第二話 忙しさの質
深夜二時。世界が寝静まったこの時間、リビングには私の指がキーボードを叩く音だけが響いていた。乾いた、それでいて小気味よいリズム。それは私にとって戦場の行進曲であり、同時に心を鎮めるための鎮魂歌でもあった。
私の本業であるライター業は、今、かつてないほどの繁忙期を迎えていた。
クライアントは、来春の上場を目指すIT系ベンチャー企業。彼らが新たに打ち出すサービスのブランディング戦略に伴い、公式サイトの全面リニューアルからプレスリリース、経営陣のインタビュー記事、さらには投資家向けのピッチ資料の構成まで、そのすべてを私、「マキ・A」が請け負うことになったのだ。
報酬額は、一般的なサラリーマンの年収の半分近くが、この一ヶ月で振り込まれる契約になっている。その代わり、求められるクオリティとスピードは尋常ではない。ここ一週間、私の平均睡眠時間は三時間を切っていた。
「……ふぅ、とりあえずインタビューの構成案はこれでよし」
ホットアイマスクを目の上に乗せ、深く息を吐く。頭の奥が痺れるような疲労感があるが、心地よい達成感もあった。このプロジェクトが成功すれば、私のライターとしてのキャリアはもう一段階上のステージに行ける。そんな確信があった。
しかし、私のこの「本当の忙しさ」は、世間一般には……少なくとも夫の親族には、決して理解されない類のものだ。
翌朝、私は重い瞼をこすりながら、いつものように九時に家を出た。書店でのパート勤務があるからだ。
店長には「執筆が忙しい時期はシフトを減らしてもいい」と言われているが、私はあえてシフトを入れている。家でパソコンと睨めっこし続けるよりも、体を動かして本に触れている方が、脳のスイッチが切り替わって良いリフレッシュになるからだ。
「相原さん、この新刊の平台、お願いします」
「はい、分かりました」
重い書籍の束を持ち上げ、棚に並べていく。腰にくる重さだが、これが逆に凝り固まった背中の筋肉をほぐしてくれる気がした。
その時だった。私のスマートフォンのバイブレーションが、エプロンのポケットの中で激しく震え出したのは。
画面を見ると、表示名は「義姉さん」。
嫌な予感しかしない。勤務中だが、バックヤードに下がって手短に出ることにした。緊急の用事かもしれないからだ。
「もしもし、お疲れ様です」
「あ、真希さん? 今大丈夫? ちょうどお昼休みかと思って」
電話の向こうから聞こえる玲子さんの声は、相変わらずこちらの都合などお構いなしのトーンだった。まだ十時半だ。昼休みには早すぎる。彼女の中では「パート=いつでも暇」という図式が完成されているのだろう。
「いえ、まだ仕事中ですが……少しだけなら」
「あら、ごめんなさいね。まあ、パートだし大した用事じゃないでしょ? ちょっと来週のことで連絡なんだけど」
玲子さんは悪びれる様子もなく本題に入った。
「来週の日曜日、お父さんの法事のあとの食事会、うちの実家でやるじゃない? その準備のことなんだけどね」
「はい、伺っています」
「私、今すごく忙しくて。会社で新しいプロジェクトのリーダーを任されちゃって、土日も資料作りで潰れそうなのよ。正社員の責任ってやつ? だから、食事会の準備、全部真希さんにお願いできないかしら」
予想通りの展開に、私は思わず天を仰いだ。
今回の食事会は、親戚が十人ほど集まる予定だ。その全員分の食事の準備、部屋の掃除、座布団の手配、飲み物の買い出し。これらをすべて一人でやれと言うのだ。
「あの、お義母さんは……」
「お母さんは最近腰が痛いって言ってるし、無理させられないでしょ? 私も仕事で手一杯だし。暇なのは……あ、ごめん、時間があるのは真希さんだけなのよ」
「暇なのは」と言いかけて訂正したその口調には、明らかな嘲笑が含まれていた。
私だって忙しい。いや、おそらく今の玲子さんの数倍は高密度の仕事をしている。来週の日曜日は、例のプロジェクトの第一次納品日の直前だ。本来なら一分一秒でも惜しんでパソコンに向かいたい。
