鬼 〜Rouge〜
父上に呼ばれた僕は、書斎の扉を叩いた。返事を待ち、中に入る。
「父上、何かご用ですか?」
「……ああ、少しな」
そう答えた父上は、何か考え事にふけっているように見えた。僕と同じ紫の瞳が、深い色合いを帯びている。
僕の問いかけに頷きつつ、話を切り出そうとしない父上に、意を決して口を開いた。
「僕も、聞きたい事があるのですが」
「何だ?」
少し驚いたような父上に、緊張気味に問う。
「僕達や母上と違い、父上は彼らが異世界の存在だという話に、然程抵抗が無いように見えました。何故、あんな夢物語のような説明を直ぐに信じたのですか?」
僕でさえ、あれだけ非常識な魔法の数々を見ても、まだ何となくすっきりしない。それなのに、どうして父上は簡単に受け容れ、今も平然としているのだろう。
「……そうか、気付いていたか」
口の中で呟くようにして、父上は僕をじっと見つめた。値踏みするような視線に怯みかけたけれど、真っ直ぐ見つめ返す。
「それに答えるには、1つ条件がある」
「何でしょうか」
「これから、ヴィルが次期侯爵として、本格的に私の仕事を学ぶ事」
その言葉に、僕は思わず息を詰めた。
今まで父上は、僕に後を継ぐ事をあまり意識させなかった。今は学業の方が大切だと言って、侯爵家としての心構えや振る舞いは教わっても、父上の仕事には一切関わっていない。魔法の勉強は大変だし、僕としてもそれで良いと思っていた。
けれど、父上の言っている事が、分からないわけではない。
「……それは、ノワールとフージュが我が家に来たからですか」
「そうだ。フージュはともかく、ノワールは闇属性。学校でアプローチをかけてこようとする人間は、少なくないはずだ」
学院は、ほとんどが貴族階級だ。魔力の多寡は血統に左右されるし、祓魔師や魔法使いは重宝され、平民でも貴族に取り込まれるのが一般的。教師陣も勿論貴族の出身ばかりだ。
そんな場所に移民が行けば、注目度は高い。安易な嫌がらせは当然起こるだろうし、影で攻撃する輩もきっといる。
それだけならば、ノワールに任せておけば良い気がするけれど。厄介なのは、彼が強力な闇属性である事。
今この国に、闇属性の人間はいない。世界中探しても、両手の指にも満たない人数しかいないはずだ。
同じく数の少ない光の属性を持つミアには、研究対象にしたい、嫁に迎えたいという話があちこちから来ている。父上を通して言って来るのは良い方で、学友が親に言われて声をかけてきたり、教師がその権限を利用して強制しようとしたりもする。
「ミアも色々声がかかるが、それでもまだましだ。本人も自覚しているようだが、闇属性というのは、貴族にとって非常に使い勝手の良い、文字通り闇の世界の魔法が多い」
呪いも、他人を操る術も、暗殺も、闇魔法はそれを容易にする。当然彼は、その全ての技術を身に付けているのだろう。
「大抵は彼の手腕で何とかなるだろうが、今の彼は立場的に弱い。移民が貴族に逆らうのは、現状では不可能だ」
「だから、僕が動かなければならない。その為には、パーヴォラ家の役割を理解していないと出来ない。そういう事ですね」
「そうだ。学業と合わせて、かなり厳しい日程となるが、良いか?」
「はい、お願いします」
彼を守るのは、ミアの為でもあるけれど、僕の為でもある。彼を利用とする者が彼を調べていく中で、秘密に気付かれてしまう可能性もある。もしそうなれば、僕の家もただでは済まない。
それは、父上の跡継ぎとして、絶対に避けなければならない。
父上は、僕の返事から覚悟を見て取り、静かに頷いた。
「……分かった。ならば、明日から始めよう。まずは質問に答えようか」
そう言って父上は一度目を閉じ、ゆっくりと口を開く。
「簡単な事だ。こことは全く異なる世界が存在する事を、稀にそちらから人が紛れ込む事を、知っていたからだよ。彼らに我々の常識が通用しないと分かった時点で、異世界の存在だと確信した」
「え?」
驚いて聞き返した。そんな事、今まで一度も聞いた事がない。
