第50話 明日の天気です
北の空港に降りると、風の匂いが違った。
冷たくて、少しだけ塩辛い。
海が近いのだと、目を閉じていても分かる。
蓮さんは、借りた車のハンドルを握って、海沿いの道を北へ走った。
車線を変える前に、鏡を二回見る。
知らない土地の道でも、それは同じだった。
「緊張してますか」
「少しだけ」
「俺もです。父に、人を紹介するのは、初めてなので」
膝の上には、祖父の気圧計と、新しいノートが一冊。
ノートは、空港の売店で買った。表紙は、まだ真っ白だ。
◇
港町は、坂の下に、小さく固まっていた。
港の入口の、突き出た岬の先に、白い灯台が立っている。
蓮さんのお父さんは、灯台の下の、古い官舎の前で待っていた。
背が高い。蓮さんより、少しだけ低い。
海の風に何十年も当たってきた顔に、蓮さんと同じ目があった。
「遠いところを、ようこそ」
お父さんは、それだけ言って、深く頭を下げた。
私も、同じだけ頭を下げた。
顔を上げると、二人とも、まだ下げたままだった。
「……父さん」
「ああ」
蓮さんに言われて、お父さんは、ようやく顔を上げた。
照れたように、灯台のほうを見る。
「上がりますか。鍵は、まだ預かっているので」
◇
灯台の中の螺旋階段を、三人で上った。
灯室は、岬の灯台と同じように、丸い窓に囲まれていた。
大きなレンズが、昼の光を集めて、静かに光っている。
窓際の机に、分厚い帳面が積んであった。
灯台の日誌だ。
お父さんは、いちばん上の一冊を開いて、私のほうへ向けた。
一日に一行ずつ、港の天気と、風と、波。
その行の終わりに、ひと月ほど前から、別の字が書き足してあった。
東京の予報士、第六層、苔の色、白。
東京の予報士、富士の足もと、のど。
東京の予報士、吹き抜け。
そして、三日前の行。
港、異状なし。いい夜だった。
「毎晩、見ていました」
お父さんは、日誌の上に、大きな手を置いた。
「船が港に着いても、誰も灯台守に礼は言わない。それでいいと、ずっと思ってきた。……でも、あなたの予報には、毎晩、礼を言っていました。画面の前で、一人で」
私は、何も言えなかった。
ただ、帳面の、細い字の列を見ていた。
誰も読まないのに、いつか誰かが読むかもしれないから。
そう言って書き続けた字を、今、私が読んでいる。
◇
お父さんが、昼の支度をすると言って、先に下りていった。
灯室には、私と蓮さんだけが残った。
窓の外に、海が広がっていた。
空は、高い。
沖のほうに、薄い巻雲が、筋のように流れている。
「明日の夕方から、少し崩れます。巻雲は、低気圧の先触れなので」
「明日は、晴れないんですか」
「明日の昼までは、晴れます」
蓮さんは、笑った。
それから、窓の外を見たまま、静かに言った。
「しずくさん。これから先の予報を、ずっと、隣で聞かせてもらえませんか」
波の音が、下から上がってきた。
灯台のレンズが、窓の光を、ゆっくり集めている。
「毎晩の全国版も、地上の天気も。外れた日の、答え合わせも。……隣で」
私は、膝の上の気圧計を、両手で抱えた。
針は、赤い線の上で、止まっている。
この港の近くに、ダンジョンはない。
それでも、私には、針が少しだけ震えたように見えた。
「……予報を、出します」
「はい」
「晴れ。ところにより、ずっと、隣」
言ってから、顔が熱くなった。
蓮さんは、しばらく黙っていた。
それから、私の手の上に、自分の手を重ねた。
「観測、していきます。ずっと」
◇
お昼は、お父さんの作った魚の汁だった。
食べ終わるころ、スマホに、二通のメッセージが届いた。
一通は、岬のモーラさんから。
祖父の手紙を、今朝、日本の御殿場の住所へ、航空便で出しました。
宛名は、カードに書いてあったとおりに。
もう一通は、母から。
カナダから手紙が来たら、青い箱に入れておくわね。
それと、蓮さんに、よろしく。
蓮さんのお父さんが、汁の椀を置いて、ぽつりと言った。
「御殿場の、おじいさんにも、会ってみたかった」
「祖父も、カナダの岬の灯台に、行ってみたいと言っていたそうです。結局、行けなかったけど」
「なら」
お父さんは、窓の外の灯台を見上げた。
「あなたが、来てくれた」
◇
夜の九時。
官舎の居間の座卓に、組合から借りた持ち運びの機材を並べた。
画面の向こうの放送部屋では、早瀬さんと熊谷さんが、いつもの場所にいる。
蓮さんと、お父さんは、部屋の隅に並んで座った。
同じ姿勢で、同じように、腕を組んでいる。
「こんばんは。全国のダンジョンの天気です」
各地の予報士の名前を、一人ずつ読んだ。
世界の予報士の窓も、一つずつ開いた。
新しい層の苔の色も、二つの口の差の線も、全部、いつもどおりに読んだ。
最後に、答え合わせをした。
昨日の予報は、当たった。
それでも、少しだけずれたところを、正直に言った。
コメント欄は、最初から、配信の背景の話でもちきりだった。
"後ろの障子と座卓、どこ?"
"灯台の官舎らしい、北の"
"灯台って、そういう"
"今夜は天気の話をしろ、天気の"
画面の向こうの放送部屋で、熊谷さんが、杖に顎を乗せたまま言った。
『いい港だな。風の音が、正直だ』
◇
配信を切ってから、空港で買ったノートを開いた。
祖父の地上のノートの、続きにするつもりだった。
一行目に、何を書くか、ずっと考えていた。
祖父のノートは、いつも、日付と天気と、気圧から始まっていた。
私も、そうすることにした。
北の港。晴れ。西の弱い風。
沖に巻雲。明日の夕方から、崩れる。
祖父の針、赤い線。
そこまで書いて、ペンが止まった。
隣から、蓮さんが、そっと覗き込んでいる。
「最後の行は、何て書くんですか」
「明日の予報です」
祖父は、ノートの最後に、いつも明日の空を書いていた。
外れたら、次の日に、自分で謝った。
私は、ペンを持ち直した。
明日の朝の、この港の空を、頭の中で、もう一度だけ読む。
それから、書いた。
明日、晴れのち、くもり。ところにより、恋。
予報は、外れません。
↓第5章の番外編「十五本目」(岬の灯台守の孫・モーラ視点。海の向こうの、もう一つの灯台の話)
https://note.com/wise_turtle184/n/n8aae8bc59d5c?app_launch=false




