からくれなゐに
「本当に申し訳ございません。私達の下女への躾けがいたらないばかりに」
この邸の女主人である女君の乳母であり、この邸に召し使われる人々に指示を与える立場の「女房の長」でもある命婦は、深々と女君に頭を下げた。
「いいのよ。このいさかいはあなたのせいではないわ。それに皆よく働いてくれているのだもの。誰を咎める事も出来ないわ」
女君はそう言って大切に扱っている命婦を慰めた。
「お方様のお優しい御心は大変ありがたいのではございますが、皆、その優しさに甘えて調子に乗っているようです。今度ばかりはピシャリと言ってやらねばなりません。邸の中でこのような騒動が起きるなど、他に聞いた事も御座いませんわ。仮にも都人からは『龍田姫の化身』と呼ばれるお方様の御邸で下男と下女が争いごとを起こすなんて。こんな事がよそ様に知れたらお方様の御評判に傷がつきます」
女君の慰めの効果も空しく、命婦は憤慨している。
「落ちつきなさい、命婦。この程度で傷がつくようでは私の評判とやらも知れているわ。こんな些細ないさかいですもの。あの者たちも本気で争っている訳ではないわ。私は細かい注文が多いから、何かと大変な仕事の憂さを、こうして晴らしているのでしょう」
この女君、都では評判になっている方である。この方は御装束に並々ならぬ関心を持っていらして、何かの折に作らせる衣装が大変に優れていらっしゃった。
織物なども田舎の物で済ませることなく、本当に艶やかでなめらかな絹糸などを用意させ、信頼のおける機織り女に細やかに指示を与えながら織らせたりする。そしてご自分で染料を御調合して、納得のいく色合いまで丁寧に染め上げさせる。特に紅色の「くくり染め」と言われる糸を細かく丁寧に布にくくりつけて白く染め抜く「絞り染め」は、手間暇かけて細やかに、色の染めも幾度も繰り返して鮮やかに染められ、見る者の目を奪った。
そして軟らかくあるべき布はとても柔らかく、しなやかで深い艶が現れるまで丹念に砧を打たせる。張りのあるべき物はしっかりと生地を仕上げ、折目も正しく、縫い目も少しも曲がることなく真っ直ぐに美しく仕立てられている。そんな風に細やかに仕立てられた装束はとても美しく華やかで、着心地も軽く、その衣を着て立ち歩いたりなどすると、衣擦れの音も普通とは違って、まるで天女達が耳元でささやいているかのような音がするのだ。
そんな素晴らしい衣を、この君独特の感性でさまざまな色と組み合わせて重ねていくものだから、その衣装のきらびやかさ、見事さと言ったら、牛車の出だし車からこぼれ出た衣装の裳裾だけでも、人々の衆目を集めずにはいられないほどだ。
ましてこの方の婿君の御正月の御衣装など内裏の内でもひときわ目について、殿上人はもちろん、帝の女御(妻)様達でさえ羨んでいるという。
そういう方なのでこの方の御邸には機織り女や御針子を勤める、多くの下女たちが雇われている。ご自分も御裁縫が御得意でいらっしゃる女君が、ご自身の目に敵うと思われて雇った者たちだ。彼女たちも評判の高い方に選ばれて雇われ、信頼されている事は何よりの自慢であった。
しかもこの君は御気質も大変優しい方なので、良い仕事をすると下女でさえも、人づてとはいえお褒めの言葉をいただけた。それを知る皆が褒めていただこうと競い合うように仕事をこなすものだから、装束の出来栄えはますます良くなり、女君の評判も上がる一方である。秋になると龍田山を見事な錦の色に染め上げる、『龍田姫の化身』のような方だと都人は褒めそやしている。
そんな『龍田姫』の御装束作りを担っている下女たちは、その事が得意でならなかった。彼女達は邸を出た時には必ず人々に自慢する。
「あたいね。こう見えてもあの評判の『龍田姫』様の邸で御装束の仕立てをお手伝いさせていただいているんだ。あたいは寸分違わず、お言いつけ通りの仕事が出来るんでね。『龍田姫』様はあたいらの仕事をそりゃあ褒めて下さっているそうなんだ。まあ、こんなことあたいが言わなくても、あの方や殿さまの御装束をちらりとでも見れば、みんな分かるってもんだけどね」
男達はそんな彼女達を自分の「妻」にしたがった。何と言っても裁縫が上手い女は「妻」にすると重宝である。布というのはとても貴重なものだから衣なんかは出来るだけ長く着続けたい。裁縫が上手い女がいるとちょっとしたほころびなどはすぐに繕ってもらえるし、衣も長持ちする。
しかも装束が評判の女主人に仕えているのだから、腕は折り紙つきと言っていい。そういう邸なら与えられる手当の禄(報酬)も悪くは無い。
それに、そんな仕事をしているせいか女達は見た目も悪くなかった。下女らしく髪は短く切りそろえられ、それをいつも束ねているとはいえ、身分相応の衣に工夫を凝らし、薄い僅かな染料でも汚れが目立ちにくい染め方をし、継ぎのあて方も丁寧でさっぱりと小奇麗にしている。
