過去の夢
遠い記憶だった。
何年経っても色褪せないまま心に残る癒え切らない最初の傷は、いまだこの身を縛り続ける楔として、深く刺さっている。
通い慣れたはずの道を駆け、血相を変えて息を切らし、成さねばならない仕事を放り出して家に戻ったレルムは勢いよく部屋のドアを開く。
――お帰りなさい。
そんな言葉が聞こえてくるような錯覚さえしてしまうほど、少し前まで当たり前のようにいつも見ていた部屋。
レルムがこの家に戻れなくなって、まだほんの半年しか経っていない。それでも、塵一つ落ちていない掃除の行き届いたこの部屋は、妻のために設えた部屋だった。
「リズリー!」
レルムは彼女の残り香が残るその部屋に入り、リズリーの姿を探した。
寝室も、衣装部屋も、バルコニーや中庭まで……。
「レ、レルム様。リズリー様は……」
この家の管理を任されている執事とメイドたちが狼狽しながら声をかけてくるが、彼らの姿と声は、今のレルムには入ってこなかった。
どこかに隠れているのかもしれない。
驚かそうとしているのかもしれない。
そんな淡い期待を消せず必死に部屋を見渡すが、彼女の姿はなく、代わりに気付いたのは一枚の手紙が置かれたテーブルだった。
レルムは一瞬息を呑んで僅かに目を開き、駆け寄って手紙の封を切る。
「……」
長く書き綴られた手紙。リズリーの残した文字の羅列を忙しなく追うレルムの視線は、やがて速度を落とし、茫然とした表情のまま手紙をクシャリと音を立てて固く握りしめた。
――私は、マージに行きます。
彼女の手紙の末尾は、そう締め括られていた。
「……なぜ」
レルムは眉根を寄せ苦し気に呟いた後、血が滲むほどきつく唇を噛んだ。
――どうして、その決断する前に話してくれなかったんだ。
手紙を握りしめている手が小刻みに震える。
――憎んでもいい。恨んでもいい。でも、その決断だけはしてほしくなかった……。
レルムはその場に膝を着いて頭を垂れ、言葉にならない感情に圧し潰されそうだった……。
***
人の気配を感じた。
眠りから目が覚めたレルムが薄く瞼を開き、傍らに座った人物の方へと僅かに顔を傾けると、そこにはデルフォス王国の王妃――ポルカの姿があった。
「陛……下?」
「ごめんなさいね。起こしてしまいましたか?」
静かな声で、柔らかな笑みを浮かべるポルカに、レルムは条件反射でその場に起き上がろうとした。だが、肩から鳩尾の辺りまで激痛が走り、息を詰めて顔を顰める。
見れば、肩から腹部にかけてまでしっかり巻かれた包帯には、薄っすらと広範囲に赤く血が滲んでいた。頭の芯がどこかボヤけ、重たく熱いのは外傷による熱が出ている。
「そのままで大丈夫ですよ。無理はしないで」
ポルカの許しを貰い、レルムは大人しくベッドに身を沈み込ませる。
「この度はご苦労様でしたね」
労いの言葉をかけてくるポルカの背後に、不安と安堵感を滲ませた王女――リリアナの姿が見える。
生まれて間もなく、十七年もの間行方不明になっていた彼女を連れ帰ったのは、つい最近のことだ。
ポルカと遠征先の話をしている間に、リリアナは居たたまれなくなったのか傍にあった水瓶を掴む。
「あ、あたし、水汲んできます!!」
そう言い残して部屋を後にした彼女の姿を、レルムは目線で追いかけた。
「落ち着きのない子ね」
リリアナを見送ったポルカはくすっと笑う。
我が子が戻ってきた安堵感からか、以前よりもその表情は穏やかなように見えた。
「リリアナ様は、村で自由に生きておられたようです」
「そのようね。あの子のことをまだよく知らないけれど、でも今のあの子の姿を見ているととっても元気を貰えるわ」
ポルカはそう言いながら視線を戻すと、にっこりと微笑む。
「あなたも、そうではなくて?」
その問いかけに、レルムは一瞬逡巡するように視界を外し、深いため息と共に軽く瞳を閉じた。
彼女が育った村からこの城まで、約二週間余りの長旅。その旅の中で見た彼女の存在は「村の太陽だった」と言った彼の育ての兄、ゲーリの言葉に深く同意できる。
「……そうですね」
「あの子はきっと、この国の太陽のような存在になるでしょう」
何も知らないはずのポルカの口から、同じ「太陽」と言う言葉に驚いたが、彼女なら間違いなくこの国にとって、なくてはならない存在になるだろうと言う確証があった。
「私も、そう思います……」
「国だけではなく、私にとっても……あなたにとっても」
「私……ですか?」
「えぇ。あの子の存在は、きっとあなたの心を照らしてくれるに違いないわ」
そう語るポルカの眼差しは、哀愁が漂っていた。
かつて、この国の総司令官として存在していたレルムの父が、先の戦で不治の病に侵され総司令の座を下りなければならなくなった時、当時まだ一等兵だったレルムが、叩き上げで総司令官の座を引き継ぐことになる頃から、ポルカは彼のことを見てきていた。
「……あなたが苦しんできている姿を、今日までずっと見てきました。あなたにも、心休まる時が持ててもいいと思っているのよ」
「……私は……」
「だから、あなたの傷が治ったら、あの子の専属護衛を命じます」
突然の申し出に、レルムは驚いたように目を見開いた。
「し、しかし、それでは陛下は……」
「私なら他の護衛を付けるから大丈夫よ。それに、信頼できるあなただからこそ、あの子のことを任せたいの。……あの子のこと、頼みますよ」
そう言われては断ることはできない。
レルムは口をつぐみ、ポルカを見た。
「……かしこまりました」
その言葉に、ポルカは満足そうににっこりと微笑んだ。




