気音のうるさい原チャリに跨った。これは兄貴から借りた物だ。俺の趣味じゃない。

 

 どこへも寄らずに家へと急ぐ。

 この時期に半帽のメットは本当につらい。鼻から首にかけては、グルグル巻きにしたマフラーで何とか凌げた。手足の耐久は二十分ぐらいが限界か。この気温で降り出せば、絶対に雪になる、と思った。

 ひたすら前傾姿勢で農道の一本道を走り切り、本日も、やっとの思いで家にたどり着いた。


 手を吐息で温める。冷えてギチギチと軋む背骨を曲げて、チェーンロックを掛けた。一連の動作の締めくくりとして「うぅ寒っ!」と独りごち、短く震えた。


「ホンマ、寒いね。久君、お疲れ様」


 長く伸びた人影と足音で、後ろに誰かが近づいて来ているのは知っていた。てっきり、いつもこの時間帯に散歩している、近所のおじさんだと思い込んでいたので、虚を衝かれた。


「ゴメンなぁ、驚かしてしもた?」


 俺の背後には、白いコートを羽織ったキャバクラ出勤前ふうの女性が、ニコニコしながら立っていた。フカフカで派手なファーが、彼女の赤い唇の近くまでを覆っていた。

 俺に手を合わせて〈ゴメンね〉ポーズをする女性の後ろに、兄貴がニヤニヤとしながら突っ立っている。


「晩飯、できてっぞ。紹介したるけど、とりあえずは寒いし、家に入ろうけぇ」


 兄貴は両手を脇に差し入れて、すぐに振り返って歩き出した。

 そうか、この人が……。

 俺は腰を伸ばして立ち上がり、二人の後ろについて歩き出した。そこで気づいたのは、兄貴の嫁さんは背が高いということ。176cmの俺と、同じぐらいだ。靴のヒールの分を差し引いても、170cmくらいか。それと、金髪の巻き髪。この低湿度の中で、その艶を維持する秘訣は何だ? 諸々を総合して「兄貴ぃ、この人で大丈夫かいな」と呟いた。


 清楚なお義姉様像を膨らませていたのは、俺の低レベルな脳の勝手な想像。理想が崩れたといって、誰を責めるわけにもいかない。昔、人を見た目で判断するのは良くないことだと教わった。それでも、彼女の趣味がお菓子作りじゃない確率は、高いだろうと思った。


 居間を通り抜ける際に、俺の目が炬燵の上で火にかかる鍋を捕らえた。蓋の穴からポッポと吹き出る湯気が、明らかに誘っている。もちろん、腹は減ってはいるが、俺は晩飯よりも先に湯船に浸かって、悴んだ手足の血行を回復したかった。

 言えば、兄貴は先に食べ始めるなりするだろうが、今晩からは義姉さんが一緒だ。義姉さんがどういう人なのか、全くわからないだけに、俺は洗濯機を回しながら思考を巡らせた。

 

 俺なりの気遣いは、兄貴の「何しとんねん。早よ来いや」で振り払われた。

 それで、手洗い、うがい、着替えるだけで居間へ行った。

 夕方に終わるバイトに変えてから、晩飯の準備は専ら俺の役目だったので、久しぶりに味わう据え膳には、かなりテンションが上がる。座ると同時に、がっつきたい衝動を抑えるために、両手を炬燵の中で揉んだ。

 

 俺が座ってすぐに、ン、ンッ、とお爺みたいにタンを切った兄貴が口を開く。


「まぁ、何ちゅうか……嫁の智美や。旧姓は木村で、ワシと同いやし、お前の五つ上になるわな。はい、終わり。タマゴが、まだちょっと染みてへんかな?」


 兄貴の電撃発表のときから比べると、だいぶ興味は薄れていたので別に構わないけれども。見た目のことが、大きく圧し掛かっているのは言うもでもない。


 兄貴を挟んで一通りの挨拶が終わると、俺たちは徐ろに、おでんをつつき始めた。遠慮がちに会話しながらの走り出しだったが、俺と兄貴は五分としないうちに加速していった。

 頃合いを見計ったように酒が出てきて、無言で食う、呑む、鼻を啜りながらの戦いが、しばらく続いた。うちは親父も母ちゃんも呑める口だったので、俺たち兄弟は、遺伝的にもアルコールが得意なのだが、義姉さんが冷酒をカパッと口に放り込む仕草に、俺だけが呆れた。

