16.
――時は少し遡り、シャルミーヌがアルドリックと別れた直後。
「お帰り、シャルミーヌ」
彼女はその恐ろしく低い声に身体を硬直させていた。
玄関ホールの吹き抜けに吊るされた豪華なシャンデリアが、まるで舞台上のスポットライトのように声を発した人物を照らし出している。
階段の前に仁王立ちし、帰宅した彼女を待ち構えていたもの。
それは、予定を大幅に切り上げて視察から戻ってきた公爵夫妻であった。
「私たちが不在の間、随分と……随分と熱心に、グラディオラス侯爵令息との親交を深めていたようじゃないか? ぜひとも詳しく、根掘り葉掘り、一文字も漏らさず、話を聞かせてもらおうか」
ローズブランシュ公爵家当主――ギルバートの背後には怨念めいた黒いオーラが渦巻いている。
(ひぃぃ、お父様の目が……目が笑っていない……!)
シャルミーヌは本能的な危機感を覚え、とっさに胸元のコサージュを隠そうとした。しかし、時すでに遅し。ギルバートの鋭い目は、まるで熟練の狙撃手のようにその贈り物をロックオンしていた。
「あなた、そんなに怖い顔をしないで。シャルミーヌが怯えてますわ」
そんなギルバートを宥めつつ、母――エレオノーラは優しい微笑みを浮かべてシャルミーヌへと歩み寄った。そっと娘の肩を抱くその手は温かい。しかし、その瞳の奥は獲物を値踏みする蛇のようにきらりと光っていた。
「ねぇ、シャルミーヌ? 怖がらなくていいのよ。お母様はいつでもあなたの味方ですもの」
「お、お母様……」
「だから……包み隠さず、すべてを白状してもらえるかしら?」
慈愛に満ちた声音とは裏腹に、逃がす気はないと言わんばかりの笑顔が怖い。シャルミーヌは引きつった笑顔を返すしかなかった。
「まあ、立ち話もなんだ。互いに着替えた後ディナーにしようか。料理が冷めないうちに」
ギルバートは踵を返し自室へと向かう。しかし彼は途中でふと立ち止まり震える声で付け加えた。
「……いや、もう冷めても構わん。私の心はすでに冷え切っているからな」
父の言葉はもはや食事の誘いではなく、食堂という名の取調室への連行だ。
シャルミーヌは先ほどまでのアルドリックとの甘い余韻を無理やり投げ捨て、重い足取りで自室へと向かったのだった。
◇◇◇
家族三人での食事が開始されてから数分。
食堂にはカチャカチャと銀食器が皿に触れる音だけが虚しく響いていた。
シャルミーヌは公爵令嬢としての完璧な所作を維持しながら、鴨のローストを機械的に口に運ぶ。本来なら絶品であるはずの肉の旨味も、芳醇なソースの香りも、今の彼女が感じられることはなかった。
理由は明白。上座に座るギルバートの視線が痛いほど彼女を突き刺しているからだ。
「ここ数日、お前がグラディオラス公爵家の三男――アルドリックと行動を共にしていると聞いているが」
ギルバートがワイングラスを置く音が静かな食堂に響く。
「今日だって彼と出かけていたのだろう? 否定はさせんぞ。多くの使用人が見ていたのだからな」
「……彼はカシウス殿下の命を受けて、一時的に私の護衛を務めているだけです。それ以上でも以下でもありません」
シャルミーヌは努めて自然な笑顔で答えたが、彼の追及は止まらない。
「ほう、護衛か。だが……私の耳に入った報告では、今日だけでもカフェで『あーん』と仲睦まじく食べさせ合い、挙句の果てにはそのコサージュを贈られたと聞いているぞ」
そこで彼は一度言葉を区切り、かっと目を見開いて叫んだ。
「どう考えても仲睦まじい男女のデートではないかああああ!! それが護衛との距離感か!? そもそも、あーん、とは何だ! 奴は手が不自由なのか!? それとも腕を怪我しているのか!? そうでないなら単なる破廉恥な行為だろうが!」
