第2-23話
金に銀と飾られた絢爛豪華な一室。
貴族とはかく有るべしを体現したかのような壮麗さを纏っているその部屋で、その調和を崩すような明らかに場違いな黒服の男がポツリと部屋の中央付近で跪いていた。
その男の前には脚を組み居丈高に優美なソファに座る少年が一人。
紙の束をパラパラとめくりその内容を鷹揚に目で追うその少年の表情はひどく愉快げであった。
「まったく……憚りというものを知らんようだな、此奴は。この余ですらここまで軽忽にはなれんぞ?」
呆れたような物言いとは逆に、その顔には満悦していることが手に取るようにわかるほどの笑みが張り付いていた。
「たかが一介の凡愚を殺すためだけにこのような些事に自ら赴くか。理解に苦しむな。それに我が帝国に喧嘩を売ってきたかと思えば、時を置かず次とは。忙しない奴よ。だが、相も変わらず楽しませてくれる」
誰に言うでもなく独り言ちる少年がぞんざいに手を振ると、黒服はその場から消えていった。
黒服がいなくなるのを見計らったかのように音もなく部屋に入ってきた一人の女の子が呆れたようにため息を吐く。
「まるで恋する乙女のようですね、お兄様。ストーカーは嫌われますよ?」
「ククク、恋する乙女か……言い得て妙ではないか、アティナよ。事実、恋をしていると言ってもいいのかもしれんな」
少年——アルトティア帝国の第五皇子であるローメロイ・アルトティアは喜悦に満ちた嬌笑を漏らし、その後、愉快げな——しかし心なしか鋭い双眸をジロリとその少女に向ける。
「だが愚にも付かぬことを言うな。……嫌われる? この余がか? アティナよ、お前の他者に思慮するその姿勢は好ましく思うが……その理を余にまで持ち出すでない。この余を好くことも嫌うことも、この余の許しがあってこそであろう。余が許しを与えていない以上——何人もそのような感情を余に向けることなど許されんぞ? 神に恋慕して良いのは勅許ある相応き者か同じ神の血を引く者のみよ」
まるで諭すかのようにそう高言したローメロイはその真紅の双眸を天井に向け、どこか冷笑しているかのような笑みを浮かべていた。
「だが、此奴が男ではなく女であればどれほど良かったことか。まったく、この余の妻として迎えても良いと思えるほどの愉楽を感じるぞ。幾十、幾百の着飾り迫ってくる有象無象の令嬢共よりよほどこの余の胸を熱くさせてくれる」
恋をしていると肯定するかのような言葉にずっと胡乱げな表情を浮かべていたアルトティア帝国の皇女であるアティナ・アルトティアは再度ため息を吐いた。
「……そこは否定してほしいところだったのですが」
呆れたように肩を落とすアティナを見たローメロイは愉快げに忍び笑いを漏らす。
「案ずるな。男色に手を出すつもりなど毛頭ない。帝国の主人となるからにはその責務も当然果たすつもりよ。それに元より、この余に男色の気など微塵もないがゆえにな。……とはいえ、一人くらいは居ても愉快かもしれんがな?」
ローメロイは揶揄うようにそう言うと、可笑しそうに笑い声を轟かせた。
「はぁ、冗談もほどほどにしてくださいませ。それに案じてなどおりません。……ですが少々あの者を気に掛けすぎでは? この国にも同年代で強い者はいるようですし、それにあの者の他にも……いるではないですか? 確かに数年前のあの出来事はありますが、あの者だけ特段気に掛ける理由もないかと思いますが……」
「確かに他にもこの余を楽しませる奴儕もこの国にいる。其奴らも道化にしておくには惜しい者共だが、所詮は道化だ。神の何たるかを理解してなどいない。……この世を統べる者は二人といらん。そうは思わんか?」
「? それは当然です」
アティナは突然放たれた脈絡のない問いに訝しげな表情を浮かべるが、迷う余地なく即答する。
この世を統べるのは皇帝ただ一人で良いと。
ローメロイはその答えを聞き、満足げに微笑んだ。
「だからこそだ。だからこそ此奴は余が審判するに値するのだ」
「ですが……、いくら計略とはいえあの程度すら跳ね除けられない者など……」