「……分かりました。私がやります」
「本当? 助かるわぁ。やっぱり、持つべきものは時間の融通がきくパートの義妹ね。じゃあ、メニューとかはお任せするから。あ、親戚の伯父さんは魚嫌いだから気をつけてね。それじゃ!」
一方的にまくしたてて、電話は切れた。
静まり返ったバックヤードで、私はスマートフォンを握りしめたまま、深くため息をついた。
断ることもできたはずだ。「私も仕事が忙しいので」と。しかし、そう言ったところで「パートの仕事なんて休めばいい」「たかがパートでしょ」と返されるのがオチだ。そこで「実は重要なライティングの案件が」と説明しても、彼女たちの理解を得るには膨大なエネルギーが必要になる。
今の私には、玲子さんと戦って消耗している時間も気力もない。
だったら、さっさと引き受けて、完璧にこなし、彼女たちを黙らせてから自分の仕事に戻る方が効率的だ。私はそう結論づけ、売り場へと戻った。
それからの一週間は、地獄のような日々だった。
朝は書店で働き、帰宅後は深夜三時まで執筆。三時間の睡眠を挟んで、早朝の二時間で義実家の食事会のための仕込みをする。
煮物は味が染みるように二日前から作り置きし、掃除用具を車に積んで、パートの合間を縫って義実家へ行き、窓拭きや床磨きを済ませる。義母は「あらあら、真希さんは元気ねえ」とお茶を啜って見ているだけだったが、文句を言われるよりはマシだった。
私の体は悲鳴を上げていたが、不思議と精神は研ぎ澄まされていた。
「プロとして、どんな状況でも品質は落とさない」
それはライターとしての信条であり、同時に、この理不尽な嫁としての役割においても適用される私のプライドだった。中途半端な仕事をして「これだからパート主婦は」と言われるのだけは、死んでも御免だった。
そして迎えた日曜日。
私は朝の五時に起きて最後の仕上げをし、夫の健太と共に義実家へ向かった。
健太は私の目の下のクマを心配してくれたが、私はコンシーラーで厚めに隠し、「楽しみだね」と笑って見せた。
義実家のキッチンは、戦場と化していた。
十人分の料理を盛り付け、吸い物の味を整え、飲み物を冷やす。親戚たちが到着し始めると、私は挨拶もそこそこに配膳係に徹した。
「やあ、これは豪華だねえ。良子さんが作ったのかい?」
親戚の伯父さんが、テーブルに並んだ筑前煮や出し巻き卵を見て声を上げた。
「いえいえ、私は腰が痛くて。息子の嫁の真希さんが全部やってくれたのよ」
「ほう、そうかね。今の若い人は料理なんてしないと思ってたが、大したもんだ」
伯父さんの言葉に、私はお辞儀をして応える。しかし、心の中では時計の針を気にしていた。あと二時間でこの会を終わらせ、帰宅して最終チェックをしなければならない。
宴もたけなわになった頃、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ごめんなさーい! 遅くなっちゃって!」
主役のような登場で現れたのは、玲子さんだった。
ブランド物のスーツに身を包み、両手にはデパートの紙袋を抱えている。髪は美容院に行ったばかりのように完璧にセットされており、「仕事でボロボロ」という事前情報とは程遠い姿だった。
「あら玲子、お疲れ様。仕事だったの?」
義母が猫なで声で迎える。
「ええ、もう大変だったわよ。午前中に一本会議があって、そのあと急いでデパ地下に寄ってきたの。どうしても外せない接待の準備とかもあってね」
玲子さんは大げさに肩を回しながら、リビングに入ってきた。そして、テーブルの上に並んだ私の手料理を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。
「へえ、頑張ったわね真希さん。でも、なんか……地味じゃない? 全体的に茶色いというか」
「……煮物中心ですので、彩りは控えめかもしれません」