重宝で稼ぎが良くて見栄えもいいのだ。男達はこぞって下女たちに言い寄っていた。
それは同じ邸に勤める下男たちも同じだった。出来る事ならこの邸の下女と上手い事「良い仲」になりたいと望んでいる。しかし下女たちは下男たちのそういう下心をよく知っている。邸を出れば他の男達が自分達をちやほやしてくれる。高貴な方の御装束を手掛ける自分達と違って邸の庭を這いずり回り、雑草なんかを引っこ抜いている下男たちは、彼女達にはどうにも野暮ったく見えてしまう。下男たちが彼女達に声をかけても、
「何よ。そんな汚れた姿で近づかないで。こっちは高貴なお方の大切な御装束を扱ってるんだから。汚れが移ったら困るじゃないの」
「何を言う。それは染め物に使う水を張った桶だろう? 重そうだから運んでやろうとしただけじゃないか」
「その桶の水が汚れるって言ってるの! 下男の癖に余計なことしないで!」
「何を! お前だってただの下女じゃないか!」
「ただの下女じゃないわ! 『龍田姫』様のお手伝いをしてるのよ!」
「自分だけのご主人様だと勘違いしているのか? 『龍田姫』様は俺達にとってもご主人様だ!」
「あんた達は庭を這いずり回ってばかりで、御装束の切れっぱしさえも扱わないじゃないの! あたい達の紅色のくくり染めは特別なんだ。唐渡りの素晴らしい紅を何度も何度もくぐらせて染めてるんだから。『龍田姫』様が可愛がって下さっているのは、あたい達の方よ!」
「お前らのどこが可愛いもんか! 何がくくり染めだ。旨い物を食わせてくれて、腹が膨れる飯炊き女達の方がよっぽど可愛くて役に立つぞ!」
こんな口論があちこちで繰り返されて、とうとう下男と下女たちは口もきかないようになってしまった。それがついに命婦の耳にまで届き、命婦は女君にお詫びを申し上げながら、下男と下女を叱る許しを得ようとしていたところだった。
「子供のような可愛らしい喧嘩ですもの。大袈裟に騒ぎ立てることは無いでしょう。でも、こんなことを邸の外でされたら困るわね。『落窪』や『光源氏』の葵祭りのいさかいではないけれど、気の逸った若者が邸の外で騒動を起こすというのは、昔から良くあることだと言うし」
「さようでございます。神代の昔から物語などはさまざまな戒めを伝えておりますが、そんな物語のように何処で遺恨を残さないとも限りません」
「ならば、皆に気晴らしをさせましょう。そろそろ紅葉が美しい頃。邸の者すべてを連れて、紅葉狩りに出かけましょう」
女君はそう言って、紅葉狩りの支度をさせた。晴れの行列なので、下女たちには当日着る邸の者たち全員の装束を作るように言いつけた。ところが下女たちは下男たちの衣だけは作らないと言い張った。
「お方様のお言いつけに背くとは。甘やかしすぎです。今度こそ叱ってやらないと」
「まあ、お待ちなさい。皆、意地っ張りなのですね」
女君はそう言ってにこやかに笑っていたが、それを知った下男たちはすっかりへそを曲げ、
「皆が新しい衣を着ている中で、古い衣で御供をするなんて出来るものか。俺達は邸に残らせていただきます」
と言いだした。それを聞かされた女君は、
「かまいませんよ。でも、今度用意するわたくしの装束は、いつも以上に良い絹を使い、金や銀を張った扇なども作らせるので、警護の侍はわたくしの車を特に守って頂かないと。下女たちにもこれまでの働きの御褒美に特別に良い衣を着せてやりたいけれど、男達の少ない行列にそんな姿の女達を徒歩で歩かせたら、どんな悪者が襲って来るやもしれませんね」
と言う。下女たちはこれを聞くと我慢できなくなった。身分の低い自分達がそんな素晴らしい衣を身にまとう事など、めったに無い名誉なのだ。
下男たちも放ってはおけない気になった。自分の邸の女達が危険にさらされた時に、その邸の男達が指をくわえて見ていたなどとは絶対に思われたくない。
先に折れたのは下女たちだった。
「あたいら、男達がどれだけ頼りになるか、ちっとも分かっていなかったわ。何よりこの邸の行列に邸の仲間が揃わないのは寂しいことだしね」
そう言って下女たちは心をこめて下男たちの衣を仕立て上げた。下男たちも、
「この邸では女達の評判ばかりが上がるものだから、つい、嫉妬しちまったようだ。男らしくなかったな。謝るよ」
と言って、下女たちの縫い上げた衣を受け取っていた。
そして行われた紅葉狩りの行列は、都人の目も眩ませるようなきらびやかさと、見事さであった。高貴な方の御装束はもちろん、徒歩でつき添う人々の衣装までもが素晴らしく、しばらく都の話題をさらったという。
千早ぶる神代もきかず龍田川
からくれなゐに水くくるとは 在原業平
(怒涛のように色々な事が起こっていたという神代の昔でさえ、聞いたことがない
龍田川の水が(散り落ちた紅葉で)このように紅色のしぼり染めのようになっているとは)




