第三話 露見した数字
三月に入り、日差しの中に春の温もりが混じり始めた頃。世間は卒業や異動のシーズンを迎え、どこか浮足立った空気に包まれていた。
私、相原真希にとっても、三月は特別な意味を持つ月だ。一月から続いていた怒涛の繁忙期――あのIT企業の巨大プロジェクトに加え、数本の単発記事の納品、そして何より一年に一度の「確定申告」という大仕事を終え、ようやく肩の荷が下りたタイミングだったからだ。
「はあ、やっと終わった……」
リビングのソファに深く体を沈め、私は伸びをした。
今年の確定申告は、例年以上に手ごわかった。売上が大幅に伸びたことによる計算の複雑化、インボイス制度への対応、そして経費の精査。税理士に最終チェックを依頼し、無事に提出を終えた時の開放感といったらなかった。
「お疲れ、真希。コーヒー淹れたよ」
夫の健太が、湯気の立つマグカップを二つ持ってキッチンから出てきた。
「ありがとう。……ねえ健太、今日の実家、少し遅らせてもらってもいいかな? まだちょっと体が重くて」
「ああ、いいよ。母さんたちには俺から連絡しておくし。無理しなくていいから」
健太は私の隣に座り、優しく背中をさすってくれた。
今日はまた、例の義実家での集まりがある日だった。正直なところ、今の私には義姉の玲子さんの相手をする気力は残っていなかったが、今回はどうしても外せない用件があった。
住宅ローンの借り換えだ。
現在、私たちが住んでいるマンションのローン金利を見直すため、夫婦の収入を合算したペアローンへの変更を検討している。その保証人云々の話ではないが、義父が以前から「家のことは相談しろ」とうるさかったため、事後報告で揉めるのを避けるために一応報告に行くことになっていたのだ。
「書類、全部持った?」
「うん、カバンに入れたよ。住民票と、印鑑証明と、あと真希の所得証明書も」
「分かった。じゃあ、行こうか」
私は気合を入れ直し、立ち上がった。今日の敵は、義姉の嫌味だけではない。私たちの経済状況という「現実」を、どう角を立てずに伝えるか。それがミッションだった。
実家のインターホンを押すと、いつものように義母が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。あら真希さん、顔色が少し悪いんじゃない? パートのシフト、入れすぎなんじゃないの?」
「ご心配おかけします。ちょっと季節の変わり目で」
「そうよねえ。まあ、パートとはいえ体調管理も仕事のうちよ。玲子なんて、どんなに激務でも肌の手入れは欠かさないんだから」
玄関先からこの調子だ。私は曖昧に微笑んで靴を脱いだ。
リビングに入ると、玲子さんは既にソファの特等席を陣取り、不機嫌そうにテレビのワイドショーを眺めていた。テーブルの上には、無造作に置かれた郵便物の束と、飲みかけのハーブティー。
「こんにちは、玲子さん」
「……ああ、いらっしゃい」
玲子さんは視線をテレビから外さずに答えた。機嫌が悪い。どうやら虫の居所が良くないらしい。
「何かあったんですか? 元気がなさそうですけど」
私が社交辞令で尋ねると、彼女は待ってましたとばかりに顔をしかめ、大げさなため息をついた。
「税金よ、税金。今月、確定申告のニュースばっかりやってるじゃない? それ見てたらイライラしてきちゃって」
「ああ、今の時期はそうですね」
「私なんて会社員だから源泉徴収だけど、毎月の明細を見るたびに倒れそうになるわよ。こんなに引かれるの? って。住民税に所得税、厚生年金……。稼げば稼ぐほど国に搾取されるんだから、嫌になっちゃう」
玲子さんは自分の給与明細の自慢話を始めた。「搾取されている」という文脈だが、その実態は「これだけ高額な税金を払えるほど稼いでいる私」というアピールに他ならない。
「本当よねえ。玲子は独身で扶養家族もいないから、余計に取られちゃうのよね。かわいそうに」
義母がお菓子を出しながら同調する。
「そうなのよお母さん。真希さんみたいに、旦那の扶養に入って気楽にパートしてる人には、この痛みは分からないでしょうけどね」
玲子さんの視線が、私を射抜く。
「パートはいいわよね。『年収の壁』とか言って、わざと働く時間を減らして税金逃れができるんだから。こっちは義務を果たして、社会インフラを支えてるっていうのに。フリーライダーって言葉、知ってる?」
フリーライダー。タダ乗りする人。
彼女の口から出たその言葉に、健太がピクリと反応したのが分かった。しかし、私はテーブルの下で彼の手を軽く握り、制した。
「そうですね。玲子さんのような高額納税者の方がいらっしゃるおかげで、日本は回っています。感謝しています」