 おでんが一段落すると、三人共通の中学校の昔話で盛り上がった。俺を孤立させないよう、共通の話題を選んでくれていたのかはわからない。いちおう未成年という体裁を保って、ちびちびと日本酒を舐める俺に対して、兄貴たちのピッチは早い。二人だけにわかる主語のない話に、俺は愛想笑いをするしかなくなっていった。


「おい、今お前、智美のことを何ちゅうデカい女や、て思ぅたやろ!」

「思ぅてないっちゅうねん」

「え~久君、そんなん思てたん? もぉ、気にしてんのに」

「だから、思ぅてないっすよ」

「おぅ、智美に謝らんかいドアホ! 智美がデカいのは、背ぇだけやないんやぞコラッ」

「…………」

「いや~ん、タケちゃん、エロいわぁ」


 二人は弟に絡んできたかと思えば、イチャイチャと遠い世界へ行ってしまった。

 お邪魔虫になるときが、思いの外、早くやってきたということだ。初日からこんな感じなのか。

 

 普段から、食器洗いは俺の仕事なので、どうせこの場も片付けることになりそうな予感がする。余り物はやっつけてしまおうと、今いち人気薄だったゴボ天を頬張った。

 すると、かろうじて現世に意識を保つ兄貴が、また絡んでくる。


「な、コイツ、ガバガバとカバみたいに、よぅ食いよるやろ」


 面倒くさい奴だ。普段なら、蹴りの一つも出る場面だが、心のブレーキが働いた。初対面の義姉さんを前にして、すぐキレるガキだと思われたくない。


「えぇやん。ティーンの男の食べっぷりとか、素敵やん」

「何ぃ! ほんならワシも、もっと食う」

「やーん、タケちゃんも素敵~。ヒサポンも残ったらもったいないし、ガンガンいってや」

 ……ヒサポンって俺?


 しばらく、ワーワーと言い合って酒が進む。やがて二人がごろんと横になった。

 俺は余りを鉢皿に移し替えてラップした。ガスコンロのカセットボンベを外すだけにして、二階の自室へ上がった。

 階段を行く体は、いい具合に温まっている。おでんの味付けが、うちとは違うという点も新鮮に感じたし、結果として美味かった。額に滲む汗を袖で拭って、俺はフウっと熱い息を吐いた。あ~ぁ、風呂に入って、部屋に引きこもろう。

 

      *** 

 

 自動車教習所へ通い始めて三日――

 実質二日目で、学科講習の混雑ぶりにはうんざりしていた。それでも、一つずつ潰していけているので、順調といえなくもないのだが、楽しみにしていた実車教習のほうが、全く進まなかった。一度教習車に乗った……触っただけで、次の予約も取れやしない。

 

 ここは県内でも有数の〈甘い〉と噂の教習所。

 俺の家から一番近くにあったのが、ここだったというだけで、甘さと安さを求めて、ここに申し込んだわけじゃない。教習所選びのポイントは、人それぞれだし、同じ年頃で同じことを考えている奴らの集まり、とはいい切れないか。とにかく、教習生がわんさといるせいで、教官も教習車も足りていないようだ。

 

 家に帰ると、暇そうにしていた義姉さんが、教習の進み具合を訊いてきた。

 俺がそのことで愚痴を溢すと、少しでも早く免許を取得したいのなら、実車予約が取れてなくても、朝一と最終時間だけは、教習所内にいろ、と言う。

 俺は教習所の待合室で、キャンセル枠狙いをしている自分の姿を、頭上に描いてみた。

 夜は兄貴が車を出してくれて、山間の道路で練習させてくれることになった。どうやら、義姉さんの口利きがあったらしい。こういうときに、無免許だの法律だのといってこない兄弟は、面倒くさくなくて、何かと便利だ。


