ヒト 〜Noir〜
然程長く待つ必要は無かった。彼の躯が小さく揺れたかと思うと、ゆっくりと頭がもたげられる。
彼の顔は、劇的に変化していた。顔の造作が変わったわけでもなく、顔色にも変化は無い。それでも、私達に向けられたその顔は、彼とは全く別人だと、断言できた。
——彼は、こんな穏やかな表情を、決して浮かべない。
「……突然驚かせて、申し訳ありませんでした。落ち着いてからもう1度伺うつもりではありますが、これと、そこのフウを預かっていただく手前、儂が挨拶しないわけにもいきませんから」
彼が口を開いた。ノワールの声で紡がれるのは、穏やかな印象を与える、柔らかい言葉。
「…………貴方は、一体?」
混乱した表情で、それでも、先程まで会話していた彼とは違うと理解できたらしいお父様が、おそるおそるといった様子で尋ねた。彼の躯を操る者が、彼の躯を借りて、微笑む。
「これは失礼いたしました。私はピエール・モンディアル、フウとこれの師匠です。……事実上、保護者の役割もしていました」
先程からほぼ予想の付いていた名前が彼の口から飛び出して、私とお兄様は頷いた。フウは初めから気付いていたのか、何も言わない。
「……そうでしたか。私はラルス=ヘンリク=パーヴォラ、ミアとヴィルヘルムの父です」
「私はカリナ=ヘラ=パーヴォラ、2人の母です」
動揺を呑み込んで自己紹介した両親に、ピエールの笑みが深くなった。
「これはご丁寧に。このような形でお初にお目にかかること、お許し下さい。何分、そう何度も次元を超えるわけにもいきませんものですから。儂のような存在は、皆様に悪い影響を及ぼしてしまう可能性がある。これもそれを理解しており、完全に彼らがここに落ち着くまで、呼ぶつもりも無いようでしたので」
「……マスター、ノワの頭の中まで読んだの? ノワ、後で怒るよ」
フウが、ちょっと怒ったような声を出した。ピエールが肩をすくめる。
「前にこの馬鹿を眠らせている間に、ちょっと魔法を残させてもらっていたのさ。感覚を繋いで、成り行きを見守れるようにな。……まさか、ここに至るまで気付かんとは、夢にも思わなかったが」
本人にさえ気付かれないように彼の感覚を共有し、卓越した魔法の技術を持つ彼の意識を魔力ごと呑み込み、次元を超えて躯を操る。凄まじいまでに洗練された魔力制御と魔法技術だ。彼の師匠だという言葉も、頷ける。
「さて、許される時間は少ない。早い所、用件を済ませておきましょう。先程これが述べておった処理するべき案件は、あなた方とこれに任せて問題無さそうです。……吸血鬼を見つけ出す方法への対処法は、分かりませんが。どうもこれは甘く見ているが、大変だろうと思います」
「何とかなるんじゃないですか? 父との戦いを見ている限り」
お兄様の楽観的な考えに、ピエールは首を振った。
「こやつ、一瞬身を竦ませておった。そのせいで魔法を抑えるのに遅れ、術式の構築も不十分だった。この反応だけでも、気付くものは気付く。より強力な魔法もあるしな。力尽くで慣れる気だろうが……苦労することには変わりない」
「……では、どうすれば良いのでしょうか? それを克服しない限り、彼を外へ出すわけには……」
不安げな声を上げたお母様に、ピエールは少し考える様子を見せて、真っ直ぐ私を見つめる。
「……おそらくですが、魔力、体力共に調子が良ければ、魔法を無条件に無効化する魔法を、気付かれぬように常日頃身に纏う事が出来るでしょう。ですがその為には、食事で魔力を補い、その魔力から体力を補っている現状では、厳しいものがある。……ご家族からすればあまり気持ちの良い話ではないでしょうが、出来るだけ、血を与える頻度を増やしてやって欲しい」
「分かりました」
迷わず頷いた私に、両親が悲しそうな顔をした。
「……やはり、嫌ですかな」
ピエールの問いかけに、両親はゆっくりと頷く。
「今こうして言葉を交わしただけですが、貴方が信頼できる方なのは分かります。貴方のような方に育てられたからでしょう、彼を警戒する気には、あまりなれません。こう言うと、彼は、随分と怒りますが」
「……それでも、娘を奪われた、そう思ってしまいます。何故娘なのか、彼さえいなければ、と。……怒る資格は無いと分かってはいるのですが、どうしても、恨んでしまいます」
お母様と意見が一致しているのか、お兄様が俯いた。
「……お父様、お母様、お兄様、私は平気ですから。彼を……、責めないであげて下さい」