「この余が気にするまでもないと? 理解できずとも良い。だが此奴はともすればお前の夫となるかもしれん奴だ。お前も少しは気に掛けておくと良い」
アティナはその言葉に困ったように眉をハの字にしたが、やがて諦めたかのようにため息を吐いた。
――∇∇――
アーノルドがボルネイを殺して早二週間。
アノッソファミリーからの報復も不気味なほど特になく、平和な日々が過ぎていっていた。
「予想外ですね。あの手の組織は是が非でもメンツのために報復に来るかと思っていましたが」
「どうやらただのマフィアでもないというのも現実味が増してきたかもしれませんね」
アーノルドの後ろを歩くコルドーの溢した言葉にパラクが神妙な表情を浮かべてそう言う。
一人二人ならばともかく百人千人単位で殺している。
組織自体が大きくないならばまだしも、あれほどの人材を抱えるマフィアが流石に放置して終わらせるだろうなんて楽観視を誰もするわけがない。
だがここ数週間待てども一向に襲い来る気配がない。
組織の統制がどれほど取れていようとも抜け駆けの一人や二人はいそうなものであるが、それがないのもまた不気味であった。
「でも、いつか必ず来るとは思いますけど……どうしますか?」
パラクが当然の疑問を口にする。
「放っておけ。来るならば殺す。来ないならばどうでもいい。あくまでも目的は奴を殺すことに過ぎんかったからな」
アーノルドにとって、もはやアノッソファミリーなどどうでも良いのだ。
恨みもなければ興味もない。
「とはいえ情報は必要だな」
シーザーや手持ちの人員だけではもはや限界であるとも言える。
これまでは抱える世界が手に収まる範囲であったがゆえに少数でも何とかなっていたが、その世界がもはや手に収まる範囲ではなくなってきている。
それゆえ何がしかの対策は必要だ。
「この国の情報屋とも渡りはつけたようですが……」
どこの国にもその国に精通した情報屋はいる。
だが情報屋は危うい情報を扱うがゆえに慎重でまた抜け目ない者達も多い。
それはより危険な情報を扱う者ほど顕著だ。
そうでなければその世界で生き残れないのだから。
「信用も信頼もいらん。使える情報かどうかはこちらで判断すればいいだけだ。使えないのならば捨て置けばいい。賢しく立ち回るのならば……、そのときは処分すればいいだけのことだ」
そんなことを話しながら歩いているのは明らかな高級街。
貴婦人や他国の貴族達が多く見受けられ、馬車の往来もそれなりに多い。
警備も厳重で、剣を携え長閑に買い物といった風体ではないアーノルド達は少なからずそれぞれの店を警備する者達から警戒の視線を集めていた。
そんなところに来ている理由は一通の招待状が原因であった。
書かれていたことは、ある日時にどこどこでお待ちしております、といったもの。
来るか来ないかの返答すら求めてはいなかった。
こちらの都合すら聞かない傲慢さ。
そうでなくともそういった招待状を普段ならばアーノルドは問答無用で無視するのだが、その招待状の主人が七帝家、それもヴァレンヌ家の者ともなれば興味も湧く。
魔道具のヴァレンヌ。
アーノルドがこの国に赴いた理由の一角。
何の用かも書かれてはいなかったが、どの道一度は接触するつもりではあった。
向こうから誘い来るのならば好都合だろう。
「……今回の件、何かの罠だという可能性もあるのでは?」
「まぁあるだろうな」
分かりきったコルドーの問いにアーノルドは鼻で笑いながら答えた。
何の接点も無いいま、名指しで招待を送ってくるなど厄介ごとの匂いしかしない。
一つ思い当たることがあるとすればアーノルドが魔道具の製作者であるということだろう。
同業他社に対する脅迫でもしてくるか、それともそれとなく釘でも刺してくるか、取り込もうとでもしてくるか。
現在世界を揺るがす特大の爆弾であり、未だ謎に満ちた第二の魔道具師の正体。
その正体がわかったのならば、ヴァレンヌ家としては相手が誰であれ座視するはずもない。
だが実際その可能性は限りなく薄いと考えている。
