第三十五話 誘惑
「絶対おかしいよ、どうして自分が振られなきゃなんねーんだ、あんな女に!」
「まあまあ、落ち着きなって」
ドーテーくんは明らかに機嫌が悪かった。
彼らはディーの横たわる台の側に立って解剖を始めたようだが、あたしの位置からはその姿を視認出来ない。
でも、彼の怒りの凄まじさは、怒鳴り声を張り上げ、舌打ちを繰り返し、台を蹴りつけたりすることで、あたしにも十分伝わってきた。
もう一人の医学生との話を総合すると、どうやら今日、ドーテーくんは遂に宿願の筆おろしにトライすることと相成ったのだが、どうも彼女に触れただけで達しちゃったらしく、イライラしてつい彼女に怒鳴ってしまい、その場で別れるはめになったらしい。ま、そりゃ不機嫌になるわな。
というわけで、電話を受けた友達が、彼を飲みにつれて行ってなだめていたのだが、失恋と屈辱と絶望の痛手はまったく消え去らず、じゃあ明日諮問もあることだし、頭を冷やすのも兼ねて解剖実習室に予習しに行こうじゃないか、という話になったらしい。
まったく話の流れが理解できないが、大学生というものの思考回路はしばしば理解不能だということを本で学んだので、まあこういうこともありなんだろうか。
「ていうか、やっぱお前がくれた薬って全然効かねーよ!
確かに最初は効果あった気もしたけど、実践になるとこの様じゃないか!」
「うーん、まあまだ使って数週間だし、もっと増やした方がよかったのかもね。ま、また機会がきっとあるよ。そんなことよりほら、周囲を見てみろよ」
もう一人の医学生の涼しげな声が、あたしの頭側から響いてくる。
その声になんだか底知れない邪悪な含みを感じて、言い知れぬ不安の念が頭をもたげる。
「見てみろよったって、ムラージュどもが転がってるだけじゃねーか、馬鹿馬鹿しい」
「分かってないなあ、何故僕がマスターキーまでちょろまかして、こんな夜に君をここに誘ったと思ってるんだい?
ここには君の練習台がよりどりみどりじゃないか!」
「ま、まさかお前……バカな、そんなこと出来るわけが……」
怒りの色しか迸ってなかったドーテーくんの口調が変わる。相方の悪魔的思考にようやく思い至ったらしい。
かくいうあたしも、その恐ろしい考えを知って、恐怖で凍り付きそうになった。
「何故出来るわけがないと? 彼ら彼女らの肉体が普通の人間となんら変わらないのは、解剖している僕たちが一番よく理解していることだろ?
つまりはアッチの機能も同様ってわけだ。
こいつらは別に死んじゃいないし、なんたって再生能力が早いんだから、何もばれやしないよ。何、ばれたっていくらでもごまかせる。
どうだい、僕の友達思いな心を分かってくれたかな?」
「し、しかし、噂では、ムラージュどもは……」
そこからはドーテーくんがやや小声になったため、あたしにはうまく聞き取れなかった。
もっともあたしの耳も、今の信じ難い発言を頭から追い出したくて、会話が耳に入らない状態だったのかもしれない。
「なんだ、そんなことか。ハハハハハ、さすがドーテーくんは心配性だなあ!」
悪魔があざけりの念も隠さず、高らかに哄笑する。
ひとしきり笑い終えると、さっそく彼は弁舌を再開した。
「そんなの見ただけでわかるだろ、大丈夫かどうかなんて。
少なくともこの金髪と、向かいの赤髪は大丈夫だ。
僕はこう見えても産婦人科に詳しくてね、ま、趣味で勉強してるだけだけどさ」
「この金髪と、向かいの赤髪」って、ディーとあたしのこと?
あたしはともあれば思考停止しそうになる脳髄に勇気を振り絞り、今の発言を反芻する。
これは、ひょっとしなくても、かなりまずい状況なのでは……!?
「そうか、やっても大丈夫か……」
ドーテーくんの心が台風の日の柳のように揺れている。
しかしもう陥落寸前だろう。声音がやけに醜悪なものと化している。
感情があるとはこんなにも厄介なことだったのか。
あたしはギュッと目をつぶって、せめて眠りの世界に逃げ込もうとした。




