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短編集  百歌繚乱  作者: 貫雪(つらゆき)
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夢の通ひ路

 今日もあの方はおいでにならなかった。私に仕える人々は皆、


「もうこのような不実な方を頼られるより、お世話を申し出て下さっているおじ君を後ろ盾になさって、尼寺にお入りになられた方がよろしいと思いますよ」


 などと言う。


「だってあの方は美しく御権勢も高くていらっしゃる北の方(正妻)様よりも、わたくしの方を恋しく思っていると、確かにおっしゃったのです。そんな御心深い背の君を持っていながら、この邸を離れて尼になるなど、こちらの方が不実な行いをするも同然ではありませんか。わたくしは自分の連れ添う殿方をそんな風に裏切る真似など出来ません」


 私はそう言って決して首を縦に振ることは無い。おじ君からはこの邸に訪れるたびに再三、


「いつまでも若い姫君と言う訳ではないのだから、分別を持って、こちらの言う事を聞き分けていただきたい。今ならこの邸(やしき)も、手を加えて庭の情緒を楽しみたいというもの好き……、いや、ゴホン。趣味深い方がいらっしゃるのですから。ここはあなたも御両親と暮らされた思い出深い邸でしょう。このように荒れるに任せてしまっているよりも、そういう人に大切にしてもらった方が庭も美しくなり、あなたの暮らし向きもよくなって万事良い方向へ向かいますよ」


 と言われている。確かに今の私には、この邸を管理する財も無ければ力も無い。けれどもここは両親と暮らした思い出だけではない。あの方と契りを結び、共に幸せを分かち合った大切な邸なのだ。あの方もこの邸をとても気に入って下さっている。背の君(夫)の通う邸を、どうして人に預けることなど出来ようか?


「あなたは背の君とおっしゃるが、その方がこちらに通われなくなってから、もう五年もの月日が経っているではありませんか」


「まだ、五年よ! あの方はおっしゃったわ。幼い姫の御養育と言うのは親の責任が重いものだから、これからこちらには伺うのが難しくなる。だがそれは私の心からの事ではなく親としての務めだから、決して恨んだりなどして下さるなと。心の中の愛は決して失ったりはしないとわたくしに誓って下さったのです。きっとまだ、あの御言葉通りに親の務めに縛られるあまり、こちらに来る事が出来ずにおられるのだわ」


「しかし、その五年の間にあちらにはさらに三人のお子様がお生まれになっておりますし、他にも通うお邸にもお子様が生まれたと……」


「だからご多忙になって、こちらにはおいでになれずにいるのよ。あの方も本当は辛い思いをして耐えていらっしゃられるはずなのに、わたくしが裏切ったりすることはできません!」


「ですが、本当にあなた様の事を想って下さっておられるなら、文の一つくらいは贈って下さるのでは……」


「本当に苦しい想いと言うのは、文などに書きとどめる事が出来ないものです! 以前あの方からのお文が少なくなった時に、あの方はそうおっしゃって辛そうにしていました。わたくしもその気持ちが分かります。本当に辛い思いは文になど書けないものなのです」


「あなたがそう一途に想っていらしても、あちらは一向にあなた様を振り返る気配さえ無いではないですか。このままではお暮らしも立ち行かなくなりますよ。正直、ご両親もおらず、お世話をしていただけるほどの後ろ盾も無く、特に人より秀でた物があるわけでもないあなた様では、次の背の君を探すのも難しいのです。私も方々あてを探したのですが……」


 聞くに堪えない言葉に私はカッとなった。


「おじ君は勝手にわたくしを、他の男君と縁づける気でいらしたんですか? わたくしにはれっきとした背の君がおりますのに!」


「いや、背の君と言うにはあまりに……」


「もうっ! わたくしのことは放っておいて下さいまし! 右近! お客様がお帰りになるわっ! お見送りして差し上げて!」


 私は忌々しい思いでおじを邸から追い立てているというのに、私の乳姉妹(めのとご)の右近はおじに平身低頭で何やらいい訳をしている。おじはおじで、


「頑固にもほどがある。この先女お独りの身で、どうやってお暮しになるつもりなのか」


 などとブツブツ言っていた。それでも右近になだめられると鼻の下を伸ばして、


「また参りますから」


 なあんて言っている。そう、おじは私が心配なのではなく右近が目当てなのだ。私はそれを知っているから私をダシにして右近に近づいたり、私の持ち物であるこの邸を人に貸して、その儲けを自分のものにしようとしているおじのやり方が気に入らないのだ。