情報が漏れたというのならば少なからず噂は広がるものだ。
いくらそれを内々で抱え込もうとも、漏れ出た情報は水のように止まることはない。
だがそんな兆候は未だにない。
現実的に言うならば、タモール商会の主人がアーノルドであると辿り着いたという方だろう。
自身の権威を脅かす魔道具を作り、それを売っている商会の真の主人。
職人の引き抜きか、武力行使で言うことを聞かせにくるということも十分考えられる。
間違いなく面倒ごとだろう。
だがその程度のことが理由で会うのをやめるという選択肢はなかった。
「戦いになりますかねー」
パラクは気負いなく、その言葉には楽しげとも取れる心の浮つきを匂わせていた。
思わずコルドーはジトっとした目をパラクへと向ける。
「……来るのは当主ではなくその娘だそうだ。だからといって気を抜くなよ、パラク」
「はい、心得ておりますよ」
得意げともいえるパラクに何とも言えぬ目を向けるコルドーではあるが気負っているよりは良いかと、その視線をもう一人の随行者に向ける。
「リリー、お前も警戒は怠るな。私はお前を護るつもりはないぞ」
「当然でございます。邪魔となれば捨て置きください」
今ここにいるのはアーノルド、コルドー、パラク、リリーの四人だ。
当初はいつも通り三人で行く予定であったが、リリーが頼み込んできたのだ。
共に行かせてくださいと。
アーノルドとしては行動を制限するつもりもないのでどうでもいいが、コルドーは難色を示した。
いくら鍛錬をしているとはいえ、リリーは未だ本当の意味で実戦を経験してはいない。
アーノルドのような例外は別として、いきなり実力を度外視した実戦をすることになった者の生存率は低い。
リリーは確かに訓練においては優秀だ。
状況判断も早い。
だが実戦では状況が目まぐるしく変わるがゆえに、一瞬の躊躇いが命を刈り取られる原因になる。
訓練でもそれは同様とも言えるが、初めての実戦で訓練同様動けるような者は言ってしまえば狂っている者か天賦の才を持つ者だけだ。
リリーは才はあるが、狂ってもいなければ天賦の才も持っていない。
特に今回は相手があの七帝家の人間だ。
魔道具のヴァレンヌということで武家ではないが、魔道具という予想できぬ武具の存在の可能性に加え、それほどの家門ならば護衛もそれだけ精強であることは想像に容易い。
それも相手が“アーノルド“であることを認識しているとなれば、生半可な者を護衛につけるとは思えない。
正直に言ってリリーでは、そしてパラクですら厳しいのではと考えていた。
特にあのゴルドルフィを見てからコルドーはこの国の認識を大幅に変えている。
とはいえパラクはそうは言っても実戦経験豊富であるし、この先もアーノルドの護衛を続けたいと思うのであれば、アーノルド同様、格上との戦いを避けていては話にならない。
既にパラクとアーノルドの力の差は逆転していると言っていい。
ダンケルノに在る限りそれは仕方のないことではあるが、これからも共に在るならば、それ相応の力はいるだろう。
それゆえ、パラクが付いてくることに関して思うところはないし、そもそもコルドーがとやかく言うことでもない。
それらを決めるのはアーノルドであり、次いでパラク自身だ。
同じ臣下という立ち位置ゆえに指南のようなことをすることはあれ、コルドーはパラクの保護者ではない。
だがリリーはまだまだ武人としては雛鳥もいいところ。
餌の取り方を教わった段階に過ぎない。
素人はいるだけで逆に邪魔になる事もある。
普通の要人の護衛ならばその点も加味して選ばれることは言うまでもない。
が、コルドー達は護衛であって護衛ではない。
そもそもアーノルド自身が護衛を必要とはしていないのだから。
それゆえアーノルドが何も言わない以上、それを理由に追い出すことはしない。
リリーが頼み込んだ時も出発の前もコルドーは未熟ゆえの危険性をリリーに説明したが、リリーの意志は変わらなかった。
結局コルドーはリリーの説得をやめて、好きにさせることにした。
実力を言い訳に護衛を放棄することが赦されぬことはあれど、したいという者を突き放すことはできない。
