暴走 〜Noir〜
完全にピエールの魔力を感じられなくなって直ぐに、彼は頭を僅かに持ち上げた。そのまましばらく動かないでいたかと思うと、大きな舌打ちをひとつして、顔を上げる。
酷く不機嫌そうなその表情を見て、ああ、これはノワールだと、直ぐに分かった。
「……あのじじい、巫山戯た真似をしやがって……」
低い声で呟く彼は、顔に苛立ちを浮かべている。何となくだけれど、ピエールにというよりは、意識を乗っ取られた自分に腹を立てているように見えた。
「——スブラン・ノワール」
不意にお父様が、彼の名前をフルネームで呼んだ。彼は、怪訝な顔でお父様を見やる。
「……私は君に、謝らなければならない」
「……何?」
眉をひそめた彼を見て、乗っ取られていた間の記憶は無いのだと分かった。
お父様とお母様は真剣な顔で頷きあってから、ノワールに頭を下げる。
「ごめんなさい。人の心を解さない、化け物などと言って」
「君を吸血鬼だからと信じないのは、君の人生に失礼だ」
ノワールの表情が変わった。激情を無理に押さえつけたような顔を、フウに向ける。
「……フウ。あのじじい、何をしゃべった」
「ノワが、人だったって。だからその2人、謝ってるんだよ」
フウはノワールの触れれば切れそうな怒気にも動じずに、はっきりと答えた。ノワールの放つ怒気が更に強烈になり、怒りを向けられていないにも関わらず、心臓が凍りつく。
「……次に顔を見せたら、殺す」
低く呟いた後、ノワールは両親に向き直った。
「あの変態に何を吹き込まれたのかは知らないが、俺の過去などどうでも良い。大事なのは、今俺が吸血鬼だという事。お前達の言った事は、正しい。今更撤回する必要は無い」
「……自己憐憫に浸るのも、いい加減にしなさい。君は、君の今までの人生を、全て否定する気かね?」
その言葉を聞いた途端、ノワールは立ち上がる。
部屋の温度が、急に下がった気がした。
「何が言いたい」
凄むノワールに、お父様は怯んだ態度を見せずに答える。
「君は、化け物となった。それは確かに事実だ。だが同時に、君が今まで人として積み上げてきたものも、君の中に確かに存在する。それを否定するのか? それは、今まで学んだ全てを捨て去るという事。その時こそ、君は、本当に人間ではなくなる」
そこでお父様は言葉を切り、ノワールを真っ直ぐ見上げた。
「そうなった君に、吸血鬼を否定する権利は、無い」
——次の一瞬、私には何が起こったのか分からなかった。
急激にノワールの魔力が膨れあがったかと思うと、お父様が吹き飛び、壁に叩き付けられた。
頭から血を流して蹲るお父様に向けて、ノワールが更に腕を薙ぐ。
「ノワ、駄目!」
フウが、強い焦りを声に乗せて叫び、飛び出した。見えない刃がお父様を切り裂く一瞬前に、フウがお父様の前に滑り込み、刀を振るう。
銀色の軌跡が、ノワールの魔法を切り刻んだ。
「——フウ、退け」
ノワールの声に、全身が総毛立つのを感じた。
いつの間にか漆黒の刀を手にした彼は、フウを、まるで敵のように睨み付けている。その黒い瞳に、吸血鬼と共に暮らす気は無いと言った時以上に負の感情が詰め込まれているのを見て、身が竦む。
けれどもフウは、怯えを見せる事なく、はっきりと言った。
「駄目だよ、ノワ。これ以上は駄目」
「黙れ。退け」
「……ノワール」
「3度目はないぞ」
必死で喉に力を込めて振り絞った呼びかけは、一切の注意を払われない。彼は、フウと、その後ろのお父様に、剥き出しの殺気を浴びせていた。お父様の顔色が急激に悪くなっていくのが、ここからでもはっきりと分かる。
「フウ、命令は聞けと言ったはずだ」
「私が暴走しないための命令でしょ。私はノワの餌じゃないから、何でもノワの言う事を聞くわけじゃないよ」
その言葉に、ノワールの殺気が更に膨れあがった。一般人がまともに浴びれば、それだけで息が止まるだろうそれを、フウは全身で受け止める。
「——ならば、好きにしろ。警告はした」
最後通牒を突きつけるようにそう言って、ノワールが刀を掲げた。その漆黒の刃に、今までとは比べものにならない量の魔力が込められる。それを見たフウの表情が、初めて強張った。
「……駄目、ノワ。ここが壊れる。……ノワは、何のためにここに来たの?」
