20.
王都北部の丘陵地にそびえ立つ、由緒正しき国賓用迎賓館。
普段は花々が咲き乱れ小鳥のさえずりが響く開放的なこの場所も、今日ばかりは重苦しい雰囲気に包まれていた。
それもそのはずだ。本日は王室が主導するグラディオラス侯爵令息とアマリリス帝国皇女のお見合いが執り行われる日である。
警備の目は文字通り鼠一匹通さないほど厳重を極めていた。
そんな物々しい空気が漂う中、二人のメイドが通用門の前に立っていた。
「……ねえ、セレナ。本当に、この格好で大丈夫なの?」
シャルミーヌはひらひらと波打つフリルのエプロンを指先でつまみ、落ち着かない様子で尋ねた。
彼女が纏っているのは、この日のために用意されたグラディオラス家の正式なメイド服である。
「何を仰いますか、シャルミーヌ様。その完璧な着こなし、どこからどう見ても立派なメイドさんですよ!」
セレナは胸を張り、自信満々に太鼓判を押した。
「ちょっと育ちが良すぎて、隠しきれない気品が漏れ出しているだけです! アルドリック様も間違いなく釘付けになりますよ!」
「それ、全然周囲に溶け込めてないことにならない……?」
シャルミーヌが惜しみない賛辞に気恥ずかしさを覚えつつ溜息をつく傍らで、セレナは堂々としたものだ。
まるで生まれたときから本職のメイドであったかのような手つきで、門番に通行証を提示する。
「お疲れ様です! 本日、グラディオラス家より追加の給仕として参りました!」
彼女から満面の笑みを向けられた門番は疑う素振りも見せずに彼女たちを通した。
そのまま事前に頭へ入れていた地図の通りに、豪華な石畳の上を進んでいく。そしてお見合い会場のすぐ隣にある控室の扉を静かに開けた。
部屋の中は、キラキラと輝くシャンデリアや金色の縁取りが施された豪華な調度品が並んでいる。
「二人とも、無事潜入できたみたいだね」
部屋に入ると、カシウスがいつもの笑みで出迎えてくれた。しかし、その隣に立つアルドリックの様子はどう見ても普通ではない。
「シャルミーヌ……! ああ、なんという……なんという愛らしさだ……!」
アルドリックはまるで奇跡の宝物でも見つけたかのように、熱を帯びた瞳で彼女をじっと見つめている。
「その純白のエプロンは、君の心の清らかさを表す雪の結晶だ! そしてキュッと締まった腰のラインは、見る者の心を激しくかき乱す神からの贈り物に違いない!」
彼は両手を広げ、天を仰ぐようにして言葉を紡ぎ続ける。
「今すぐグラディオラス家のお抱え絵師を呼ぼう! この奇跡の姿を後世のために絵として残さなければ――」
「い、いいからアル! さっさと作戦を確認するわよ!」
止まらなくなった愛の詩を、シャルミーヌは顔を真っ赤にして遮った。
カシウスは最近お決まりとなりつつある二人のやり取りに苦笑いしながら、テーブルに広げた建物の地図を指さす。
「よしよし、二人とも落ち着いて。時間がもったいないから最終確認をしよう」
カシウスの指が、地図の上をすべるように動く。
「お見合いの開始まであと二時間ある。その間にセレナには情報収集を頼みたい。メイドのふりをして他の使用人たちに混ざり、皇女の性格やアルのことをどう思っているかを探ってきてほしいんだ」
「お任せください、カシウス様!」
「いい返事だね。休憩室や勝手口のあたりなら、使用人たちの愚痴や噂話が聞こえてくるはずだよ」
カシウスはそう言ってにこりと笑った。彼自身はお見合いの場に仲人として参加するため、裏での工作は彼女に託すしかないのだ。だが、この男が今の状況を面白がっていることだけは間違いない。
「そしてシャルミーヌはアルの専属メイドとしてお見合いの席に付き添うんだ。会談が始まってアルが惚気話を始めたら、横からしっかり助け舟を出してあげてほしい」
「助け舟、ですか?」
「そう。例えば皇女が『アルドリック様はどんな女性がお好きなの?』と聞いてきたら――」
カシウスの言葉を遮るように、セレナが勢いよく身を乗り出した。
「『我が主人アルドリック様はシャルミーヌ様のように美しく気高い女性こそがたった一人の運命の相手だと毎日欠かさず仰っております!』って答えればいいんですね!?」
「そんな恥ずかしい台詞、私が自分で言えるわけないでしょう!」
シャルミーヌが精一杯のツッコミを入れるが、セレナの暴走は止まらない。
「じゃあ、皇女さまが紅茶を飲もうとした瞬間に叫びましょう!」
セレナは目を輝かせ、芝居がかった身振りで提案を続ける。
「『お待ちください! その紅茶には我が主が愛を証明するために買った秘密の惚れ薬が入っているかもしれません!』って言ってカップを派手に叩き落とすのはどうですか!?」
「間違いなく国際問題になるわ! 絶対にしないから!!」
シャルミーヌが声を荒らげると、カシウスが吹き出すのをこらえながら間に入った。
