15.
街を貫く石畳にしっとりと夕闇が降り、家路を急ぐ人々の足音も夜の訪れとともに遠のいていく。
空には薄い雲が流れ、街全体を藍色の帳が包み込もうとしていた。
そんな静かな街路を、二人の影がゆっくりと進んでいく。
そしてシャルミーヌの屋敷の前まで来ると、どちらからともなく足が止まった。
「じゃあ……また明日会いましょう。アル」
シャルミーヌが名残惜しそうに唇を開く。
その瞳には今日の楽しかった時間の余韻がありありと宿っていた。
アルドリックはその言葉に深く頷き、笑みを浮かべる。
「ああ、また明日。……君が屋敷に入るまでは見送らせてくれ」
どこまでも穏やかな声色。それは彼が彼女にだけ向ける、惜しみない愛情の証だった。彼女はその声に背中を押されるように小さく頷いて歩き出し、屋敷の奥へと消えていく。
「……」
彼女の姿が完全に見えなくなった瞬間、アルドリックの表情から一切の温度が消え失せた。
先ほどまで愛しげに細められていた瞳は、今は氷の刃のように鋭く研ぎ澄まされている。周囲を威圧するような冷え切った空気を纏い、彼はくるりと踵を返す。
彼は自らの屋敷へ戻る道を選ばなかった。
あえて街灯の光も届かない、建物の隙間に潜む細い路地へと足を踏み入れる。
「カフェからずっと尾けてきていたな。デートの覗き見とは随分と無粋な真似をする」
カサリ、と背後で乾いた音が鳴る。
アルドリックはその音に振り返ることすらしない。ただ、腰に下げた長剣の柄を静かに握った。
「隠れていても無駄だ、もう場所は割れている。……命が惜しければ大人しく出てきたらどうだ?」
返答はなかった。代わりに、背後の暗闇から殺気が膨れ上がる。
潜んでいた刺客が躍り出ると同時に、数本のナイフがアルドリックへと放たれた。だが彼は微動だにせず、最小限の体捌きでそれらを紙一重でいなしていく。
そのまま目にも留まらぬ速さで抜剣し、マントを翻しながら素早く刺客の懐へと潜り込んだ。
「っ、なっ……!」
刺客が驚愕の声を漏らすよりも早く、剣がその喉元に突き付けられた。
「動くな。頸動脈を裂かれたくなければな」
アルドリックの表情は、どこまでも感情を削ぎ落としたものだった。シャルミーヌの傍で見せていた狂信的なまでの甘さは欠片もない。そこに立っていたのは氷の騎士として畏怖される王家の剣そのものであった。
彼は剣の切っ先を使い、刺客の襟元をわずかに払った。
剥き出しになった男の首元には、古びた天秤を象った奇妙な紋章が刻印されている。それを見たアルドリックの目が、さらに冷たく据わった。
「救いようのない狂信者……か。貴様らの安っぽい正義など、彼女の髪一筋の価値にも及ばない」
アルドリックは剣の柄で刺客の顎を正確に叩き抜いた。男は悲鳴を上げることすら許されず、その場に崩れ落ちて意識を失った。
「彼女の平穏を乱すなど誰であっても許さん。……たとえそれが、どんな組織であってもな」
小さく吐き捨て、アルドリックは気絶した男を荷物のように肩に担ぎ上げた。そのまま夜の闇に紛れ、足音を殺して王城へと向かう。
城に到着すると彼は手近な守衛に男を引き渡し、最低限の事務的な報告を済ませた。それから自らの主君であり友でもある男に詳細を報告するべく、王城の奥深くにある執務室へと足を向けた。
ノックは一度。だが、許可を待つよりも早く扉を開いた。
「お帰り。デートは楽しめたかい、アル?」
執務机に向かっていたカシウスが、書類を捲る手を止めてゆっくりと顔を上げた。その口調はいかにも軽薄そうで友人への茶化しを多分に含んでいる。
しかし、窓から差し込む青白い月光に照らされた彼の横顔は、不自然なほどに青白く見えた。
「ああ。いい時間だった」
返答は短く端的なものだった。だがアルドリックの口元は、先ほどの刺客を追い詰めた時とは対照的に柔らかく緩んでいる。カシウスはそれを見逃さず、ふっと笑みを深めた。
「それは何よりだ。じゃあ、例の固着状態も治ったのかな? それとも、解除の手がかりでも見つかったかい」
カシウスの問いに、アルドリックは少しだけ視線を落とした。
「いや、それは治っていない。だが、彼女が俺のためを思ってあれこれと心を砕いてくれる。その事実が何よりも嬉しい。……結果として、この魅了魔法にかかってよかったとすら思っている」
「ふっ……本当に君は一途だよね。いや、一途を通り越して重症かな」
カシウスは一度言葉を切ると悪戯っぽい笑みを消し、真剣な表情でアルドリックを見つめた。