 

 何はともあれ、夜中の教習所がオープンして、四日が経つ。

 毎晩同じ峠、同じ車で、五時間超の集中講座だ。そりゃあ、車の挙動も掴めるし、道路のギャップも頭に入る。

 四日目の晩ともなると、兄貴の言葉に熱が込もってきた。


「おぅ、次の左コーナー、七十キープで、大外から三速のまま突っ込める。ビビるなよぉ。そう! ここで踏み! よぉし、上手くなった!」


 認めるのは癪だが、兄貴のナビは的確だ。特にS字カーブの組立てが、凄く上達したように思う。走行ライン重視で、切り返し時のサスペンションのお釣りをコントロールした。カウンターステアを当てて、車の向きと推進力の違いも体感して理解できた。


「切り返しん時のチョンブレーキが、ちょっと強すぎる。ええかぁ久ぃ、スピードを殺すブレーキングやなくて、荷重移動のブレーキや! 一瞬遅れて来る前荷重を感じる前に、もっと早いポイントで操作入力して、スパッと車の向きを変えろ」


 まだまだコーナーの入口が少しずれると、次の操作が後手に回ってしまって、結果的に走行ラインを外してしまう。


「まだやぁ。まだやで~ここや! 回転数を落とすな! シフトダウンに、もたつきがある。久ぃ、この車は四駆やさかい、ちょっとくらい滑り出しても、グイグイ前へ押し出してくれっけど、FFの教習車やと、こう簡単にいかへんぞ。絶対、頭が膨らんでいきよるしな。ブレーキ一発で車の向きを変えたら、すぐアクセル入れてパーシャルに持っていけ! それで耐えて耐えてぇの……ドーンや!」


 兄貴の熱い教習は、毎日空が白み始めた頃に終える。

 本日も「ウッへ~、これは今日もヤバい」となって、兄貴は俺と運転を交代して、家路を急いだ。


 兄貴は今から帰宅しても、少し眠ったら、すぐに仕事に行かなければならない。俺が照れながら、滅多に口にしない感謝の言葉を言った。


「トモちんが教えたれって、うるさく言いよるし、面倒くさいけど、しゃぁないやんけ」


 兄貴は憎まれ口を叩いて、それっきり黙ってしまった。

 

     ***


「山西さん! スピードメーターをちゃんと見て! 今、前の車を追い抜こうとしたでしょ。教習所内で何考えてんの! それと、シフト変える時にアクセルを吹かしたらあかんて、何回言わすの? アホとちゃうか」


 助手席の教官が、必要以上に顔を近づけて注意してくる。口から迸る汁が、俺の耳にかかった。教官の口調が段々と荒くなっていく中、兄貴がこちらを指差してバカ笑いする姿が、フロントガラスに浮かんだ。

 兄貴は先週から、毎晩、車を出してくれていた。途中から気づいていたが、その内容は実際の教習所では、全く役に立たない。ようやくスムーズになってきつつあった、ヒール&トゥも、免許取得までおそらく一回も使う機会はないだろう。


 しかし、そのことで俺が文句の一つでも付けようものなら、兄貴は余計に笑い飛ばすに違いない。ぶつけ所のないイラっとした感情のせいで、教官の言葉は左から右へと抜けていった。免許取得に関係ないといっても、夜の教習はすでに俺の楽しみになっていたので、立腹度は低めだ。


 兄貴は多分、俺のツッコミを待っている。もしかしなくても、智美義姉さんは共犯だろう。そのことに気づいたからといって、ふて腐れて黙り込めば、まだガキンチョだという証、と言われるだろうし、それはそれでまた馬鹿にされる。ならば、お望み通りにツッコんでやろう。どっちにしても、俺は笑われるように仕組まれていたことが悔しい。そして、いちおうのオチが付けば、それで夜の教習は終わってしまうだろう。


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