「私が枢機院だから知らされている情報の1つだ。家族にさえ、それを教える事は許されていない。……ああ勿論、後継となれば話は別だ」
僕が慌てかけたのを見て、父上が最後の言葉を付け加える。それに安堵しながらも、酷く納得した。そして悟る。
「ノワールもフージュも、それを知っていたのですね」
「おそらくは。そうでもなければ、あれほど的確な判断は下せまい」
2人で頷き合う。彼らの異様な程の冷静さも、これで腑に落ちた。
「……だが、気になる事がある」
そこでそう呟いた父上は、最初に浮かべていた考え込むような色を瞳に宿している。迷いながらも、尋ねてみた。
「何がですか?」
「彼の態度だ。彼は妙に腰が低いと、そう思わないか?」
やはり、父上も引っかかっていたようだ。頷いて同意を示す。
「異世界の存在は、機密事項に近いでしょう。それを知っているという事は、彼はそれなりの地位にいたのではないでしょうか? 学校で魔法を学ぶ事を、酷く嫌がっていますし」
それを聞いた父上は、少し考えて言う。
「彼は、協会幹部だそうだ」
「……今頃、元の世界は大騒ぎでしょうね」
この世界に照らし合わせれば直ぐに分かる。魔法協会の幹部の失踪なんて、吸血鬼集落全滅どころの騒ぎではない。
「その辺りは、ピエール氏が何とかしている最中らしい」
「そうですか、なら良かった。……しかし、それにしては彼、父上や母上に対して謙虚ですよね」
「ああ。まるで、傭兵と話しているような気分になる」
これもあり得ない。世界観の違いなのかもしれないが、僕達の世界の協会幹部は、枢機院と同じくらいの権力を持つ。侯爵夫妻などに頭を下げはしない。
僕達に対しては遠慮が無い割に、年上には妙に丁寧なのが、ちょっと不自然だ。
「今夜辺りに話してみるか。あのままでは、どうもやりづらい」
父上の結論が妥当だろう。任せておけば、間違いは無いはずだ。
「それから、ヴィル。あまりノワールに近づき過ぎるなよ」
「……え?」
突然の言葉に、困惑した。今まで僕達がいくら親しくしていても、微笑ましく見ているだけだったのに、一体どういう事だろう。
「侯爵子息としてならまだしも、後継としては、彼にあまり関わるべきではない」
「理由を聞いても良いですか?」
父上が根拠もない話をするとは思えない。尋ねてみると、父上は口元を引き締めた。
それは、僕達には滅多に見せない、国政を司る人間の顔。
「彼の激昂を見て、確信した。……彼は、人ではない」
「……はい」
どれほど否定しても、どんな理屈を捏ねても、その事実は変わらない。彼は、吸血鬼だ。
抗わなかった僕を、けれど父上は否定した。
「ヴィルが考えている意味ではない。……おそらく彼は、吸血鬼となるより前から、人である事を捨てている」
唐突な言葉に、息を呑む。言葉を選びつつ、聞き返した。
「……それはやはり、闇属性を極めているからですか?」
呪いに精通しているという事は、自身も呪いをかけた事があるという事。闇魔法を使いこなしているという事は、いくつもの命を闇の中に葬ってきたという事。
復讐の為にそうする中で、彼は、人である事をやめてしまったのかもしれない。
「それもある。だが、違う。復讐の為だけに生きてきた、という時点で彼は、人ではない」
そこで言葉を句切り、父上は目を閉じ、おそらく魔術書の文章を口にした。
「人は、怒りや悲しみ、憎しみといった負の感情に囚われると、容易く堕ちて鬼になる。鬼となったモノは、人だった頃の記憶を全て失い、人を憎み全てに仇なすものと成り下がる。人の思いの深さの、負の側面だ」
「…………」
「1度鬼に成り下がれば、全ての理性が失われる。しかし彼には、理性が残っている。復讐の為に、自らの意思で感情を棄てたのだろう。感情に引き摺られて堕ちるのではなく、自分で選んで堕ちた。だからこそ、全ての記憶を失ったわけではない。けれど、憎しみに囚われるあまり、感情が酷く偏っている」
——堕ちるなよ——
彼の言葉が、蘇る。あの時とは、また違う響きを持って。
