第5話 晴れのち、魔素嵐
「スポンサーは三社。同接の目標は十万。広告枠はもう全部売れてる」
ブレイヴラインの会議室。
ホワイトボードの前で、黒川は上機嫌に手を叩いた。
ボードの端には、つい先日まで予報士が使っていた赤いマーカーの跡が、うっすらと残っている。
明日 十四時ごろ 第十二層 魔素嵐。
誰も消さなかった文字の上に、黒川は新しい企画書を貼りつけた。
【アルファ 第二十層・初踏破 完全生配信】
「二十層はまだ誰も踏破していない。一番乗りは、うちのアルファだ。この配信が成功すれば、事務所の年間売上の三割が一日で稼げる」
長机の向こうで、アルファのリーダー、氷室が足を組んだまま頷いた。
「任せてくださいよ。二十層の入口までは、先月下見してあるんで」
「頼もしいね。それで、当日の天気は?」
黒川が振り向くと、若い事務員がタブレットを差し出す。
青い円に白い稲妻。気象AIの週間予報画面だ。
「土曜日の第二十層は、晴れ。魔素安定度は九十二パーセントです。ソラミル社からも、『絶好の攻略日和』とのコメントをいただいています」
「完璧だ。そのコメント、スポンサーの告知文にも使わせてもらおう」
会議室の空気は、明るい。
ただ一人を除いて。
「……黒川さん。一つ、いいか」
壁際の椅子で腕を組んでいた熊谷が、低い声で言った。
事務所で一番古い、五十過ぎのベテラン探索者だ。
「例の配信の予報士が、今度の週末の深層に、でかい気圧の谷が通るって言ってる。確度はまだ低いって話だが」
「ああ、雨宮さんね」
黒川は、笑顔を崩さない。
「熊谷さん、あれはもう、うちとは関係のない個人の配信だよ。二回当たったのは偶然か、たまたま運が良かっただけ。ソラミルは、全国のダンジョンの魔素計のデータを毎秒解析してる。精度が違う」
「十二層も八層も、ソラミルは外したぞ」
「だから来月、アップデートが入るんだ。問題ない」
熊谷は、それ以上は何も言わない。
ただ、会議室の端のホワイトボードに残った赤い文字を、しばらくじっと見つめている。
会議が終わると、氷室は廊下で熊谷の肩を叩いた。
心配しすぎですよ、熊さん。二十層の入口までは何度も行ってるし、うちには最新のAIがついてるんですから。
熊谷は、曖昧に笑って頷くしかない。十四年前、同じような晴れの予報を信じて、仲間を一人、深層に置いてきたことがある。それを若い者に話したことは、一度もない。
◇
木曜日の夜。
雨宮しずくは、配信の準備をしながら、何度も同じデータを見直していた。
第二十層よりさらに深い層で、魔素計の揺れが日ごとに大きくなっている。
苔の色の報告も、深層に潜っているパーティーの配信から集めた。第十九層の北壁の苔が、この三日で灰色に変わり始めている。
天井の結露の粒も、大きくなっている。
全部の兆しが、同じ方向を指している。
土曜日の昼過ぎ。
第二十層に、大型の魔素嵐。
しかも、ただの嵐ではない。
五年間の記録の中で、一度だけ見たことのある形だ。深層から湧き上がる魔素が、上の層へ向かって逆流するように渦を巻く。事務所では、それを「逆流型」と呼んでいた。
規模は、十二層の嵐の比ではない。
「……黒川さんに、伝えないと」
私は、事務所の代表番号に電話をかけた。
呼び出し音が三回鳴って、若い事務員が出る。
名前を告げると、少し待たされて、聞き覚えのある声に代わった。
『雨宮さん? 久しぶりだね。元気そうで何より』
「ご無沙汰しています。土曜日の、アルファの第二十層の配信の件で、お伝えしたいことがあって」
『ああ、配信見てくれてるんだ。ありがとう。でもね、天気のことなら、うちはソラミルと契約してるから』
「ソラミルの予報が、晴れなのは知っています。でも、深層の魔素計の揺れ方が、四年前の逆流型の嵐の前とそっくりなんです。苔の色も、結露も」
『雨宮さん』
黒川さんの声は、どこまでも穏やかだった。