 右近は美人だ。私に使われている身と言う事でわざとかなり地味に装っているが、それでも豊かな黒髪や扇で隠した影からチラリと見える切れ長の目や長いまつげはパッと人の目を引く。

 私と共に邸の奥深くで育ったので、陽に晒されなかったその肌は白く美しい。物越しもしずしずとして万事に控えめで、傍付きの女房(にょうぼう)(侍女)の中では際立って美しかった。

 こんなに美しい右近なのに、いわゆる盛りの時期になってもとうとう結婚しなかった。彼女も私と同い年なのだから、そろそろ中年期に差し掛かっている。私の両親が亡くなり、背の君の訪れが途絶え、他の使用人達が少しづつ辞めていったにもかかわらず、右近だけは常に私の近くに仕えてくれている。


 私の両親が亡くなった時、他の使用人はそろって、


「こちらの姫君のお立場では、通っていただくのも難しくなるでしょうね」


 と、勝手な事を言っていた。さらに背の君の北の方に姫が生まれたと聞くと、


「こちらでも、せめてお子様でもお生まれならねえ」


 などと口々に言っていた。そしてそういう人たちはあれこれと口実をつけて邸を出て行った。そんな中でも右近だけは余計な事は何も言わずに、誠実に私に尽くしてくれている。


 皆は口々に我が背の君の事を悪く言うが、私は信じて待っている。なぜならあの人は私に約束してくれた。訪れる事が出来ない夜でも、私の夢の中に必ず通って来てくれると。

 そして約束通りあの人は、私の夢に毎夜のように現れてくれる。男らしいしっかりとした身体を美しい直衣に包んで、ゆったりとした袴を優雅に捌きながら私のもとへ真っ直ぐに向かって来てくれる。少しだけ丸いその顔には高い烏帽子が良く似合うのだ。


 夢の中で私は「住ノ江」の海岸近くの建物にいる。牛車の音が響くと、右近がいそいそと背の君を出迎えに行く。そして右近の笑顔と共に背の君が私のもとに来る。波の音を背に夏はホトトギスのさえずりと共に、秋は舞い散る紅葉の中を、冬には散りまどう粉雪を背に背の君は夢の中に現れる。そして、


「ほうら。約束した通り、あなたのもとへ訪れたでしょう?」


 と、あの優しい笑顔で語りかけてくれる。私は昼間の物思いなどいっぺんに忘れ、心が幸せな思いに満たされてしまう。そして彼は言う。


「あなたの御心さえ確かなら、この、夢の通い路が閉ざされることは無いでしょう」と。


 そうよ。私の心は変わらない。だから夢の通い路が閉じる事も無い。そしていつの日か、背の君は必ず私の前に現れて下さる。私はその日を待ち続けている。

 人々はすぐに、「御不便が」だの「お暮しが」だのと言うけれど、私はそんなことにはくじけない。たとえお父様から作って頂いた屏風や、お母様から譲っていただいた御道具などを、明日のお米のために人に譲ってしまっていても、そんな事は気にならなかった。



 夏のある日、にわかに空がかき曇り、雷が鳴り響くひどい天気になった。あまりに突然な天気の変わり様に、人々は雨から逃げ惑うように雨宿りを求めていた。

 そんな中で一台の牛車から我が邸に一時の雨宿りを乞う声があった。その主人の名を聞いて私達は胸をとどろかせる。あの、背の君の名を従者は告げたのだ!

 ついに……ついに背の君は帰って来てくれた! あの約束は今こそ果たされるのだ!


 私は急いで右近を出迎えに行かせた。右近も突然の事にうろたえているようだったが、見苦しくないように身なりも整えさせて、背の君を御案内するように言いつけた。そういう私も動揺しながらあたりを慌てて片付けさせたりしていたが。


「いらっしゃられました」


 そういう右近の声はなんだか呆然としていた。私も背の君を一目見て驚いた。


 そこにいたのは背の君の……なれの果て。逞しくもすらりとしていたその身は、見る影も無くでっぷりとムクムク太ってしまっている。烏帽子の似合う少し丸かった顔は、今やはち切れんばかりに丸く下膨れて、ふてぶてしい表情になっていた。動きもかつての優雅さは微塵も無く、広げた扇子でその辺の物を払いのけ、「どっこいしょ」と億劫そうにのそのそと座り込んだ。そして、