「ふっ、ふふ……セレナは本当に想像力がたくましいね。まあ、基本的にはアルが君の素晴らしさを語り始めたらタイミングを見て小さく頷くだけでいいよ。ただ、皇女さまを怒らせすぎて戦争にならないようにだけ気をつけてね」
「わ、わかったわ……。なんとか、頑張ってみる……」
シャルミーヌは、どっと押し寄せた疲れに肩を落とした。
「よし、それじゃあ各自行動しよう。三人とも、またあとでね」
そんなカシウスの言葉と同時に、セレナはさっと風のように部屋から飛び出していった。カシウスもそれに続いて部屋を後にし、広々とした豪華な控室にはシャルミーヌとアルドリックの二人だけが残される。
部屋が急に静まり返る。
壁に掛けられた大きなアンティーク時計が刻む、規則正しい音だけが響いていた。
「……なあ、シャルミーヌ」
ふいに、アルドリックが声をかけた。
その声は先ほどまでの芝居がかった熱烈なものではない。驚くほど優しく、どこか甘い響きを帯びていた。
「……何?」
「あまりに可愛くて本物の妖精かと思ったよ。……君が本当に俺のメイドだったならどんなに幸せだっただろうな」
彼の手が伸び、そっとシャルミーヌの頬を撫でる。
触れられた肌が火がついたように熱くなり、シャルミーヌの心臓はドクンと大きく跳ねた。
「ああ……このまま君を額縁に入れて、グラディオラス家の家宝として永久に封印してしまいたい……! 神よ、なぜ彼女はこれほどまでに愛らしく、私の理性を狂わせるのか!」
「あ……最後はやっぱり、いつもの調子に戻るのね」
呆れながらも、シャルミーヌの顔は熟れたリンゴのように朱に染まっていた。彼の口にする可愛いという言葉だけはどうしても誤魔化しがきかず、真っ直ぐに胸の奥へ刺さってしまうのだ。
「いつまでもこうして君を眺めていたいが、まずは準備をしないといけないな。それじゃあ……『シャル』、着替えの手伝いをしてくれるか?」
今回の作戦にあたりメイドとしての仮名はシャルミーヌが『シャル』、セレナが『レナ』にすると決めていた。
しかしいざ彼からその愛称で呼ばれると、どうしても鼓動が早くなってしまう。
「――え、ええ。わかったわ、『旦那様』」
慣れない呼び方を口にすると、余計に頬が熱を帯びる。
シャルミーヌはかすかに震える手で、彼のジャケットのボタンに指をかけた。
指先が生地をかすめるたび、その下に隠された引き締まった筋肉の感触が伝わってくる。一つ、また一つとボタンを外すごとに、アルドリックの熱い吐息が彼女の額を優しく撫でた。
「シャル、手が震えているぞ」
「……うるさい。慣れないことしてるんだから当たり前でしょ」
上着を肩から滑り落とし、次はシャツのボタンへと手を伸ばす。
距離が近すぎて、彼が息を吸い込む微かな音さえも耳に届いていた。
首元のボタンを外すと、彼の喉仏がごくりと上下に動くのが見える。
服を脱がせていくたびにあらわになる彼の肌は、がっしりと引き締まっていた。
「……っ」
最後のボタンを外し終えたとき、シャルミーヌの指先が誤って彼の温かい胸元に直接触れてしまった。
びくりと指が跳ねる。思わず手を引っ込めようとしたが、アルドリックはその手を逃がさないように掴み自分の胸へと強く押し当てた。
手のひら越しに彼の力強く、ひどく速い心臓の音が響いてくる。
「これではお見合いの支度というより、まるで――」
「バカ! 変なこと言わないで!」
シャルミーヌは限界を迎え、耳まで赤くしながら彼を突き放した。
そして誤魔化すように準備されていた新しい礼装を手に取り、丁寧に袖を通していく。
最後に、彼の手が届かないよう後ろに回って襟を整える。
うなじから漂う彼の香りや髪の感触が、甘く胸を締め付けてきた。
「……できたわよ」
仕上げにネクタイの結び目を整え、照れ隠しに少しだけ乱暴にキュッと締め上げる。
「ぐっ……ありがとう、シャル。最高の仕上がりだ」
シャルミーヌに礼を伝えた彼は、鏡を見ることなく彼女の方へ身体を向けた。
そして、ただ真っ直ぐにシャルミーヌを見つめる。
その視線はあまりに情熱的で、射すくめられた彼女は逃げ場を失ってしまう。
「シャル。君がそばにいてくれるなら皇女だろうが誰だろうが俺の視界には入らない。俺が見るのは、いつだって君だけだ」
そう言って彼は、シャルミーヌの指先に恭しく唇を落とした。
公爵令息としての完璧な所作と、愛する女性を前にした一人の男としての熱い執着。その両方が混ざり合った彼の言葉に、シャルミーヌは頬を火照らせながらパクパクと口を動かすことしかできなかった。
沈黙が長くなればなるほど、部屋の温度が一段ずつ上がっていくような錯覚に陥る。
「……っ、もう! バカなこと言ってないで早く行くわよ!」
やっとの思いでそう口にしたシャルミーヌは、乱暴にその手を振り払った。
そして逃げるように身をひるがえし、控室の扉を勢いよく開ける。
「ああ、そうだな。行こうか」
満足そうに微笑むアルドリックの後に続き、シャルミーヌは波乱を予感させるお見合い会場へと一歩を踏み出した。