自由を尊ぶアーノルドの護衛ならば尚更だ。
結局のところコルドーは“心配”しているのである。
リリーが死んでしまわないか。
そしてそれによりアーノルドがどうなるのかを……
「しかし娘か……」
アーノルドはそんな会話をしているコルドー達を尻目にポツリと呟く。
ヴァレンヌ家の一人娘。
齢はまだ一二歳かそこらだという。
交渉かそれに類するものが招待の理由ならば当主本人ではなく娘を遣すなど舐めているとも言える。
殺されたとしても代えが効くからと考えるには溺愛している一人娘ということで少々無理がある。
それにただの小娘ではないことも把握している。
些か相手の意図を図りかねていた。
「この辺りか」
高級街の中でも数多のレストランが立ち並ぶレストラン街の付近に辿り着いた。
「はい、聞いた話ではここからだとそれほど離れてはいないあたりかと」
指定されたのはこの国でも有数のレストラン。
一見さんお断りであり、予約も中々取れないという星一五の高級レストランである。
仮にアーノルドがダンケルノの名を出したとしても容易に断られていただろう。
それから道に沿って歩くこと数分。
一つの店の前に立つ。
——『マル・フローレ』——
とある逸話に出てくる『海の女神』の名を冠する、この国の者ならば知らぬ者がいないほどの有名店。
かく言うアーノルドもまだ短いこの国の生活で小耳に挟んだことがあるほどだ。
認知度は折り紙つきだろう。
「ここですね」
指定されたレストランの看板を見上げていると、レストランの入り口からタキシードを身に纏った一人のウェイターらしき壮年の男性が出てくる。
「フレベリック男爵様ですね。お待ちしておりました」
そう言うとその男性はアーノルド達を招き入れるかのように扉を開けたまま頭を下げた。
何かを考えるように一拍の間を置いたアーノルドは、そのままレストランの中へと入っていく。
高級店だけあってか内装は豪華も豪華。
見る者を楽しませるような緻密な細工が至る所にされている。
「お荷物をお預かりいたします」
人数分の強固な金庫のようなものが台車の上に乗せられて用意されていた。
この国のこういった高級レストランでは護衛すらもレストラン側が請け負うため、商談のような場では基本的に武具の類も全て預けるのが常道とされている。
非武装であるのは相手を信頼している証だとか。
それにレストラン内の安全と信頼、それらすべてが揃って初めて何一つ気負いなく提供する料理、食材全て余すことなく悦楽の極致を味わえるのだというレストラン側の思惑も混じっている。
だがあくまで常道であってルールではない。
「結構だ。下がれ」
アーノルドは受け取りに来た従業員にぞんざいにそう言った。
流石は高級店の従業員だからか常道と違えど表情一つ変えず下がっていった。
当然コルドー達も武器を預けるようなことはしない。
それを尻目にアーノルドは側にいるウェイターに気になったことを聞く。
「随分静かだが、他に客はいないのか?」
いくら店の入り口とはいえ、他に客らしき人の気配がなさ過ぎた。
「本日は全日貸切となっておりますので」
事もなげにそう言ったウェイターに対してアーノルドは目を細めた。
このレベルの店を一日貸し切ろうと思えば莫大な金額がかかることは想像に容易い。
数ヶ月先の予約まで埋まっていると言われるほどの有名店だ。
招待状が送られてきてまだ二週間も経ってはいない。
元々予約で埋まっているところを強引に空けたともなれば単純な損益では測れないほどの金が動いているはずである。
何が起ころうとも他所に漏らさぬための準備か、それとも話す内容を他に聞かれぬようにというこちらへの配慮か。
そんなことを考えるアーノルドの表情が剣呑とも違うどこか厳然としたものとなっているが、ウェイターは表情を変えることなく案内を開始する。
「こちらでございます」
ウェイターの案内に従い付いていくと大きく開けた部屋に出た。