「……なあ、アル。このままじゃ本当に、僕がシャルを貰うことになるけど。君はそれでいいのかい?」
その言葉は友としての忠告であり、王族としての冷徹な現実でもあった。
「僕らが個人的にどんなことを思っていようと、王家はこの婚約を破棄する気なんてない。僕が彼女を奪い去る前に、君が彼女を奪い去ってしまうという選択肢もあるはずだよ」
「……ああ、わかっている。お前と彼女が並び立つ未来など、想像しただけで嫉妬でどうにかなりそうだ」
アルドリックは低く、地を這うような重い声で応じた。
その瞳の奥には親友相手であっても容赦のない、底知れない独占欲が渦巻いている。
「だが、俺が生きている限り彼女の隣という特等席を誰かに譲るつもりはない。たとえそれがお前であってもだ」
「……相変わらず恐ろしい執念だね。でも、その意気込みなら安心かな」
カシウスは親友のあまりに重すぎる愛の深さに、毒気を抜かれたように苦笑した。彼は椅子の背もたれに体を預けると、ふと思いついたように口を開く。
「よし、じゃあさっそく彼女の屋敷に行って夜這いを――」
「それはしないと言っただろう、カシウス。それよりも、急ぎの報告があるんだ」
アルドリックが机の前に立ち、手袋に付いた微かな返り血を白い布で拭いながら告げた。
「帰り道、シャルミーヌを狙っていたネズミを一匹捕らえて牢屋に入れてきた。――『天秤』の手先のようだ」
カシウスのペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
「やはり彼らが関わっていたか。……だとしたら、思っていた以上に根が深い問題かもしれないな」
「それともう一つ。お前なら既に気づいているとは思うが……最近、王都の地下を流れる魔力がどこか不自然だ。澱んでいるというか、何かに無理やり引き寄せられているような違和感がある」
カシウスは深く頷くと、机の上に王都の地図を広げた。
そこには、赤いインクであちこちに不気味な×印が書き込まれている。
「……そうだね、察しの通りだよ。街のあちこちで魔力の流れがねじ曲げられている。いや、意図的に集められていると言った方が正確かな」
カシウスは地図上の印をなぞりながら、苦々しく顔をしかめた。
「おそらくこれは単なる個人の暗殺計画じゃない。王都全体を媒介とした巨大な禁忌術式の起動を狙ったものだろう。……誰かが水面下で、国家規模の惨劇を企てている」
彼は声を一段と低くし、重々しく告げた。
「もしかしたら十年前のあの事件を……より凄惨な形で繰り返そうとしているのかもしれないね」
「それは、あのヘリオトロープ家の事件──」
アルドリックが問い返そうとした、その時だった。
「ごほっ、ごほっ……!」
唐突に、カシウスが激しく咳き込んだ。
彼は慌てて机の上のハンカチを手に取り、口元を強く押さえる。
「……っ、カシウス!? 大丈夫か?」
アルドリックは咄嗟に駆け寄ろうとしたが、カシウスは片手を強く突き出しそれを制した。
「大丈夫だ。……少し、地下の調査で魔力を使いすぎただけだよ。心配いらない」
カシウスは親友から顔を背け、血の付着したハンカチを素早く隠した。その拒絶するような横顔には、例え親友であってもこれ以上は踏み込ませないという意思が宿っている。
「アルドリック、報告に感謝する。引き続き、彼女の護衛を頼むよ」
カシウスが彼をフルネームで呼んだ。
それは親友としての語らいを切り上げ、王位継承者として臣下に命令を下す合図である。
これ以上案じたところで、彼が本心を語ることはない。
アルドリックはそれを、これまでの付き合いから痛いほどに理解していた。
「……承知しました」
アルドリックは静かに目を閉じ、短く応じて一礼した。
そのまま退室しようと扉へ向かう。
だが、扉のハンドルに手をかけたところで、彼は一度だけ立ち止まった。
そして振り返ることなく、どこか労わるような声で言った。
「殿下。どうかご無理はなさりませんよう」
「わかっているよ。ありがとう」
アルドリックが部屋を去り、重い扉が閉まる。
部屋に残されたカシウスは、一人、背もたれに深く身体を預けた。
窓の外を見つめる彼の顔にはどこか寂しげな、諦観に似た笑顔が浮かんでいる。
「僕が死ぬだけで済むなら楽だったのに。……はあ。今日もあの夢を見そうだ」
消え入りそうな独り言は、暗い部屋の空気に溶け誰に届くこともなく消えていった。