「ふーん。まあ、家庭的でいいんじゃない? 庶民の味って感じで」
玲子さんは私が三日かけて仕込んだ筑前煮を「庶民の味」と切り捨て、持ってきた紙袋から次々とプラスチックの容器を取り出し始めた。
「ほら、見て! 銀座の有名店のローストビーフに、トリュフ入りのポテトサラダ、あと海老のテリーヌよ。やっぱりお祝いの席には、こういう華やかなものがないとね」
彼女が容器の蓋を開けると、確かにきらびやかな料理が現れた。デパ地下の惣菜は、プロの料理人が作ったものであり、見た目も味も洗練されている。それは間違いない。
「わあ、すごいわねえ玲子。やっぱり稼いでる人はセンスがいいわ」
義母が手を叩いて喜ぶ。親戚たちも「これは高級そうだ」と箸を伸ばし始めた。
私の手料理は、テーブルの端へと追いやられた。
玲子さんは満足げにワインを開け、私の横に座った。
「真希さん、悪いけど取り皿持ってきてくれる? あと、このローストビーフ、綺麗に並べ直して」
「……はい」
私は台所へ戻り、新しい皿を用意する。その背中に、玲子さんの声が突き刺さる。
「ごめんねぇ、こき使っちゃって。でも私、頭脳労働でヘトヘトなのよ。真希さんは体動かしてる方が得意でしょう? 適材適所よね」
「そうだなあ、玲子ちゃんは昔から頭が良かったからなあ」
親戚の誰かが追従する。
キッチンに立ち、ローストビーフを皿に移し替えながら、私は玲子さんの「忙しさ」について考えた。
彼女の言う「忙しさ」とは、会社という組織に拘束され、他人の作ったルールの中で動く忙しさだ。そして彼女は、それを「自分の価値」だと勘違いしている。
「忙しい私=重要な私」。だから、忙しくない(と彼女が思い込んでいる)人間を見下すことで、自分の優位性を保とうとする。
けれど、私の忙しさは違う。
ゼロからイチを生み出し、自分の名前で勝負し、その対価として報酬を得る。その責任はすべて自分にあり、誰のせいにもできない孤独な戦いだ。
玲子さんがデパートで惣菜を選んでいる間、私は数百万の予算が動くプロジェクトのキャッチコピーに頭を悩ませていた。彼女が美容院で髪をセットしている間、私は数万字の原稿を推敲し続けていた。
どちらが上か下かではないかもしれない。けれど、「忙しさの質」が決定的に違うのだ。
「はい、お待たせしました」
私はローストビーフをテーブルに置いた。
「ありがとう。……あ、ちょっと真希さん。このタレ、かけすぎじゃない? 私、別添えがよかったんだけど」
玲子さんが眉をひそめる。
「すみません。でも、肉の乾燥を防ぐために、少しかけておいた方が美味しいかと思いまして」
「はあ? そういう余計な気を利かせなくていいのよ。これだから素人は。やっぱりプロの味をそのまま楽しみたいのに、台無しじゃない」
玲子さんの理不尽な言いがかりに、隣に座っていた健太がさすがに口を開いた。
「姉ちゃん、いい加減にしろよ。真希は朝からずっと働いてるんだぞ。姉ちゃんが遅れてきた分も全部やってくれたんだ。感謝こそすれ、文句言うなよ」
健太の声は怒りに震えていた。普段は温厚な彼がここまで言うのは珍しい。
しかし、玲子さんは涼しい顔でグラスを揺らした。
「あら、感謝してるわよ? だから言ってるじゃない、適材適所だって。時間のある人が労力を提供して、お金のある人が良いものを提供する。これが社会の仕組みでしょ?」
そして彼女は、私に向かってにっこりと笑いかけた。
「ねえ、真希さん。このローストビーフ、一切れいくらするか分かる? あなたの時給の一時間分より高いのよ。味わって食べなさいね」
その瞬間、私の中で何かが冷たく透き通っていくのを感じた。怒りではない。憐れみだ。
彼女は、すべてを「金額」と「時間」でしか測れないのだ。自分が食べているものが「いくら」で、相手が「どれだけ時間をかけたか」を金銭換算することにしか興味がない。