「ちっ、違います! その、最初は違ったんです! 本当です!」
「『最初は』だと!?」
ギルバートの妄想回路が、最悪の事態を想定し凄まじい勢いで稼働し始める。
「ということは純粋なお前を別の目的で誘い出し、後から本命のデートに持ち込むという卑劣な手口か! あの男、お前を言葉巧みに誑かすつもりだな!? さらには監禁して、あんなことやこんなことをぉぉぉ! おのれ、許さん! そんなのは絶対に許さんぞ!!」
「誤解です! 私は誑かされてなどいません! それに監禁って一体何の話ですか!?」
シャルミーヌの懸命な弁明も、暴走する彼の耳には届かない。
「それだけではない! 六日前のことだ。使用人たちは不可解なことに全員寝てしまっていたというのに、お前はその日、朝早くから学園へ登校していたそうじゃないか。そしてその日の掃除中に……これが見つかったのだ!」
ギルバートが取り出したのは、小さな布に包まれた数本の黒色の髪だった。
「これはお前の部屋と廊下、そしてなぜか地下牢から見つかったものだ。我が家に黒髪の使用人は一人もいない……。髪を鑑定させたところ、間違いなくグラディオラス家のものだという結果が出た!」
彼はついに肩を震わせ、血の涙を流さんばかりの勢いで叫んだ。
「ま、まさかお前たち、その時すでに……人目を忍んで、屋敷で監禁プレイを楽しんでいたんじゃあるまいな……っ! パパはっ、パパはそんな娘に育てた覚えはないぞ!」
「そんなわけないでしょうがあああ!!!!」
シャルミーヌは思わず貴族の令嬢らしからぬ大声を張り上げた。妄想が過ぎるギルバートに対し、彼女の顔は羞恥と憤怒で真っ赤に染まっている。
「ああ……パパと結婚するってあんなに可愛らしく言っていた、あの天使のようなシャルミーヌはどこへ行ってしまったんだ……!!」
「何年前の話をしてるんですか!! 幼い頃の世迷言を引っ張り出さないでください!!」
「そうよ、あなた。一回落ち着いて」
ここでそれまで静観していたエレオノーラが、食器をおいて優雅に割って入った。
彼女はふっと瞳を細め、射抜くような視線を娘へと向けた。
「じゃあ、ママからも質問していい? シャルミーヌ」
「は、はい……なんでしょうか」
「そのアルドリックのことだけど。少々様子がおかしいという噂を聞くわね? 学園では別人のようになったとか、精神魔法にかけられているんじゃないかとか……不穏な噂が飛び交っているけれど?」
シャルミーヌの脳裏に、今の、そして以前のアルドリックの顔が交互に浮かぶ。
無口無表情だったかつての彼と、今笑顔であーんを要求してくる今の彼。
確かに端から見れば、洗脳されたか呪われたかとしか思えない変貌ぶりだ。
「そ、それは……」
シャルミーヌは思わず喉を引きつらせた。
感情と妄想に任せ暴走するギルバートの追及なら適当に誤魔化せるのだが、エレオノーラのそれは違う。彼女の言葉はいつでも、シャルミーヌが最も隠しておきたい急所を正確に射抜いてくるのだ。
「ねえ、シャルミーヌ。お母様との約束を覚えているかしら?」
エレオノーラの微笑みが深まる。それは慈愛ではなく、逃げ場を塞ぐ王手の顔だ。シャルミーヌは、幼い頃から繰り返し教えられた約束を復唱した。
「……はい。魅了魔法を使用する時は、己の身に危機が迫った際の自衛、あるいは誰かを守るための盾とする時のみ。そう教わりました」
「そうね。じゃあ聞かせてちょうだい。あの子の今の状態に、あなたの力が全く関わっていないと言い切れる?」
シャルミーヌの背筋を冷たい汗が伝った。
嘘をつけばすぐに見破られる。しかし、真実を語れば約束を破ったことを認めることになる。
シャルミーヌはこの時、生まれて初めて「パパ、助けて」と心の中で叫んだのであった。




