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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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芦のふしの間

 ついにあの人は私に別れを告げた。おそらくそれは私のついた嘘のせいだろう。

 そうは分かっている物の、やはりあの人は冷たいと思う。せめて最後にほんの僅かにあの人の姿を見る事も……難波潟なにわがたを縁取るように生えている芦のふしとふしの僅かな間のように短い時間さえも、私と逢ってはくださらないなんて。

 あんなにやさしく、熱い言葉をかけて下さった人が、心冷めるとほんの少しの弁明を聞く気も失せてしまわれるなんて。男君おとこぎみの御心と言うのは本当に女には推し量ることができない。


『逢えない』


 想いあまってあの人に書いた手紙の返事は、たった一言これだけだった。恋の終わりなどこのような物かもしれないが、あの人には女が自分から男君に文を書くのがどれほど苦しい事かなんて、想像して下さらないらしい。それとも相手が私だからなのだろうか?

 そんな事を考えると、余計に苦しみが増してしまう。


「ああ、そこの美しい方。我が主人が宮様にご挨拶に伺いたいそうなので、お伺いを立ててはいただけませんか? こちらの文を宮様に渡して頂きたいのです」


 声をかけられてはっとする。そうだ、今は自分の嘆きを気にしていてはいけない。皇子様の御前近くに控えている身なのだから。


「まあ、中納言様の所の。ええ、すぐにお渡しいたしますわ」


 私は要件を詳しく聞き、手紙を受け取った。そして御前に向かう。

 ここは帝のすぐ下の弟皇子様、二ノ宮様のお暮しになられている邸。私はそこで宮仕えをしている。


 この皇子様はちょっとばかり不遇な身の上であらせられる。本来なら今の帝の次の弟君でいらっしゃるので、この方は東宮(皇太子)として立太子されるべきお方だった。

 しかし二ノ宮様は帝をお支えしている関白殿と相性が良くは無い。関白殿は大変な権勢を誇られておいでで、今の世は関白殿の思う通りにならぬことなど無いと言われている。関白殿は御自分の娘の姫君をさらに下の三ノ宮様の女御(妻)に差し上げているので、その女御様をいずれ中宮(皇后)の身の上にさせるべく、二ノ宮様を押しのけて三ノ宮様を東宮として立太子させた。だから私のお仕えする二ノ宮様は世の人々から少し忘れられたかのように扱われている。


 それでもこのところ二ノ宮様に御挨拶を求める人が増えてきた。なんだか人々の様子がそわそわしている。今は師走で御仏名おぶつみょうという仏事も近い。このように客人が多くなっているのは正月が近いせいかもしれない。これまで宮家でありながらひっそりとした風情だったこの邸が華やぎ始めているので、ここに仕えている人々はそれをとても喜んでいる。沈んでいるのは恋を失った私くらいなものだろう。


 そもそもは私が仕える先を偽った事がいけなかった。仕える主人を裏切るような行為だった。これはその罰なのかもしれないが、恋の罰がこれほど苦しい物とは思わなかった。私は自分の浅はかさを呪うばかりだ。

 あの方との出会いは宮中であった。それも今となっては悔やまれる一因になってしまったが。


 その日は新嘗祭にいなめさいで、私達は宮様の御供をして久しぶりに御所に上がっていた。私は東宮様にお仕えしている女官に友人がいたので、時間を見つけてその友人と会っておしゃべりに興じていた。そこにあの方が声をかけて来たのだった。

 東宮の御座所に近い場所だったので、あの方は私を東宮様に仕えていると誤解をなさっていた。私は自分の事をつらつらと話すのは見苦しいと思ったし、こんな通りすがりの会話に深い意味は無いと思ってそのまま誤解を解かずにいた。宮様には申し訳ないが不遇な宮様に仕えていると知れるより、華やかにときめかれている東宮様に仕えているという事にした方が、その時は私は気分が良かったのだ。それが私達の別れの引き金になるとも思わずに。