「ああ、ひどい雨だ。いやあ、この邸も懐かしいな。一体何年振りだろう? とっくに人に譲られてここは違う人の物になっているだろうと思っていたよ。今でもここにいるって事は、誰か通う男がいるんだろうね。でもずいぶん庭が荒れ放題だなあ。男に言ってちゃんと手入れをさせないと。男ってのは女が尻をひっぱたかないと、こういう事に出し惜しみしがちだからな」


 などと勝手に人の邸を批評している。そして失礼にも私に向かって、


「あなたもいい歳になったなあ。まあ、お互い様だが」


 と言いながら下品な笑い方をする。さらには右近に向かって、


「おや、右近は今でも美人なんだな。年のわりには老け込んでもいないじゃないか。ひょっとして今でも独り身でいるのかな? お前なら裕福な受領の妻くらいには、上手く収まると思っていたのに」


 などと言う。私はすっかり腹を立てて、


「出て行って!」


 の一言で、背の君も付き添う従者たちも皆、雨の中へと追い出した。背の君は驚いていたようだったが、私のあまりの剣幕になすすべもなく追い出されていった。


 もちろん私は傷ついた。だが、右近の事がもっと心配だった。右近も私に負けずに傷ついているだろうから。


「お方様。大丈夫でございますか? あれは……あれは何かの間違いですわ。あの方はお方様の背の君などでは」


「右近!」


 私は右近に抱きついた。そうせずにはいられなかった。


「右近……もういいのよ。五年前にあなたがこっそりと里下がりして産んだ子は、あの人の子なのでしょう? あの人は最初からわたくしよりも、あなたを目当てにこの邸に通っていたのでしょう? あなたもわたくしを支えるだけではなく、あの人が何か言ってくれるのを今まで待っていたのでしょう?」


「お方様。……お気づきになっていらっしゃったのですか?」


「わたくし達、同じ乳母(めのと)に育てられたんですもの。あなたは本当に幼い時から私と共にいてくれた。あなたの事ならわたくし、何でも分かっているわ。あの人に迫られてどれほど困ったか。あの人の子を宿してどれほど苦しんだか。子を宿したとたんにあの人が訪れなくなって、どれほど辛い思いをしたか……」


「申し訳……ございませんでした」


「謝らないで、右近。わたくしも甘かったの。あの人は私のもとに必ず来ると言った。いつかあの人もわたくしに正直に話してくれて、あなたとその子の面倒を見てくれると思っていたの。あるいはあなたもあの人をふっ切って、他の人と幸せになる道を選んでくれると思っていたの。でもあなたはわたくしと共にあの人を待っていた。だからわたくしもあなたと共にあの人が何か言って来て下さるのを待ちたかった。あの人の事だから口当たりの良い、思わず女が待っていずにはいられないようなことを言ったのでしょう? あなたの気持ちが分かるから、私もあの人を待ちたいと思ったの。あなたを男に捨てられるような人だと思いたくなくて」


「お方様がご存じだとも知らずに、私の身勝手な思いからお方様まで長い間巻き込んでしまったのですね」


「違うわ。わたくしも待ちたかったの。ううん。わたくし達が傷つけられたことを認めたくなかったんだわ。わたくしの心が弱かったの。でも、もう踏ん切りがついたわ。わたくし達、若かったのね。あんな愚かな男に何を求めていたのかしら? これでもうさっぱりした。わたくし、この邸を出るわ」


「お方様。よろしいんですか?」


「こんな所、うんざりよ。あんな男の思い出なんていらないわ。でも、おじにこの邸を預けたりもしない。ここはわたくしが自分で人に貸すわ。もう何もいらない。わたくしには右近、あなたがいれば十分よ。あなたはいつも「住ノ江」に寄せる波のように、わたくしに寄り添っていてくれたのだから。邸を貸して、道具は人に譲って、その財で「住ノ江」の小さな別荘を買いましょう。そこでつつましく静かに暮らしましょう。右近、ついて来てくれる?」


 私は恐る恐る聞いた。私があんな男を通い夫(づま)にしていなければ、この美しい人はこんな不幸な目に遭わなかったかもしれないのだ。


「私が波ならばお方様は私の入江でございます。波は必ず入江に帰る物でございますわ」


 私も右近の入り江であり続けたい。私は心の中の「夢の通ひ路」をそっと閉じた。


 もう私の夢にあの人が現れることはない。



  住の江の岸による波よるさへや

  夢の通ひ路(ぢ)人目(ひとめ)よくらむ  藤原敏行(ふじわらのとしゆき)


 (住の江の岸に「寄る」波ではないけれど

  暗い「夜」に夢の中で私のもとへ通う道でさえ

  あなたは人目を避けて出てきてはくれないのですね)





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