闇を宿した刀が、僅かにぶれた。それを逃さず、フウが言葉を続ける。
「ミアに、元の生活を帰してあげたいんでしょう? だったら、駄目。それを振り下ろしたら、全部吹き飛ぶよ」
死を諦め、現状を受け容れ、それでも手に入れようとした、偽りの日常。その為に彼はここに来て、ユハナを助け、魔法を壊し、私達を救ってくれた。
その、築き上げた全てを、彼は今。
「——構うか。……もう、どうでも良い」
自分の手で、壊そうとしている。
込められた魔力だけでも屋敷を吹き飛ばしそうな刀に、更に魔法がかけられた。純粋な破壊を目的にした、魔法。美しいまでの、破滅の魔法。それは——彼さえも、標的にしていた。
その瞬間、何をしたのかよく分からない。気付けば私は、彼の前に立ち塞がっていた。
彼の冥い目が、私を捉える。その目に浮かぶのは、虚無。どうでも良いと言った、その言葉通りの感情が、今の彼の全てだった。
だから、命を賭けて、言った。
「——私を、「みあ」を、殺せますか?」
「……!」
初めて。
初めて彼の表情に、動揺が走った。
刀に宿った、魔法が揺らぐ。
「貴方は、私を救ったのではない。私を通して見た、「未彩」を救った」
「……何故、それを…………」
彼の声が、震えた。その顔に、私の知らない感情がよぎる。
「吸血鬼への憎悪さえを凌ぐ、己の死への願望を捨ててまで、貴方は彼女を救った。それを今、貴方の手で、殺せますか?」
彼の躯が、びくりと大きく震えた。その顔に見えた動揺の大きさに、却って私が驚く。
けれどそれを表に出さず、告げた。
「もし、本当にどうでも良いと、全てを壊して構わないと思うのならば、——まず、私を殺して下さい」
「————!!」
その場にいる、私以外の全員が、息を呑んだ。お父様も、お母様も、お兄様も、フウも、——ノワールも。
「言ったはずです、貴方に殺されるのならば、構わないと。これ以上貴方が何も望まないというのならば、私を殺すことに抵抗は無いでしょう? お父様を、フウを、この屋敷を、貴方が今まで助けた全てを、貴方の手で壊したいなら——まず、私を壊しなさい」
ノワールの腕が大きく震えた。ゆっくりと、刀が振り上げられる。高々と振り上げられ、無闇に魔力を注ぎ込まれた刀は、——振り上げられたまま、動かなかった。
彼の表情が、歪む。その手から刀が零れ落ちた。魔法が、魔力が、霧散する。
彼は腕を下ろした。俯き、震える手で、己の目元を覆う。絞り出すような声で、ぽつりと呟いた。
「——すまない」
小さな、本当に小さなその謝罪を、聞けたのはきっと私だけだ。
少しして、彼は、足下の刀を拾い、虚空に仕舞った。そのまま踵を返し、フウの隣をすり抜け、お父様の元へと向かう。
やや不安を抱いてその様子を窺っていると、ノワールは、お父様に手をかざした。
穏やかな光がお父様を包み、お父様の怪我が、跡形もなく消える。
「……これは……」
驚きの声を漏らすお父様にそれ以上何も言わず、彼は一礼し、その場で消えた。
「ノワ!」
フウが叫ぶけれど、彼はどこにもいない。
「ミア、彼はどこに?」
お兄様に聞かれて、私は意識を凝らした。
「……1階の、空き部屋。掃除道具が置かれている場所の、更に奥です。そこに、結界を張って、閉じ籠もっています」
「餌の、つながりね」
お母様が、泣きそうな顔で言った。黙って頷く。
「……フウ、あの結界、解けますか?」
目の前にいるフウに聞くと、フウは困った顔で首を傾げた。
「ドアごと壊して良いなら、何とかなる、かなあ。ノワの結界だから、微妙」
「お願い、開けて下さい。……そろそろ、限界だと思うんです」
今朝5日ぶりに血を飲んだ後、彼は相当魔力を消費している。いくら彼の魔力が多くても、ぎりぎりまで生命力の代わりにしているだろうから、いい加減、渇いているはずだ。
惨い所行だと思う。ああまで追い詰められた彼を、更に追い詰めるのだから。
「良い、けど……。もうちょっとだけ、1人にしてあげられない?」
フウの提案に、少し迷った。そうしてあげたいけれど、決めなければならないことが多くあるのも、確か。
「……少し、時間をあげよう。今日1日くらいは、猶予があるはずだ」
お父様の言葉で、少し待ってから血を飲ませて、話を続けようという事になった。




