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39.

 




 嵐のような一日が終わり、ローズブランシュ公爵家の別邸は深い静寂に包まれていた。波の音だけが、心地よい子守唄のように夜の空気を震わせている。


 入浴を終え、自身の客室に戻ったセレナは小さく安堵の吐息を漏らした。侍女たちが用意してくれた質の良いシルクのネグリジェは滑らかで、驚くほど着心地が良い。


 セレナは温まった身体を冷ますように、夜気を含んだバルコニーへと足を進めた。見上げれば満天の星空が広がっており、遠くに見える海面は月明りを反射して輝いている。


 セレナは月に手をかざしながら、左手の指に嵌められた古めかしい指輪を見つめた。



「……悪魔さん、起きてますか?」



 セレナが指輪に向かって小声で呼びかけると、漆黒の表面が淡く光った。



『我を近所の犬でも呼ぶかのように気安く呼ぶな、小娘』



 指輪から一筋の黒い靄が立ち昇り、バルコニーの手すりの上にふわりと実体化した。地下室で見たほどの巨大な威圧感はない。今の悪魔はカラスほどの大きさにまで小さくなっており、黒いマントを羽織った影のような姿でちょこんと鎮座していた。



「起きてたんですね。……あの、何か呼び名とかあるんですか?」

『我は全能の環。それ以上の名など持ち合わせておらん』

「じゃあ、やっぱり悪魔さんで。休んでいるところを呼び出しちゃってすみません」

『別にいい。それより何の用だ?』



 悪魔が赤い目を細め、怪訝そうに首を傾げる。セレナは居住まいを正すと、悪魔に向かってぺこりとお辞儀をした。



「改めてきちんとお礼が伝えたくて。カシウス様を助けてくれて、本当にありがとうございました」



 心からの深く純粋な感謝の言葉。それを聞いた悪魔は虚を突かれたように動きを止め、ぱちくりと赤い目を瞬かせた。そして、居心地が悪そうに黒いマントをバサッと翻す。



『……ふん。感謝される謂れなどない。我はただ、貴様の理不尽な契約に屈しただけだ』

「それでもです。アタシにとって、あなたは大切な人の命を繋ぎ止めてくれた恩人ですから」

『おん、じん……』



 悪魔はその言葉の響きを反芻するように口の中で呟き、僅かに戸惑うような仕草を見せた。



『……数百年もの間、数え切れぬほどの欲深い人間どもを見てきたが。我に向かって心の底から感謝の言葉を口にし、恩人などと呼んだ変人は貴様が初めてだぞ』

「えへへ、光栄です!」

『褒めてない』



 悪魔は呆れたように肩を竦める動作を見せた。その姿は恐ろしい怪物というよりどこか偏屈な老学者のようにも見える。そんな彼の様子を見て、セレナはふと思いついたように提案を口にした。



「そうだ。その恩人である悪魔さんに、アタシからも一つ提案があるんです」

『提案? 貴様、まだ我に何か要求する気か? 強欲にも程があるぞ』

「違います、その逆ですよ」



 セレナはバルコニーの手すりに身を乗り出し、目を輝かせた。



「良ければアタシが、あなたの願いを叶えましょうか!」

『……は? 我の願い、だと?』

「はい! ずっと暗い祠の中で退屈してたんでしょう? 何か食べたいものとか、見てみたい景色とか。あとはそうだなぁ、やってみたい遊びとか! 何でも言ってください! アタシが全力で叶えてみせます!」



 バンッと胸を叩いて豪語したセレナだったが、ハッと思い出したようにすぐさま付け加えた。



「あ、もちろんアタシや皆様の命とか、そういう物騒な代償以外でですよ? それ以外の願いでお願いします!」

『……』



 そのあまりに予想外な言葉に、悪魔は呆然と固まった。数秒間黙った後、肩を震わせて堪えきれないように吹き出す。



『ククッ……クハハッ!』

「も、もう! また笑うんですか!」

『笑わずにいられるか! 全知全能の悪魔に向かって願いを叶えてやるとは……傲慢で強欲な小娘だと思っていたが、ただの変わり者であったか』



 悪魔はひとしきり笑い転げた後、赤い目を三日月のように細めてセレナを面白そうに見上げた。



『今のところ貴様の魂以外に欲しいものはない。だがまあ……退屈しのぎに考えておこう。貴様が死ぬまでに一つくらいはな』

「はい! 気長に待ってますね!」



 セレナが満面の笑みで頷くと悪魔は『呆れた小娘だ』と短く鼻を鳴らし、再び黒い靄となって指輪に戻ろうとした。



「あっ、ちょっと待ってください! 帰る前にもう一つだけ聞きたいことがあるんです!」



 引き止めるセレナの声に、靄が再び手すりの上で実体化する。



『……なんだ。まだ何かあるのか』

「アルドリック様にかけられている魅了魔法についてです。悪魔さんの力なら、あの魔法を完全に解くことはできるんですか?」



 セレナの真剣な問いに、悪魔は退屈そうに答えた。



『当然だ。あのような下等な精神干渉魔法など、我の力をもってすれば容易く解ける。……だが、娘よ。あの騎士の魅了魔法はもう解けかけているぞ。というより、魔法がいらなくなってきていると言った方が正しいか』

