第48話「わたしが、ここに来た理由」
その日は、なんでもない朝だった。
神田は厨房で、朝食後の片付けをしながら、ふと手を止めた。
皿の上に残ったカレー風のソース、その香りが鼻をくすぐる。
——懐かしい。
何かが、胸の奥に引っかかった。
次の瞬間、視界がにじんだように揺れ、立っている床が違う場所へと変わった気がした。
——夢。
白い壁。眠るように静かな老人の姿。
その手を握っていたのは、若かりし頃の自分だった。
「……ありがとうね。あんたがいてくれて、よかった」
その言葉に、神田の心が震えた。
次の瞬間、夢の世界は静かに閉じた。
目を覚ました神田は、自分の手がわずかに震えているのを見つめた。
目の前にはリリが、コップを差し出していた。
「神田さん、大丈夫ですか?」
「……ああ。ちょっと……昔のことを思い出していた」
リリは神田の隣に腰を下ろし、静かに尋ねる。
「……神田さんは、この世界に来たとき、何か覚えていましたか?」
神田は少しだけ、目を細めた。
「ひとつだけ。……誰かに“ありがとう”って言われた。それが、最後だった気がする」
リリがゆっくり頷く。
「きっと、その“ありがとう”が、神田さんをここに連れてきたんですね」
神田はそれには答えず、窓の外を見つめた。
春の風が、やさしく吹き抜ける中庭を揺らしていた。
今回は、神田自身が“この世界に来た理由のかけら”を思い出す回でした。
すべてを明かすのではなく、感覚や記憶の断片から「なぜここにいるのか」をじんわりと浮かび上がらせた描写を意識しています。
誰かの“ありがとう”が、その人の生きる力にも、誰かを救う力にもなる。そんな想いを込めました。
次回は、村からの訪問者によって、制度の動きが新たな局面に入るエピソードとなります。