真ん中に巨大な水槽のようなものが柱のように鎮座しており、その中に目を楽しませる色とりどりの美しい魚達が泳いでいる。
そして水槽の周りには、それを楽しめるようにか放射状に数多のテーブルと席が設けられていた。
フロア全体はパラボラのようになっており、どの席からでも遮るものなく中央の水槽が見れるようになっている。
部屋を取り囲む窓からは太陽の光が燦々と降り注ぎ、何かの鉱石らしきものが散りばめられた床と中央の水が光を反射し、部屋全体を煌めかせていた。
夜ならば皓皓と輝く月明かりがまた違った演出をするのだろう。
「ほう……」
思わずアーノルドも感嘆の声を漏らす。
「当店の内装を気に入っていただけたようで何よりでございます。本日お出しする料理を気に入っていただけましたなら、是非また当店にお越しいただければ幸いでございます」
ウェイターの男性はそう言うと再度案内を開始し、そのフロアを通り抜けてその奥へと向かう。
先ほどの澄明としたフロアとは打って変わって、ランタンが照らす明暗がより一層高級感を醸している広々とした通路。
所々部屋の入り口があるが、それもまた素通りしてさらに奥へと入っていく。
「こちらの部屋でございます」
そこはこのレストランの中でも最も格式が高い部屋であり、完全防音も施された個室であった。
扉一つにも様々な趣向が為されており、それだけでなく分かりにくくはあるがえらく堅牢な造りが為されていた。
何を想定しているのか、そこいらの魔物の襲撃程度ではビクともしない、ある意味金庫のような部屋であった。
その部屋の扉が恭しく開けられ、アーノルドは扉を開け頭を下げているウェイターを一瞥してその部屋に入っていく。
少し進むと数十人入っても余裕がありそうな開けた部屋へと辿り着く。
先ほどのような澄明さはないが、それでも壁一面を泳ぐ魚達の優美さは負けてはいない。
(これは……おそらく本物ではないな。これも魔道具によるものか?)
その部屋で立って待っていた人物がアーノルドの視界に入ると同時に頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。どうぞあちらにお掛けください」
アーノルドは無遠慮とも言える堂々とした動きで勧められた席へと座る。
そしてその“黒髪”の少女もまたニコリと微笑みを浮かべ、縦に長く大きなテーブルを挟んだ反対側の席へと座った。
パラクはその少女を見て、僅かに目を見張っていた。
その少女はパラクが前に路地裏で助けたあの女の子だったからだ。
少女はそんなパラクの視線に気付き嫣然と微笑んだ。
少女にしては艶かしく見惚れるような笑みであるが、パラクは一瞬眉をピクリと動かし視線を外した。
それに残念そうに眉を動かしていたが、その顔は愉しげに笑っていた。
コルドー達と少女の護衛二人はそれぞれの主人の後ろへと控える。
コルドー達は帯剣したままであるが、少女の護衛二人は見る限りでは武器の類は身に付けていない。
とはいえ、魔道具もあるため油断はできない。
コルドーは慣れゆえか表情も自然体であるが、リリーはやはり初めてゆえか幾ばくか表情が硬くなっていた。
「お初にお目にかかります、アーノルド・ダンケルノ様。エルテミス・ヴァレンヌと申します。以後お見知り置きくだされば光栄でございます」
一切の物怖じなく堂々とした態度でエルテミス・ヴァレンヌと名乗った少女は自信ありげに微笑んだ。
「こちら、お近づきと謝罪の意も込めましてお納めいただければと。私が製作しました魔道具です」
そう言うや否や、エルテミスの護衛の男がテーブルの上に置いたのは指輪を入れでもするような小さな箱型の何か。
アーノルドに見えるように開かれた箱の中には二つのピアスらしきものが入っていた。
エルテミスが造った非売品の魔道具。
その価値は計り知れない。
大抵の者ならば抑えようとしても表情が綻び、顔がにやけ出すだろう。
だがそれをしばし見たアーノルドは表情そのままにエルテミスを険と見据える。
相手の顔色を窺うことに慣れた商人でなくとも謝罪の意味を説明しろと言われていることくらいわかるだろう。