 そもそも私はその方に見染められるとは思っていなかった。その方は関白殿からの御寵愛の深い、御身分のとても良い方だったから。私の事などほんの行きずりでからかわれただけだと思っていた。宮仕えしていてもそんな華やかな事のない生活ばかり送っていたので、文が届いた時も女の憧れのおこぼれが僅かに降り注いだだけで、それが恋になるとは思っていなかった。

 その時私はちょうど里下がり(実家に戻る休暇)の頃だったので、社交辞令のつもりで「これこれのやしきにいます」と文に書き添えた。それがきっかけとなって私はその方の恋人になってしまった。


 それからは夢のように楽しい日々を送った。あの方は私と宮中で逢う事をためらっていた。きっと、宮中に他の多くの恋人を持っていらっしゃるのだと思う。そのくらいあの方はきらびやかなお立場の方だった。だから私達の逢瀬はいつも私が里下がりした時だった。文はよく御所に使いに出している私の使う女童めのわらわ(小間使いの少女)が東宮に勤める友人を介して受け取っていた。そして慣れると直接女童が受け取るようになっていた。

 あの人は私が東宮勤めをしていると誤解されたまま、私と逢い続けていた。私は恋に夢中で勤め先を偽っていることなど大した問題ではないように思っていた。


 しかし、ついに私が東宮勤めではない事があの方に知られてしまった。あの方は私の所に突然現れなくなった。里下がりを知らせても、いくら待っても何の音沙汰も無い。不安になって友人に聞くと、私が二ノ宮様に仕えていると知って大変驚かれていたと教えてくれた。

 その友人もなんだか急に忙しくなったようで、文なども途絶えがちになっていたところだった。私はあの方がそんなに急に御心を冷ましてしまった事に気がつかなかった。今に文が来るだろう。なぜこんな誤解が生まれたのかと尋ねて下さるだろう。そうしたら一部始終を打ち明けて、あの方に理解して頂けばいいと私は単純に考えていた。それほど私はこの恋に夢中だったのだ。


 その考えは甘かった。あの方からは何の連絡も無かったのだ。私は思いあまって文を書いた。こういう時に女の方から文を贈るなんて、はしたなくもあり、情けなくもあった。しかしそれほどまでに私は追い詰められていたのだ。

 文も人から人へと渡されるものだから誰の目に留まるとも分からない。女の方から懇願の文を書くこと自体が恥なのだ。とても詳細は書けない。


『ほんのわずかの間でも逢って頂けませんか。騙すつもりではありません。誤解なのです』


 それなのにあの方から来た返事は『逢えない』のたった一言だけ。こんなにも恋と言うのはあっけなく終わるものなのかと、私は呆然とする思いだった。

 私は恋の痛手の真っ最中にいるが、このところこの邸は客が来たり問い合わせが多く来たりと忙しい。その忙しさが私をかろうじて失恋の苦しみから救ってくれている。


「有り難う御座います。今後はこちらに伺う事が増えると思いますので、私の事も主人ともどもお見知りおき下さい」


 取り次ぎを済ませると従者はそんな言葉を残して行く。これまでそのような事など無かったのだが。



 ところが、突然世の中が急変した。あんまり突然過ぎて人々が皆浮足立ってしまうほどに。

 

 帝がほんの軽い病に罹られたと思ったら、急に御退位されてしまったのだ。いや、急だと思っていたのは内裏だいりの外の人間だけで、内裏の内では盛んに噂されていたらしい。帝と関白殿の関係が最近悪化する一方だったと。表向きの理由は帝の御病気と言う事になってはいるが、実際は関白殿が帝に御退位を迫られたのだとか。信じられないことに本当に帝は御退位され、仏門に入道してしまわれた。


 それでも次の帝には東宮様がおられるから、何も問題は無いはずだった。だが、東宮様までもが帝の地位につくことを御辞退された。関白殿と東宮様の関係は悪くないはずなのになぜ……と、人々は不思議に思っていた。


