10.
週末の昼下がり。
シャルミーヌは自室の鏡の前で身体を左右に捻り、入念に仕上がりをチェックしていた。
その指先は普段のドレスとは違うスカートの裾を何度も整え、そわそわと落ち着きなく動き続けている。
「ねえアンナ……本当にこれで大丈夫かしら? 地味すぎたりしない?」
「お嬢様、大丈夫ですよ! お綺麗ですから自信を持ってください!」
シャルミーヌが不安げに問いかけると、彼女の専属侍女であるアンナはにこにこと上機嫌な様子で答えた。
今日のシャルミーヌは品の良いリネンワンピースに、淡い灰色のショールを羽織っていた。
プラチナブロンドの髪は低い位置で緩く三つ編みにされ、小ぶりの麦わら帽子を被っている。
「あ、ありがとう。アンナ」
シャルミーヌの頬がほっと緩む。だが、彼女はすぐに自分を律するように拳を握った。
(違う、落ち着いて。今日の目的はアルとデートすることじゃない。魅了魔法を解くために、彼を魔道具店へ連れていくだけよ。そう、間違ってもデートなんかじゃない……!)
そう自分に暗示をかける彼女であったが、頬の赤らみまでは隠せていない。
たとえデートでなくとも、好きな人には可愛いと思われたいのが乙女心というものなのだ。
そんな複雑な感情を抱えながら、彼女は寝室から出て、玄関ホールへと向かう。
そこにはすでにアルドリックがいた。
今日の彼は白いシャツに焦げ茶のベスト、旅人用の黒いコートというラフな装いだ。
ひとまずは目立たない服装であることにシャルミーヌは安堵する。
だが、誤算があった。
服の隙間から覗く鍛え上げられた筋肉、そして整った顔立ちは服装を変えたところで隠し切れるものではなかったのだ。
むしろ、飾りのない格好が彼の素材の良さをこれでもかと強調しており、これ以上なく魅力的に見える。
(か、かっこよすぎるっ……じゃなくて! 自重しなさい、私!)
シャルミーヌは否が応でも高ぶる胸を押さえつけ、平常心を装いながら彼に声をかけた。
「お……おはよう、アル。早いわね」
その声を聞き視界に彼女の姿を認めた途端、アルドリックの瞳にカッと情熱的な火が灯る。
「ああ、シャルミーヌ! 今日の君はまるで、咲いたばかりの可憐な花のようだ!」
「え、ええ、ありがとう。でも声が大きいわ。少し声量を下げて――」
「無理だ! いつもの君は女神のように神々しく美しいが、今の君は妖精のように愛らしい。ああ、君を見つめるだけで心臓はこれほどまでに激しく波打つ……」
アルドリックは胸元を押さえ、右手を彼女に差し出した。
「聞こえるか、シャルミーヌ! 俺の胸の奥で暴れるこの鼓動が!」
「聞こえないし聞きたくないからとりあえず落ち着いてちょうだい!」
その声は甘く切実で、もしこれを正気の状態で言われていたら彼女は今頃気絶していただろう。
だが、これはあくまで魅了による一時的な狂気状態なのだ。
彼女は恥ずかしさで爆発しそうになる頭を抱えながら、彼を急かすようにして屋敷を後にした。
王都の華やかな街並みを抜け、古い石材の匂いが漂う下町へと向かう。
約一時間ほど歩いて二人が辿り着いたのは、時計塔の影にひっそりと構える魔道具店――『落日の処方箋』であった。
「……ここ、本当にお店なのよね?」
シャルミーヌは今にも崩れそうな扉を恐る恐るノックし、重い音を立てて押し開ける。
外観こそボロボロだったが、店内は意外にも整っていた。
棚には色とりどりの液体の入った硝子瓶や魔導書が並び、中央のケースには魔石をあしらった大小様々な装身具が綺麗に陳列されている。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
呼びかけに応じ、カウンター奥のドアがギィと嫌な音を立てて開く。
現れたのは、一週間は寝ていないのではないかというほど深い隈を湛えた男だ。