私は表情を崩さずに頭を下げた。
「ふん、分かればいいのよ。まあ、せいぜい私たちに感謝して、家事くらいはしっかりやってちょうだいね」
玲子さんは鼻を鳴らし、ハーブティーを啜った。
彼女の認識では、私は「税金も払わず、夫に守られて小銭を稼ぐだけの存在」なのだ。訂正するのも面倒だし、何より事実を突きつければ彼女がどうなるか想像がつくだけに、今まで沈黙を守ってきた。
「ところで健太。今日は話があるんじゃなかったの?」
義母が話を切り替えてくれた。
「ああ、そうなんだ。実は、マンションのローンのことで」
健太は持参したビジネスバッグを膝の上に置いた。
「今、金利が上がってきてるだろう? だから、固定金利の安いプランに借り換えようと思っててさ。その手続きを進めてるんだ」
「まあ、借り換え? 大変じゃないの、手数料とか」
「うん、でも長い目で見れば数百万単位で安くなる計算なんだ。それで、銀行に出す書類を揃えてて、一応父さんと母さんにも報告しておこうと思って」
健太はバッグのファスナーを開け、中からクリアファイルを取り出そうとした。
その時だった。
「っと、危ない」
バッグの中で何かが引っかかったのか、健太の手が滑り、クリアファイルの中身がバサリとテーブルの上に散らばってしまった。
住民票、印鑑証明書、源泉徴収票、そして――役所で取得してきたばかりの、私の所得証明書。
「あーあ、何やってんのよ健太。大事な書類なんでしょ?」
玲子さんが呆れたように言いながら、散らばった紙に手を伸ばした。
「ごめんごめん。ちょっと詰め込みすぎたかな」
健太が慌てて回収しようとするが、玲子さんの手の方が早かった。彼女の指先が、一枚の書類をつまみ上げる。
「あら、これ真希さんの? 『所得証明書』……ふーん」
嫌な予感がした。
「返してください」と言う間もなかった。玲子さんの口元に、意地の悪い笑みが浮かぶ。
「ねえ、見てもいい? パート主婦の年収って、実際どれくらいなのか興味あるのよね。お母さんも知りたいでしょ? 真希さんがどれくらい健太におんぶに抱っこなのか」
彼女は完全に私を侮っていた。見られて困るような低い数字が書いてあると信じて疑わなかったのだ。
彼女の視線が、紙面を滑る。
名前の欄を確認し、年度を確認し、そして「合計所得金額」の欄に到達する。
「はいはい、どれどれ……い、ち、じゅう、ひゃく……」
玲子さんは、わざとらしく声に出して桁を数え始めた。まるで子供に数字を教えるような、馬鹿にした口調で。
「千、万、十万……」
そこで、彼女の声が止まった。
ピタリと。
まるで再生停止ボタンを押されたかのように、時が止まった。
「……は?」
漏れ出したのは、掠れた吐息のような声だけ。
玲子さんの眉間に深い皺が刻まれる。彼女は書類を顔に近づけ、目を細め、そしてまた離して見た。眼鏡を探す仕草をしたが、彼女は裸眼だ。
「え……ちょっと、何これ」
「どうしたの玲子? 百三万の壁、超えてなかった?」
義母がのんきに尋ねる。
「違う……違うのよ、お母さん。これ、印刷ミスじゃない? 桁がおかしいのよ」
玲子さんの声が震え始めていた。
「ミスなわけないだろ。役所で取ってきた公的な書類なんだから」
健太が冷静にツッコミを入れる。彼は散らばった他の書類を片付けながら、淡々と言った。
「貸してごらん」
義母が不思議そうに玲子さんの手から書類を覗き込んだ。
「ええっと……所得金額……」
義母の動きも止まった。老眼鏡の位置を直し、まじまじと数字を見つめる。
そこには、一般的なパート主婦の年収とはかけ離れた数字が印字されていた。
「1」でも「2」でもない。
もちろん「300」や「400」でもない。
そこにあったのは、玲子さんが誇らしげに語っていた年収の倍、いや、それ以上を遥かに超える「8桁」の数字だった。
「一千……えっ、に、二千万……?」
義母の声が裏返り、静まり返ったリビングに響き渡った。
「二千万!?」
玲子さんが叫ぶように繰り返した。
その顔からは血の気が引き、さきほどまでの余裕たっぷりの表情は消え失せていた。白塗りの仮面のように蒼白になり、唇だけがパクパクと動いている。
「嘘でしょ……? だって、パートでしょ? 本屋のレジ打ちでしょ? なんでそんな……」
彼女の脳内コンピューターが、激しいエラーを起こしているのが手に取るように分かった。
パートの時給千円。一日六時間。週四日。どう計算しても年間百万円程度にしかならない。その常識と、目の前の「2」から始まる8桁の数字が、どうしても結びつかないのだ。
「ああ、それね」