堕ちる意味を誰よりも理解しているからこそ、彼は僕に言ったのだろう。ミアの件で、感情に身を任せかけた僕を、引き留める為に。
「理性によって感情を破棄した彼にとって、全ての行動は理性によって定められる。唯一理性が制御できないのは、彼がただ1つと定めた意思、復讐に関わる事だけ」
淡々と物事を処理する彼の、衝動的な行動を振り返る。
どんな結果をもたらすか知っていて、吸血鬼を皆殺しにした。
吸血鬼である自分が許せず、自ら死のうとした。
吸血鬼を憎めないと知って、我を失った。
彼の暴走は、理に合わない行動は、全て魔物——吸血鬼への憎しみ故。
その時だけ彼は、理性を失った「鬼」になるのだろう。
「おそらく彼にとっては、資格も、立場も、復讐を果たす手段でしかなかったのだろう。復讐の為だけに、彼はここまで生きてきた」
「……それでは、今、彼は」
父上の言いたい事を理解して、僕は自分の声が強張るのを聞いた。
「カリナが言っていた。彼は自分の存在を、「魔法士」と定義したそうだ。手段でしかなかった資格に縋らなければならない程、彼は追い詰められている。下手に刺激すれば、本当に鬼に堕ちてもおかしくない」
父上は、真剣な表情で僕を見つめた。
「守りたい者を狂気に巻き込みたくなければ、彼には関わってはいけない」
それは、侯爵として、家長として、守るものが多い父上だからこその言葉だろう。きっと、僕には彼を監視して欲しいのだ。
けれど。
「……ならば父上は、どうして彼と対等に向き合おうとするのですか? どうして、彼を匿うのですか?」
父上が彼を殺せるとは思えない。けれど、彼を社会的に消す事は出来る。侯爵には、それだけの力がある。
それなのに、父上は彼を匿い、あまつさえ、自主的に僕達から距離を置こうとしているノワールに、自ら近付いているように見える。
僕の指摘に、父上は1度驚いたように目を見張り、直ぐに表情を緩めた。
「……気付かぬうちに成長したな、ヴィル」
滅多にもらえない褒め言葉に、自然と気分が高揚する。けれど答えが欲しくて、真剣な表情を維持した。それを受け、父上が言葉を紡ぐ。
「この世界も、魔物の被害は多い。お前達が生まれる少し前までは、吸血鬼も人を襲った。吸血衝動のままに村を襲えばどうなるか、分かるだろう? 彼のような子供は、きっとこの世界にもいるはずだ。それこそ、移民として。……それはねヴィル、私達大人の責任なんだよ」
反論しようと口を開いた僕を目で制して、父上は続けた。
「吸血鬼を弾劾するだけ弾劾して、共存の道を選ぼうともしなかった。人を襲う、ただそれだけで、知性ある彼らを攻撃していた。彼らが我々に反撃するのは、自明の理だった。
その被害者は、幼い頃の彼のような、力の無い者達だ。大人が作り上げた社会が、そんな悲しい道を選ばざるをえない子供を生んだ。少しでも政治を請け負う人間ならば、その責任を負わなければならない。我々は、子供達の為により良い社会を作るのが仕事なのだからね」
だから、と父上は、綺麗な笑みを浮かべた。政治の裏側まで知り尽くしている人間には、酷く似合わない笑みを。
「そんな、我々の過ちを具現化したような彼を、私は見捨てられない。少しでも彼が、今ある生に価値を見出せるように、憎しみ以外の感情を新しく見つけ出せるように、彼を守りたい。自己満足以外の、何物でも無いがね」
「……いえ。僕は、そんな父上を尊敬しています」
直接関わっていない事がもたらした結果にきちんと向き合うのは、辛いだろう。父上を甘いと思う人もいるだろう。
けれど僕は、その生き方を素晴らしいと思う。僕も、父上のようにありたいと思う。だから。
「では僕は、学友として彼と関わります。父上が僕を心配してくれているのはありがたいですが、ミアが彼の餌である以上、何かあれば必ず巻き込まれる。だったら、少しでも彼の狂気を和らげられるように頑張ります」
僕の覚悟に、父上は一瞬だけ「親」としての心配の表情を見せ——
——「侯爵」として、微笑んだ。