「無礼とは存じておりましたが、あのような形式でお呼び立て致しましたこと、そしてダンケルノの名は隠されたいご様子でしたので僭越ながらアーノルド・ダンケルノ様の爵位であるフレベリック男爵としてご招待致しましたことに対してでございます。もしご不快に思われたのならば申し訳ございません」
エルテミスはそう言うと頭を丁寧に下げた。
その間、アーノルドはただエルテミスを見ているだけだった。
その視線には是も非も一切ない。
面責も返答もなかったゆえに黙許されたと捉えたエルテミスは顔を上げ、優美な笑みを浮かべた。
「それに来てくださるとは思いませんでした。改めてお越しくださり感謝申し上げます」
貴族令嬢を見ているかのような艶やかな挨拶を済ませたエルテミスはニッコリと笑みを浮かべた。
「御託はいい。要件を話せ」
そう言うとエルテミスは少しばかりその表情を固まらせたが、それも一瞬。
「せっかくですので料理を食べ終えてからにいたしませんか?」
料理に舌鼓を打ちながら話すといったこともあるにはあるが、やはり料理をしっかりと味わうためには料理の後に本題に入るのがこの国の商談では普通とされていた。
それに美味しい料理は良くも悪くも口を滑らかにする。
お互い円滑に交渉を進めるのに適しているのだ。
特に料理が出てくる前に本題を話すことはほとんどない。
それは料理にも雑味を生じさせる愚行であり、料理を待つ時間すらもない余裕無き者と見做される商人の理によるものだ。
時は金なりとは言うが、本当に余裕ある商人ならばその程度の余裕はあるだろうという暗黙の了解にも似たものである。
とはいえ、アーノルドは商人でもなければ、体面も相手の理も気にするような貴族でもない。
「二度言わせるな。話せ」
アーノルドは先ほどよりも声色低くそう言った。
エルテミスの護衛として控える男はそんなアーノルドの態度を見て、表には出さないが内心不機嫌になっていた。
開国する前でもそうだが、いまや世界の誰もが平伏すヴァレンヌ家。
七帝家の中にも声高には言えないが序列のようなものがある。
その中でもヴァレンヌ家は魔法のガルフィード家と並び、最上位に位置する家門。
その家の令嬢が名乗ったにも関わらず改めて名乗りすらせず要件を話せなどと、外では有名な貴族か知らないが不遜極まりなく無礼を通り越していると。
いまこの場で押さえつけ身の程を弁えさせてやっても良いという気持ちも沸いていたが、エルテミスにはこちらからは決して手を出すなと厳命されていたがゆえに抑えていた。
護衛の数こそエルテミスよりもアーノルドの方が多いが、一人はまだまだ子供のような青二才にもう一人は戦闘ができるかどうか定かでもない女。
唯一体格の良いコルドーだけは警戒対象であったがそれでも護衛にしては緊張感が無さすぎる。
護衛としての心構えがなっていないと表には出さずせせら笑った。
体格だけのハリボテなどこれまでも腐るほど見てきた。
コルドーも類に漏れず相手を威圧するために連れてこられたのだろうと。
普段選ばれることなどないヴァレンヌ家の令嬢本人の護衛の任務。
男の実力はヴァレンヌ家に属する者の中でお世辞にも高いとは言えない。
実力でいえば中の下くらいであることは男自身も自覚している。
それゆえなぜ自分にこのような大役が回ってきたのかという疑問もある。
大したことない相手ならばともかく、これほどエルテミスが下手に出る相手ともなればヴァレンヌ家にとっても大したことはある者のはずではあるのだ。
普通ならばそのような場で自分のような者が護衛を務めることはない。
それになぜだか護衛の任務を伝えられたのも直前であり、相手の情報もなにも与えられていない。
自身に何を期待されているのかすら定かではないが、男のやることに変わりはないと護衛として影を薄くするようにと努めた。
この国の権力者達の間ではダンケルノという名はよく知られているものであるが、当然ただの民達はダンケルノという名にそれほど馴染みはない。
歴史で少しばかり出てくる名といった程度のもの。