 答えはすぐに出た。関白殿の上の姫君は東宮様と長く寄り添われているが、いまだにお子様が生まれずにいた。そのうちに下の妹姫がお年頃を迎えられた。関白殿は妹姫を女御になさり、皇子を生んでいただくように打診したが、東宮様はきっぱりと御断りになられたという。


 東宮様は大変意志の強い方なのだ。御退位された帝のように関白殿のいいなりにはなられなかった。これでは今の帝の女御様が中宮におなりになっても、国母こくも(帝の母親)となられる可能性は少ない。しかもこの東宮様の御性格では関白殿は思うように世を動かしにくくなってしまう。関白殿は東宮様を御不快に思われた。


 この事があってから内裏の人々は関白殿の顔色をうかがって、誰も東宮様の言う事に耳を傾けなくなったという。実際に世を動かしているのは関白殿なのだ。味方を失った東宮様はお涙のうちに次の帝の地位を御辞退なさり、仏門に入り世をお捨てになられた。しかも関白殿は女御様の妹姫を二ノ宮様に差し上げた。関白殿は自分の思うままにならない東宮様をお見捨てになって二ノ宮様を新帝に、妹姫を中宮として子を生んでいただき、より盤石な権勢を手に入れることにしたのだ。


 私のあの人は関白殿にお目にかけていただいていたとはいえ、若い時から帝の御友人のように慣れ親しみ、帝や東宮様への思い入れが深かった。今度の一件に耐えきれず、帝や東宮様御同様に世を捨て僧籍に入ってしまった。


 このような大変な変事にもかかわらず、私達はこの事にギリギリまで気がつかなかった。きっと帝側の人や東宮側の人たちが二ノ宮家に知られないようにと骨を折っていたのだろう。あまりの事の急変に私は初めは呆然とするばかりで頭が働かずにいたのだが、あの方が世を捨てられたと聞いて初めて自分の感情が戻ってきた。

 今でも恋しいあの方が捨てた現世に私がどうして生きて行けようか。あの方がいない世になど未練は無い。私も世を捨てて尼となってしまおう。


 私はそう考えたが、そこにあの方から文が届いた。驚いて開いてみると、


『まさかと思っていた事が現実となり、私は無念でいっぱいです。私の周りの人たちは皆、帝や東宮に仕えていたので世を捨ててしまいました。だが、あなただけは幸い二ノ宮様に仕えていらっしゃいました。あなたは私とはもう何の関わりもありませんから、二ノ宮様にお仕えするのに障りは無いはずです。このような突然な御世代わりとお身の上の急変に、二ノ宮様はさぞかし驚き戸惑われていることでしょう。関白殿は油断ならぬ御人です。どうかあなたは世を捨てたりせずに、二ノ宮様をお支え下さい。心優しいあなたなら出来る筈だ。あなたならきっと、宮中の新たな華として咲く事が出来ることでしょう』


 ……あの方は、御世代わりの騒動の中心近くにいらした。きっと以前からすべて知っておられたのだろう。その上で私が二ノ宮様に仕えていると知って、わざと私から遠ざかって行ったのだ。これからの二ノ宮様と私の事を思って。


 あの人は優しい人だった。優しくてかしこい人だった。

 けれど、女の身からすればやはり冷たい人だ。女にとってはどんな権威や政権よりも、恋に身を置く以上の戦いなど無い。命燃やすに相応しい場所は恋する人のもとなのに。それなのにあなたは私に宮中で、二ノ宮様の支えになれというのね。あなたとはこの生涯二度と逢う事も無く過ごせよと。


 いいわ。それをあなたが望むなら。私は恋しいあなたのために、その望みを叶えて見せましょう。あなたを誰よりも愛した女としての、誇りにかけて。


 

  難波なには潟みじかき芦のふしの間も

  逢はでこの世を過ぐしてよとや      伊勢いせ


 (難波潟の芦の節と節との間のようにほんの短い間も

  あなたとは逢わずに、生涯を過ごしてしまえとおっしゃるのでしょうか)





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