第二十三話 矢田 香良洲
「ちゃんと普通に喋れるじゃないですか、矢田さん……」
僕はお姫様抱っこ(?)されながら、恨みがましく呟く。
「ご、ご老人に対してだけですちゃ!」
彼はぜーぜー息をしながら、かろうじて答える。
あっという間に2階の、物置、じゃなかった楓言うところの「薬剤庫」に辿り着いた。
「おわ、若いたーた……おねえちゃんって意味やけど、それは苦手なんやちゃ。
あんの所長みたいにきかんし、しょわしないし、いじくらしいんやわ。それに比べて、お年寄りは優しうて、あいそらしくて、気が休まるわ」
「はぁ……半分くらいしか理解できないけど、要するに若い女性は恐いけど、お年寄りは優しいから好きだってことですか?」
「ま、そうやちゃね」
彼は話しながら「薬剤庫」のドアを開けて滑り込むように入ると、肘ですばやく電気のスイッチを押した。雑多な荷物とともに、銀色の棚がいくつか並んでいる。
「必要なのは……えーっとクエチアピン100mg錠を2週間分、ですか」
僕は、自分と一緒に彼に抱かれている処方箋に素早く目を通す。
「でしたらあの真ん中の棚の、カ行のところを調べて下さい。たぶんシートで入っていますから。
必要分だけ抜き取った後、あそこの処方袋に患者の氏名と用法と日数を書いて、薬を入れて下さい。大丈夫、5分もあれば出来ますよ」
僕が指示を出すや否や、彼は急に押し黙り、僕を床に下すと、棚を一瞥しただけで電光石火の動きで左手を振るって黄色い薬を取り出し、名前とミリ数を確認しつつ、ミミズののたくったような字だけどいつの間にか記入をすませた処方袋に薬を放り込むと、また僕を抱きかかえ、再び肘で電気を消して、真っ逆さまに落ちていくように、階段を駆け下りて行った。
その間約20秒。
「す、凄いじゃないですか!」
「ばばばっ!」
冷気に満ちた廊下を変な叫び声を上げながら走り抜け、彼は息も絶え絶えに診察室に駆け込んだ。
「むむ、滑り込みセーフだ。本当に40秒ジャストでやりおったな」
ようやく楓の顔に笑顔が戻る。彼女は薬の袋を彼から引っ手繰ると、中身を確認し、老婆に手渡した。
最早タオルケットを巻いていない僕は、やや居心地が悪かったが、老婆は薬を受け取りつつも、熱気で上気している矢田に見とれているようで、誰も突っ込まないのでよしとした。
「では、お大事に」
最後は和やかに診察を終え、矢田に老婆たちを見送らせると、楓はようやく緊張がほぐれたのか、「うーん」と大きな伸びをした。
「やれやれ、朝から大変だったな」
「でも、無事済んで良かったですよ」
「そうだな、しかし、本当にお前がいてくれて助かったぞ。あの一言がなければ、もう少し長引くところだった」
楓は唇を「ク・ス・リ」の形に艶めかしく動かす。
「いえ、あれくらい、楓にもすぐ気が付いたはずです。あの時吉村氏の奥さんがうるさかったから、急には思いつかなかっただけですよ」
「だが、それは医者として不合格なんだよ。医者はいついかなる時も、患者の悩み、問題点、症状に対応できなければいけない。
俺は部屋が満床なのでなんとか穏便にお断り出来ないものかと、そんなことばかり考えて、所長としての方にのみ頭が動いており、医者として機能していなかった。
そこをお前がサポートしてくれたってわけだ。やっぱりお前は無能なんかじゃない、十分すぎるほど役立ってくれているよ」
「そ、そんな……」
やけに優しい楓の言葉に、僕は昨晩よりも顔を真っ赤にして、俯いた。楓はそんな僕の頭を、よしよしと撫でてくれた。
「ま、俺も普段はえらそうなことばかり言っているけど、しょせんまだまだってことだ。
この薬を適当に出しまくった香坂先生や、入所を断りまくる他の施設の経営者と、大した違いはないんだよ。
まったく無力さを味わわされることばかりだ。こんな俺が、国が救ってくれない者を救うためだなんて、とても恥ずかしくて言っちゃ駄目だよな……」
いつも無駄に自信に満ち溢れている楓が、なんだかやけに弱気になっている。
僕はなんとか言わなければと必死に考えるも、焦るばかりでなかなか言葉にならなかった。
「しかし矢田のやつ、40秒以内に持ってくるとはなかなかやるな。お前、大分手助けしたのか?」
「い、いえ、普通に薬の場所を教えただけですよ」
急に話題がモジャ公に変わったため、若干動揺する。確かにあれはつい見とれるほど見事な腕前だった。
「あいつにはあまり気を許すなよ。何かあるかもしれん……」
楓が声を潜め、外に聞こえないように囁く。ど、どういう意味だ?
その時、ドゴォーンという凄まじい音が外から響き、診察室を地震のような揺れが襲った。
「な、なんだ一体!?」
「む、むぎゅー!」
とっさに僕にしがみ付いてくる楓。身体にパリパリの白衣が当たって少々痛い僕は、本能的に逃れようとするも、襲いくる衝撃に、うまく身体が動かせず、結局なすがままだった。
「こ、交通事故やちゃ! 助けてくれまいや!」
診察室に再び矢田が飛び込んできた瞬間、見事な早業で楓はぱっと僕から離れ、居住まいを正した。
「交通事故だと? どういうことだ!?」
「あれ、所長、お顔がまっかちんちんやぜ?」
「ち……ってお前さっきからわざと言ってないか!?」
「それどころじゃないでしょう!」
僕の怒鳴り声に、さすがの二人もハッと気付き、「とにかく外へ!」と駆け出していく。
言いようのない不安に襲われた僕も、何の役に立たないかもしれないとは思いつつも、ナメクジのように廊下を這っていく。
床板は相変わらず氷のようだったが、僕の身体は所長の体温がしみ込んでいるのか、やけにほかほかして、むしろ冷たさが少し心地よかった。