『君の配信が人気なのは知ってる。でも、うちの看板企画に、外から水を差すような真似はやめてくれないかな。スポンサーさんも見てるんだ。君の予報が外れたとき、誰が責任をとるの?』
「外れたら、私が謝ります。でも、当たったら」
『じゃあ、忙しいから』
通話が、切れた。
私は、スマホを耳に当てたまま、しばらく動けない。
五年間、毎朝あの会議室で予報を読み上げてきた。聞いてもらえない日もあったし、外れて頭を下げた日もある。それでも、電話を途中で切られたことは一度もなかった。
私は、もう一本だけ電話をかける。
宛先は、ダンジョン管理組合の救助隊の詰所だ。予報の根拠を十分かけて説明すると、電話口の隊長は、しばらく黙ってから言った。
個人の予報で入場規制はかけられない。だが、土曜は第十八層に救助隊を待機させておく。それくらいなら、こっちの判断でできる。
受話器を置いて、私は深く息を吐く。止められないなら、せめて、備えてもらうしかない。
◇
その夜の配信は、同接が八千人を超えていた。
コメント欄の話題は、ほとんどが土曜日のことだった。
"土曜の二十層、結局どうなの"
"ソラミルは晴れだって"
"アルファの配信、スポンサーの広告にソラミルの予報使ってたぞ"
"お姉さんの週間予報が聞きたい"
私は、手描きの層別図をカメラに向けた。
二十層の上に、赤いペンで大きな渦を描いてある。
「今夜は、週末の深層の予報から、お伝えします」
息を、一つ吸う。
「土曜日、第二十層では、昼過ぎから大型の魔素嵐となるでしょう。深層から上の層へ向かって魔素が逆流する、非常に危険な形の嵐です。降魔確率は、九十パーセント。発生は、十三時から十四時のあいだと予想します」
コメント欄が、一瞬止まった。
それから、一気に流れ始める。
"九十!?"
"ソラミルと真逆じゃん"
"アルファの配信、土曜の十二時スタートだぞ"
"直撃するじゃん"
「繰り返します。土曜日の第二十層、十三時以降は、立ち入らないでください。すでに潜る予定のある方は、どうか計画を見直してください」
"アルファに届け"
"事務所に言ってやれよ"
"言ったんじゃない? 元職場なんだし"
私は、少しだけ迷った。
それから、正直に答える。
「今日、事務所には、お電話でお伝えしました。私にできるのは、ここまでです」
"……"
"聞かなかったのか"
"マジかよ"
「予報は、外れることもあります。外れたら、私はちゃんと謝ります。でも、今回の予報は、外れてほしいと思っています」
カメラの向こうの八千人に向かって、私は深く頭を下げた。
◇
土曜日。
朝から、地上はよく晴れている。雲ひとつない空を見上げながら、私はコンビニでおにぎりを二つ買い、アパートに戻る。長い一日になる。食べられるうちに食べておかないといけない。
魔素計の針は、明け方から一度も落ち着かない。深層の揺れは、昨夜の予想をさらに上回る速さで大きくなっている。
正午ちょうど。
アルファの生配信が始まった。
【アルファ 第二十層・初踏破 完全生配信】
同接、九万二千人。
画面の中で、氷室さんが派手な装備を身にまとい、カメラに向かって手を振っている。
『どうもー、アルファです! 今日は歴史が変わる日! 天気は最高、ソラミルさんのお墨付きです!』
画面の端には、スポンサーの広告が流れている。
ソラミルの予報の、「絶好の攻略日和」という文字と一緒に。
私は、アパートの机の前で、自分の配信の準備を整える。
魔素計。
観測ノート。
祖父の気圧計。
そして、もう一つの画面に、灯台の配信を開く。
神崎さんたちは、今日、第十八層の救助隊の待機所にいる。
昨日の夜、神崎さんから短いメッセージが届いていた。
念のため、組合の救助隊と一緒に待機します。何もなければ、それでいい。
十二時五十分。
祖父の気圧計の針が、音もなく、大きく左に振れた。