「ええっ!? 解けかけてるんですか!? あんなに息をするように重いポエムを量産しているのに!!?」



 セレナが驚いて目を見張る。



「 魅了を解くには相手に嫌われるか、術者であるシャルミーヌ様が死ぬしかないって聞いてたんですけど……」

『ああ、確かにその方法でも魔法は解ける。だが、それ以外にもう一つだけ術を無力化する理がある。あまりにも実例がなさすぎて失われた方法だがな』

「それって一体?」

『真実の愛、だ』



 悪魔はまるで苦い薬を飲み込んだかのように顔を酷くしかめながら、吐き捨てるように告げた。



『術者と被術者が何よりも相手を優先したいと本心から想い合った時。強制的な感情の縛りは自発的な強い絆へと上書きされ、魅了は役目を終えたように消える』



 セレナが目を瞬かせていると、悪魔はセレナにも分かるよう比喩を付け加えた。



『例えるなら自転車の補助輪が外れるようなものだ。最初は魔法という補助輪がないと真っ直ぐ進めなかった愛が、いつの間にか自分たちの足で漕げるようになった。そうなれば、補助輪まほうはお役御免ということだよ』

「え、でもそれならとっくに解けていてもおかしくないんじゃ?」

『騎士の方は問題ない。あの騎士はとっくの昔に公爵令嬢を深く愛している。問題はあの公爵令嬢だ』

「シャルミーヌ様に原因がある……?」

『そうだ。あの娘は己の立場と責任をよく理解しているがゆえに、あの騎士のことだけを考えられないのだろう。要するに、あまりにも理性的で常識的すぎるということだ』



 悪魔の指摘に、セレナはハッとした。

 思い返せば、シャルミーヌはいつだって立派な公爵令嬢として振る舞い、自身の感情を後回しにしてでも常識的な判断を下そうとする。



『公爵令嬢という立場が足枷となり、相手への想いをせき止めてしまっている。だからこそ、あの騎士との間にある魔法の繋がりが不完全な状態で維持されてしまっているのだ』



 悪魔は赤い目を光らせて、面白そうに結んだ。



『つまり、あの堅物な娘の自制心と体裁をなくせばいい。己の感情を完全に解放し本心を全て曝け出させれば、あの魔法は自然消滅するだろうよ』

「シャルミーヌ様が……本心を全て曝け出す……」



 セレナは顎に手を当てて、ふむふむと深く頷いた。



「なるほど、理解しました! 要するに、シャルミーヌ様がアルドリック様に思いっきりデレる日が来れば魔法は解けるってことですね!」

『……我の高尚な解説を、ずいぶんと俗っぽい言葉に変換しおったな』

「なら、話は早いです! 私たちで全力でサポートして、お二人をくっつければ魔法の問題も解決ってことですもんね!」



 セレナは両手をぎゅっと握り締め、夜空に向かって気合を入れた。魔法がなくても昔から二人は両思いなことは分かっているのだ。その背中を押すのは、特等席で見守る自分たちの役目だろう。



「教えてくれてありがとうございます、悪魔さん! よーし、明日からカシウス様と一緒にお二人の恋路を全力で応援する作戦会議を開かなくちゃ!」



 一人で燃え上がるセレナを見て、悪魔は面白そうに喉を鳴らした。



『ククッ、勝手にしろ。つくづく愉快な小娘だ。……せいぜい、己が選んだ騒がしい運命を生きるがいい』



 悪魔はそう言い残すと黒い靄へ姿を変え、指輪の中に戻っていった。

 再び静けさを取り戻したバルコニーで、セレナは大きく深呼吸をする。肺いっぱいに吸い込んだ潮風はどこまでも澄み切っていて、これからの未来への希望に満ちている気がした。



「……よしっ」



 セレナはバルコニーから室内に戻り、ふかふかのベッドに潜り込んだ。

 カーテンの隙間から差し込む月の光を見つめながら、今日という一日を振り返る。

 カシウスの命が繋がり、三人の仲も深まり、恐ろしいはずだった悪魔ともほんの少しだけ心の距離が縮まった。



「……本当に、良かったぁ……」



 セレナは幸せそうに小さく呟いた。彼女の知っている悲劇のシナリオは、今日をもってすべてが書き換えられた。これで心置きなく、大好きな推したちのことを見守ることができる。


 心地よい疲労感と、遠くから聞こえる波の音。それらに優しく包まれながら、セレナは吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。






いつも『重愛騎士は止まらない!』を読んでくださり、本当にありがとうございます。

このたび、既存話を含め全面的に内容を再構成したいと考えたため、こちらの連載を一旦無期限休止とさせていただくことにしました。

キャラクターに思い入れがあるので、いつになるかはわかりませんがちゃんと完結はさせたいと思っています。

ここまで読んでくれた数名の皆様には、感謝の気持ちしかありません。

申し訳ない気持ちでいっぱいですが、どうかご理解いただけますと幸いです。


那歌

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