紫色の長髪を無造作に後ろで束ねたその姿は、お世辞にも健康的とは言い難い。
「……いらっしゃい。不運な迷い子か、ただの物好きか。どちらにせよこんなところまでようこそ」
男はけだるそうにカウンターへ腰を下ろし、シャルミーヌへ胡乱な視線を投げた。
「あなたがエドヴァルドさんね。カシウス殿下から聞いて伺ったわ」
「ああ……あいつの紹介か。今度はどこのお貴族様なんだか」
彼は不機嫌そうに鼻を鳴らしながら差し出された紹介状を一瞥し、興味なさげに放り出した。
「ふうん、固着ね。……で、魅了にかかっているのはそっちの坊主か?」
エドヴァルドは道端の石を見るような目で、アルドリックを指差した。彼は警戒心を露にしながら無言で店主を睨んでいる。
「ええ、そうよ。とりあえず、まずは本当に固着状態なのか診てほしいの」
「へいへい。ま、詳しく調べなくてもそれっぽくはあるがね……」
エドヴァルドはやれやれと重い腰を上げると、カウンター下から眼鏡型の魔道具を取り出した。それをかけ、指先でフレームをなぞりながら短く詠唱する。
「<走査>」
青白い光が二人を包み込む。エドヴァルドは眼鏡越しに見える魔力回路をまじまじと観察しながら、溜息をついた。
「……案の定、完全に固着してやがるな。残念だがお嬢さん、こいつは一生このままだ」
エドヴァルドは魔道具を外してカウンターの上に置くと、つまらなそうに頬杖をついた。
「そんな……! 何か、固着状態を強制的に解除する方法とか、魅了魔法を打ち消す薬とかはないの?」
「無理だな。固着した魅了ってのは厄介なんだ」
エドヴァルトは淡々と説明を続ける。
「こいつの本来の感情に、お嬢さんの魔法が複雑に絡みついてる。無理に剥がそうとすればこいつの精神が崩壊するだろうよ。ただの廃人になるか、運が良くて幼児退行だ。……それでもよけりゃ強制解除してやろうか?」
シャルミーヌの顔から、一気に血の気が引いていく。
アルドリックがばぶーと言いながらおしゃぶりを咥えている姿を一瞬想像してしまい、彼女はそれを振り払うようにぶんぶんと激しく首を振った。
「そんなの絶対にダメに決まってるでしょう!」
「……愛する君の手で魂が壊れるというのなら、それもまた一つの愛じゃないか?」
「アル、馬鹿なこと言わないで!」
シャルミーヌの鋭いツッコミが飛ぶ。エドヴァルドはそれを見ながら、肩を竦めて雑に結論を出した。
「まあ、死ぬわけじゃない。いっそ自然に解けるのを願って、このまま放置するのも手じゃないかね」
その言葉にシャルミーヌは思考を巡らせた。
放置する。つまり今の状態のまま日常生活を送るということだ。
(もし、このままアルを放置したら……?)
朝。登校するなり足元に跪かれ、言葉の限りを尽くして褒め称えられる。
昼。お茶を楽しんでいれば「君に食べられ一つになるそのスコーンに嫉妬しそうだ。代わってくれ」と迫られる。
夜。舞踏会に参加すれば、近づく男全てを「俺の女神に触れる不届き者は許さない」と排除しようとする。
そんな地獄のような毎日が卒業まで……いや、下手したら一生続くのだ。
「放置なんて絶対に駄目! 色んな意味で私の精神が持たないわ!」
シャルミーヌは食い気味に叫んだ。
エドヴァルドはその必死すぎる剣幕に少したじろいだが、すぐに投げやりに言い捨てる。
「壊すのもダメ、放置するのもダメ。じゃあ詰みだな、打つ手なしだ」
「いいえ、一つだけ可能性があるわ。ねえ、エドヴァルドさん」
シャルミーヌは、意を決してカウンターに両手を置いた。
できれば避けたかった方法ではあったが、専門家ですら解除できないと匙を投げるのならばもうこれしか方法はない。
「強制的に解除するのが難しいのなら……魅了魔法を解除できるくらい、彼に嫌われる方法はないかしら?」




