57話 ごめんなさい
『悪いことをしたら、謝らなきゃダメだよ』
母の声が、聞こえる。
これは母の口癖だった。
そうだ。
あの日も、その言葉を聞いた。
母さん。
父さん。
兄さん。
俺が、あいつらに教えてやるから。
悪いことをしたら、報いを受けるべきだってことを。
「う、うう──」
平和で、閑静な住宅街。
その中の家の一つで、今まさに少年は泣き出そうとしていた。
「うわぁぁぁあああん!」
爆発する感情。
大きな声で泣き喚く少年。
その手には壊れたおもちゃが握られている。
それは、少年がこの前五歳の誕生日を迎えた時に買ってもらったものだ。
少年の傍らには、もう一人の少年が困り顔で佇んでいる。
泣いている少年の兄だろうか。
八歳くらいのその少年の手には、壊れたおもちゃの破片が握られている。
泣き声を聞き付けたのか、スリッパをパタパタと鳴らして一人の女性が現れる。
二人の少年の母親だ。
母親は困ったような顔をして二人を見ると口を開いた。
「かーくん、みーくん、どうしたの?」
「違うんだ! 僕は、わざとじゃないのに──」
母親の言葉に、ばつが悪そうな顔をして言葉を並べる兄。
「かーくん」
母親はそっと兄の肩に手を添える。
そして優しい口調で言った。
「何があったか話して?」
「──僕が、みーくんのおもちゃを壊しちゃって、それで……」
そっぽを向いて答える兄。
「そっか」
母親は頷くと兄の顔を見る。
「かーくん、こんな時は、どうすればいいか分かる?」
「で、でも、僕、わざとじゃない……!」
口を曲げて言う兄。
だが、母親は首を振って言う。
「だめ。悪いことをしたら、ちゃんと謝らなきゃ。でしょ?」
その優しく、しかししっかりとした声に渋々と頷く兄。
「みーくん」
母親は、今度は泣き続けている弟に顔を向ける。
そして、優しく笑い掛ける。
「ほら、泣かないで」
「う、うん──」
涙を拭って頷く弟。
そして母親は兄の背をそっと押す。
兄は弟の前に立つと、口を開く。
「みーくん、おもちゃ壊して、ごめん……」
口を引き結んで弟に謝る兄。
弟はおずおずと頷いて兄の謝罪を受け入れる。
「二人とも、よくできました」
母親は頷いて二人の頭を撫でる。
「さ、じゃあ次から仲よく遊べるね?」
「「うん」」
母親の言葉に頷く二人の少年。
「よし」
もう一度二人の頭を撫でる母親。
そして立ち上がろとする。
しかし、それは途中で止まる。
首を傾げる母親。
少しして、階段を慌ただしく上る音が兄弟の耳にも届く
そして、勢いよく開かれる部屋の扉。
そこには、血相を変えた父親が立っていた。
普段は温厚な父。
こんな顔をするのは珍しい。
父親は母親を手招きすると、その耳に何かを囁き掛ける。
それを聞き、徐々に表情を硬くする母親。
やがて話が終わったのか、頷き合う二人。
父親は兄の手を引いて部屋を出ていく。
あとに残された弟と母親。
母親は安心させるように少年に笑い掛ける。
「ね、みーくん、今からみんなでかくれんぼしようか」
「──うん!」
母親の言葉に元気よく頷く少年。
「じゃあ、みーくんはここに隠れていてね」
母親が指差したのはベッドの下にある空間だった。
「うん、わかった」
真剣な顔で頷く少年。
その頭を優しく撫でる母親。
いそいそとベッドの下に入り込む少年。
その少年に、母親が声を掛ける。
「みーくん、いい? お母さんが『いいよ』って言うまで出てきちゃダメだよ」
「うん!」
少年は勢いよく頷く。
母親は微かに笑って部屋を出ていく。
それからしばらくして。
下からなにやら騒がしい音が聞こえてくる。
大きな声も聞こえてくる。
段々と怖くなってくる少年。
隠れ場所から出ようとして、母親との約束を思い出す。
ずっと持っていた壊れたおもちゃを、ぎゅっと握り締める。
不意に乾いた破裂音が二つ響いた。
その大きな音に少年の耳はジーンと痺れる。
その音を最後に、物音は聞こえなくなった。
それからどれくらい経っただろうか。
「お父さん……?」
少年は堪え切れなくなって、そっと声を出す。
「お母さん……?」
しかし、その声に返事はない。
少年はベッドの下から出ようとする。
そして、母親との約束を思い出す。
しばらく逡巡した後、ベッドの下から這い出る少年。
部屋の扉を開けて外に出る。
廊下を歩き、階段を下る。
一階に着くと少年は辺りを見渡す。
その少年の目に、リビングの扉から伸びる一本の腕が映る。
力なく床に落ちるその腕は、紛れもなく少年の母親のものだった。
「お母さん……?」
母親の名を呼び、そちらに向かう少年。
そして、リビングの中を覗き込む。
中の光景を見て、少年は硬直した。
少年の目に映る深紅の水溜り。
そして、その中に倒れ伏す両親の姿。
少年は、目の前の光景を瞬時には理解できなかった。
まるで宙に浮いているかのように足元がおぼつかない。
むせ返るような濃厚な血の臭いが、少年の頭を痺れさせる。
部屋の入り口の近くに広がる、おびただしい量の血の池。
少年の両親は、そこに並んで倒れていた。
少年の目に両親の姿が飛び込んでくる。
父親の、大きな手。
その手で、何度も優しく撫でてもらった。
母親の、細い腕。
その腕で、数えきれないくらい抱き締めてもらった。
少年の脳裏には両親との思い出が浮かんでは消えていった。
少年は今理解した。
両親が自分を残して死んでしまったことを。
「……うっ、う」
少年の目に涙が浮かび上がる。
「うわぁぁぁあああああああああああああああああっっ!!」
少年は膝をついて絶叫した。
声の限りに泣き声を張り上げる。
あの優しい両親が、死んだ。
まるで心に大きな穴が空いたようだった。
少年はその見えない大穴を塞ぐかのように、胸の前で両手を握り締める。
しかし、両親を失った悲しみはそんなものでは埋らない。
少年は体を折り曲げ、更に泣き声を強める。
少年はいつまでも慟哭を上げていた。
──そこで、ハッと目を覚ます。
頬を伝う涙。
汗でびっしょりと濡れた服。
荒い息を吐く少年。
ぎゅっと、胸を押さえる。
また、この夢だ。
何度も、何度も繰り返されるあの日の光景。
忘れはしない。
ぐっと手を握り締める少年。
その手に、銀色に光る銃が現れる。
銃を見つめる少年。
お父さん。
お母さん。
かーくん。
僕が、教えてやるから。
悪いことをしたら、謝らなくちゃいけないんだ。
報いを、受けなくてはいけないんだ。
だから、──だから。
ごめんなさい。
あの日、何も出来なかった僕を、どうか許して。
ごめんなさい。
悪いことをした僕を、許して。
ごめんなさい。
許してください。
そんな風に。
何度も何度も。
充は、謝り続けた。
このお話で第二章はおしまいです。