だからこそ、この男もダンケルノという名を聞いてもそこまでの警戒はない。
対してコルドーはその男の評価をパラクよりも下としていた。
だが侮りはしない。
相手が“本気”で護衛を選んだのだとしたらこの程度なわけがないことは分かっている。
むしろこのような者を護衛として選んだ真意を測りかねていた。
そしてその隣にいる一見華奢な女性の方に警戒を向ける。
実力者には見えぬような無気力とも言える佇まい。
何なら寝ているのか目を閉じている節すら見受けられる。
別に何かあるような雰囲気もなく、エルテミスの世話をするために付けられたただの同性の護衛騎士とも考えれるだろう。
だがどれだけ意識を逸らそうともまるで吸い寄せられるかのようにその視線が引き戻される。
当然美貌がどうこうの話ではない。
その女性の根源にある何かにコルドーの本能が警鐘を鳴らしているのだ。
コルドー達は知らぬことだが、その女性の名前はアーリ・バリングと言う。
バリング家は剣術の名家であるバルフォメット家の分家。
七帝家の分家は実際には数多くあるが、分家を名乗ることが許されるのはその中でも二家だけと決められている。
それ以外は次家と呼ばれる分類にされ、分家ほどの権力を有することはなく七帝家の名を持ち出すことは禁止されている。
それぞれ分家の二家の決め方は違うが、バルフォメット家が分家と定める基準は至極単純当主の強さだ。
代々バルフォメット家の当主が変わるたびにその血を引く分家、次家の中から希望者が集い、戦い、そして最終的に勝ち抜いた二家が分家として名乗ることが許される。
その折に死者が出るほど容赦のない決め方で選ばれるがゆえに分家もまた主家に及ぶほどの力を有していることもある。
バルフォメット家は代々偏執的なまでに強さを追い求めている。
ゲーテ・バルフォメットが無能が嫌いだと言っていたのは家系による影響も大きいと言えるだろう。
バリング家は分家としては新参も新参であるがアーリ・バリングはゲーテ・バルフォメットの妹。
つまりは直系と等しい血の濃さを有しており、その学びもまたゲーテに匹敵する。
普段はエルテミスの護衛というわけではないが、同じ過激派の伝としてわざわざ自身の家の護衛ではなく依頼を出して護衛をしてもらっていた。
エルテミスの父の指示でそうしたわけであるが、エルテミスとしても父の指示がなくても万全を期してそうしただろう。
ヴァレンヌ家の護衛は優秀である。
だが、優秀であるがゆえに些かばかり高慢なのだ。
それは国の気質であり、過激派という派閥に属しているがゆえに仕方のないこととも言える。
もちろんエルテミスの命令に従わないなどということはない。
だが過激派の者達が持つその思想は何も言わずとも滲み出るものだ。
只人ならばそれも感じ取れぬであろうし、重要な場でそれを滲み出すような間抜けを置いているつもりもない。
とはいえ此度迎えるのはダンケルノの人間。
万全を期しておいて損はない。
そして相対してから短い時間しか経っていないがそれが正解であったと確信していた。
だがエルテミスは未だアーノルドのことを測りかねている。
そもそも事前に出てきたアーノルドの情報はどれも極めて精度が低いといって差し支えのないものばかり。
この短い期間で集めてきたにしては褒めても良いのかもしれないが、積んだ金に対する費用対効果が全く釣り合っていない。
だがそれでも、類推されるアーノルド・ダンケルノという人物が安全な人物とは程遠いということは疑うまでもなかった。
しかし、情報が少なくともそれをどうにかするのが商人としての腕の見せ所。
たとえ手に入った情報が、作られた情報であろうとも、本物の情報であろうともアーノルドが取るべき行動に変化はないだろう——そう読んでいた。
だが少しばかり読み違えたと認めざるをえない。
エルテミスの事前イメージではアーノルドはもっと傲慢極まるタイプであると思っていた。
イメージとしては少し前にアーノルドが殺したハイルが近い。
相手の言うことなど一切聞かず、全ては己自身を中心に物事を考えるタイプ。