私が作った筑前煮の、レンコンの飾り切りに込められた手間も、出汁を引く際の手順も、彼女には一生理解できないだろう。そして、彼女が誇るその「金額」の物差しですら、実は私の方が遥かに長い物差しを持っていることを、彼女は知らない。
「ありがとうございます、玲子さん。いただきます」
私は穏やかに微笑み、ローストビーフを口に運んだ。
美味しい。確かに美味しい。けれど、それは「金を出せば買える味」だ。そこに物語はない。
対して、私が作った料理には、家族の健康を気遣う思いや、素材への敬意が込められている。……まあ、義姉への敬意はゼロだが。
「どう? 稼いでる女の味がするでしょ?」
玲子さんが勝ち誇ったように言う。
「ええ、とても。……お金の味がしますね」
私がそう言うと、一瞬、場の空気が止まった。
「お金の味がする」。それは褒め言葉のようでありながら、どこか冷ややかな響きを含んでいたからだ。
玲子さんは少し怪訝な顔をしたが、すぐに「でしょ? 高級なんだから」と自分に都合よく解釈して笑った。
食事会が終わり、後片付けもすべて私が済ませた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
帰り際、義母が残った料理をタッパーに詰めて渡してくれた。
「真希さん、これ持って帰って。どうせ玲子の買ってきた惣菜でお腹いっぱいでしょうけど」
「ありがとうございます」
タッパーの中身は、私の作った筑前煮と出し巻き卵だった。玲子さんの買ってきた高級惣菜は、すべて綺麗になくなっていた。分かりやすい結果だ。
車に乗り込み、シートに体を沈めると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「ごめん、真希。結局、全部やらせてしまって」
運転席の健太が申し訳なさそうに言う。
「ううん、いいの。私の料理、健太は美味しいって言って食べてくれたし」
「当たり前だろ。姉ちゃんの買ってきたローストビーフより、真希の筑前煮の方が百倍美味かったよ。本当だ」
その言葉だけで、今日の苦労は報われた気がした。
家に帰り着いたのは夜の九時。体は限界だったが、私にはまだやることがある。
「健太、私、あと一仕事あるから。先に寝てて」
「えっ、まだやるのか? 無理すんなよ……」
「大丈夫。今夜が正念場だから」
私は再びパソコンの前に座った。
画面を開くと、一通のメールが届いていた。クライアントの担当者からだ。
『相原様、先ほどお送りいただいた構成案、拝見しました。素晴らしいです。社長も「これこそ我々が求めていた言葉だ」と絶賛しております。つきましては、追加で社長対談の連載記事もお願いできないでしょうか。報酬は言い値で構いません』
疲れが吹き飛ぶような文面だった。「言い値で構わない」。それは、私の仕事が、私の「忙しさ」が、正当に、いやそれ以上に評価された証だった。
私は口元を緩め、玲子さんの顔を思い浮かべた。
彼女がローストビーフの値段を自慢していた時、私は心の中で笑っていた。
私が今から書くこの数千文字には、彼女の年収に匹敵する価値が生まれる可能性がある。
忙しさの質が違う。生み出す価値の桁が違う。
「さて、書きますか」
私はキーボードに手を置いた。
来月は三月。確定申告の時期だ。
今年、我が家は住宅ローンの借り換えを検討している。その手続きのために、所得証明書が必要になると健太が言っていた。
夫婦の収入を合算して審査に出す。その時、私の「本当の数字」が記載された書類が、公的な証明として発行される。
それを目にした時、玲子さんはどんな顔をするだろうか。
「パートの分際で」と見下していた義妹の稼ぎが、自分のそれを遥かに凌駕していると知った時。
その瞬間を想像すると、キーボードを叩く指に自然と力がこもるのだった。
画面の中の文字が、次々と意味を成して連なっていく。それは、来たるべき逆転劇への序章のようでもあった。