そう言うも、3人の顔は浮かないまま。私を思う気持ちはありがたいから、これ以上、私から言えることは無い。
「……そうだな、もう1つの用件だが」
不意に、ピエールの声に、悲しげなものが混ざった。
「ミア、おそらく君は、儂の話で彼の事を理解している。だから、彼を責めてはならないと思うておるのだろう。だが、君のご家族は、違うのではないかな?」
「……マスター、それって……。でも、良いの?」
フウが、何かに気付いたような声を上げた後、どこか気遣うようにピエール——否、ノワールを見つめて、聞いた。ピエールが頷く。
「これは怒るだろうな。……儂のささやかな願いだ。ここにいる方々だけでも、理解してやって欲しい。我が儘が過ぎるかな?」
「うーん……ノワが嫌なら、言わない方が良い気がする。でも、マスターのした事に、本気で怒れないよ、ノワも私も」
ピエールが目を閉じ、深く頷いた。ゆっくりと、その目を開ける。
「儂は、全責任をもって、これを貴方達に話す。聞いた貴方達には、何の責任も無い。だから、彼の怒りを、まともに受け止めないでくれ」
言葉遣いを変えたピエールの前置きに、私達は神妙に頷いた。それを見たピエールが、一言一言確かめるように言葉を紡ぐ。
「父君も母君も、これに化け物と罵声を浴びせておったな。これも、それを煽るような真似をし、かつ、あなた方に自分を侮蔑するよう、何度も言っておった。……だが、出来ればそうしないでやって欲しい。これもどうして、自分を追い込むような真似をしたがるかな」
そこで溜息をつき、ピエールはその目に光を宿らせた。ノワールの突き刺すようなものではなく、私達の心の奥底まで見透かすような、深い光。
「——貴方達は、彼が、つい最近まで、誰よりも化け物を憎む「人間」だったと知っても尚、彼を化け物だと、血も涙も無いと、罵倒できるかね?」
「——————!!」
お父様、お母様、お兄様が、一斉に息を呑んだ。私とフウは、同時に俯く。
よく考えてみれば、3人とも、彼が人だったと知る手がかりは無かった。お兄様は気付く機会はあったけれど、人を魔物に変える魔術があるなんて知らないのだから、正解に達するのは難しいと思う。私だって、ピエールからノワールの過去を聞いて、初めて分かったのだから。
「……なるほど、ようやく分かりました。それで、今まで抱えていた疑問も、説明が付きます」
まず驚きから立ち直ったのは、お父様だった。未だショックを隠せないお母様が、小さく呟く。
「そんな、彼は、どうして——」
「これは、あまりに化け物を憎みすぎている。……特に、吸血鬼を。だから、たとえ自分が同じモノになろうとも、決して許しはしない。彼は一生、自分を化け物と蔑み、憎んで生きようと考えている」
「……ノワ、やっぱり、駄目なのかな」
フウが頼りない口調で呟いた。ピエールが哀しげな表情で頷く。
「おそらく、常に責め続けている。ミアを餌にしてしまった事も、ただ血を求めてしまう事も。……許せないのだろう」
そう言って、ピエールは私を見た。頷いて、同意していることを示す。
大事な者を餌にされ、目の前で殺された彼が、餌を飼い、体調を崩させる程に血を飲む自分を、許せるはずもない。
……あの手に刻まれた爪痕が、それを何よりも物語っている。
その時、ピエールの右手が不自然に動いた。指先が震え、頼りない動きで、ゆっくりと肘掛けに何かを描こうとしている。
「……やれやれ、もう限界か。こんな所で会話を区切って申し訳ないが、これ以上この躯を使えそうにもない。フウの躯を使って続けようにも、これが躯ごとどこかに放り出しそうだしな」
苦笑混じりにそう言うピエールの表情が、時折、ノイズが入るように崩れる。まるで、躯が、本来の制御を取り戻そうとしているかのように。
「……それでは、次は、これとフウが完全に腰を落ち着けた時に伺いましょう。今度は、きちんと顔を出します」
そう言うピエールの右腕は、ほぼ完全に彼の制御を抜け出したようだ。指先が何か——おそらく、魔法陣——を描く速度が、徐々に速くなっている。
「……大切なお話を、ありがとうございました。彼は、私達が責任を持って、匿います」
お父様が、声を震わせてそう言った。お母様も、何度も頷く。
「……ありがとう。儂には何も出来んが……、ノワールとフージュを、お願いします」
その言葉を最後に、彼の頭は再びがくりと項垂れた。彼の躯から、ピエールの魔力が抜けていく。