私はあくまで静かに、紅茶を一口飲んでから口を開いた。
「書店のパートは、あくまで気分転換というか……社会勉強のためにやらせてもらってるんです。本業は別にあるので」
「ほ、本業……?」
玲子さんが亡霊を見るような目で私を見た。
「ええ。自宅で執筆の仕事をしています。ライター業といいますか、企業の広告とか、広報誌の記事を書いたり。おかげさまで、ここ数年は指名をたくさん頂いていて」
「だ、だからって……二千万って……」
玲子さんは書類を持ったまま、ガタガタと手を震わせた。「私の……倍以上……?」
その呟きは、誰に聞かせるものでもなく、ただ事実を受け入れられない彼女の心の悲鳴だった。
彼女のアイデンティティは「稼いでいる私」だ。
「正社員で、責任ある仕事をして、高額納税者である私」が、「扶養内で楽をしている義妹」を見下すことで、彼女の精神的な安定は保たれていた。
その前提が、たった一枚の紙切れによって、根底から覆されたのだ。
「そんな……バカな……詐欺? 何か悪いことしてるんじゃ……」
玲子さんがうわ言のように呟く。
「失礼なこと言わないでよ、姉ちゃん」
健太がピシャリと言い放った。
「真希は毎日、姉ちゃんが寝てる時間も起きて仕事してるんだよ。大手のIT企業とか出版社から直接依頼が来るすごい仕事なんだ。俺の稼ぎなんかよりずっと多いけど、家計はちゃんと折半してくれてるし、この借り換えだって真希の信用があるから通る話なんだぞ」
健太の言葉は、追撃の一発としては十分すぎた。
「俺の稼ぎなんかよりずっと多い」。
弟を見下していた玲子さんにとって、その弟が認める「さらに格上の存在」が、今まで自分が召使いのように扱っていた義妹だったという事実は、屈辱以外の何物でもないだろう。
「あ、あの……じゃあ、真希さん。先週の料理も、その忙しい中で……?」
義母がおずおずと尋ねてきた。
「はい。締め切り前で徹夜続きでしたが、玲子さんがお忙しいとのことでしたので、私がやるしかないと思いまして」
私はにっこりと微笑んだ。
あの時、玲子さんは言った。「暇なのは真希さんだけ」「適材適所」。
その言葉が今、巨大なブーメランとなって彼女の後頭部に突き刺さっているはずだ。
私が「暇」だから引き受けたのではない。「能力」があり、「器」が大きいから、彼女の無茶ぶりをこなし、その上で本業でも圧倒的な成果を出していたのだと。
玲子さんは書類をテーブルに落とすように置いた。
その指先にはもう力が入っていないようだった。
彼女の視線が泳ぐ。高級ブランドのバッグ、綺麗に塗られたネイル、整えられた髪。それら全てが、今の彼女を支える役には立たなかった。
「金額=価値」という彼女自身のルールに従えば、この場におけるヒエラルキーの頂点は、間違いなく私だったからだ。
「……うそよ」
玲子さんは小さく呟いた。
「何か、何かの間違いよ。パートの主婦が……こんな……」
現実逃避をしようとする彼女に、私はダメ押しの一言を添えることにした。
「あ、そうだ。玲子さん、さっき『税金が辛い』っておっしゃってましたよね。私もすごく分かります。予定納税とか、消費税の課税事業者になると本当に大変ですよね。私も今年は納税額が高級車一台分くらいになりそうで……節税対策、何かいい方法ご存知ないですか? 会社員の方だとあまり関係ないかもしれませんが」
「…………」
玲子さんは口を開けたまま、何も言い返せなかった。
「高級車一台分のボーナス」を自慢していた彼女に対し、「高級車一台分の税金」を払う私が相談を持ちかける。
これ以上の皮肉はないだろう。
リビングには、重苦しい沈黙が流れた。
聞こえるのは、壁にかかった古時計の秒針の音だけ。チク、タク、チク、タク。
その音は、玲子さんのプライドが崩れ落ちていくカウントダウンのようにも聞こえた。
健太は黙って書類を回収し、クリアファイルに戻した。
「まあ、そういうわけだから。借り換えの手続きは進めるよ」
その声が、静寂を破るゴングとなった。
しかし、玲子さんはもうリングに立っていなかった。彼女はソファに深く沈み込み、自身の小ささを噛み締めるように俯いていた。
私は手元の紅茶を静かに飲み干した。
すっかり冷めてしまった紅茶だったが、その味は今までこの家で飲んだどんな高級茶葉よりも、深く、甘く、美味しく感じられた。
窓の外では、春一番の風が強く吹き荒れていた。
しかし、このリビングに吹き荒れた嵐に比べれば、そよ風のようなものだっただろう。
義姉の作った「格付け」という名の砂上の楼閣は、たった一枚の所得証明書によって、跡形もなく吹き飛んでしまったのだから。