自己の強さを誇示し、それを周りも共通認識として持っていないと我慢ならないタイプ。
そして何よりも無駄を嫌うタイプであると。
普通の者ならば危険ゆえに尻込みするようなことであろうとも、面倒で遠回りな道よりも危険であるが最短距離を突っ走る。
それは最近アーノルドがこの国で起こした出来事からも容易に想像できた。
だが最初の会話——会話と言ってもいいのかわからないが——からは元々抱いていたアーノルド像を微塵も感じなかった。
もちろん傲慢と言えば傲慢であるし、無駄を嫌うというイメージ自体は間違ってもいない。
だが違和感が拭えない。
貴族にしてはあの程度の傲慢など可愛いものであるし、無駄を嫌うというのも話し合いが成立している時点でエルテミスのイメージからは外れている。
もっと粗暴で野蛮人のように上からものを言ってくると思っていれば、本人は思っていたよりもびっくりするくらい静かであった。
それに事前情報から護衛として連れてくるのはコルドーとパラクの二人であろうと踏んでいた。
なのに全く情報のないメイドとも騎士ともつかぬ女性を連れている。
剣を携えていることから護衛の騎士なのであろうが、その所作は貴族令嬢のそれとも言える。
アーノルドはそう容易く他者を自身の懐に入れないタイプであるとも踏んでいたのに突然情報がない人物の登場。
アーノルドの像がまるで蜃気楼のように揺れ動き定まらない。
実は目の前にいるのは影武者ではないかと思うほどである。
アーノルドの護衛が二人であると思っていたからこそエルテミスも護衛を二人に揃えたのであるが、そこからして間違えたのも少々誤算であった。
だが“幸い”少ない分には問題はない。
今回の護衛に必要な要素は相手よりも“弱く”、かつ護衛の任を果たせる者であること。
何より相手に警戒心を抱かせないことだ。
だからこそ自前の護衛は敢えて“元”の実力が低い者を選んでいる。
男の方はパラクと同程度か弱い者、かつ自身の身の程を弁え、護衛としての枠を決してはみ出さない者を。
だがコルドーの実力はそれこそアーノルドよりも不明瞭であった。
戦いに参加した記録はあるが、そのどれもが詳細は不明のものばかり。
それでもだからといって弱すぎてはダメであるし、いざという時にエルテミスを守れないでは話にならない。
自家の“そういった”人物を連れていくことも考えたが、エルテミスとしてもそうそう手札を切ることはできない。
だからこそ少しばかり出費は嵩むが少々“異質”なアーリを護衛として雇ったのである。
エルテミスは武にそれほど明るくはないため、いまここで二人を見比べてもどちらが強いかなどわからない。
だが、剣を“持った”アーリの鬼神の如き強さは知っている。
剣無きいま、只人のような佇まいらしいが、それが今回の件では好都合。
それに外の貴族社会や騎士の世界では男尊女卑が未だ罷り通っていたりもすることを知っている。
ゆえにアーノルドやコルドーが女ということでアーリを甘く見ればそれはそれで良し。
それもまた情報だ。
些細なことから人間の本質というものは見えてくる。
そしてそれらを繋ぎ合わせればその人間の形姿は完成していくのだ。
だが現在、エルテミスは顔に張り付けた笑みはそのままに内心眉を顰めざるをえなかった。
エルテミスは何も家の権威を笠に着て威張っているだけの小娘ではなく、魔道具製作の第一人者である。
七帝家の当主同様エルテミスが製作した魔道具も既に数多くある。
神童とまで称され、その名は世界にも轟いている。
ゆえにこういった交渉の場も既に何度も体験しているし、アーノルドよりも“危険”かつ大物との商談も経験している。
それゆえに視れば大体相手がどう思っているか、どういう人物なのかなど読み取ることができると自負していた。
だが、ことアーノルドに至っては時間が経てどもそれらが一切見えてこない。
まるで揺らめく煙でも相手にしているかのように相手の思想、嗜好、性質、気質、それら全てが見えてこない。
いまやヴァレンヌ家は下手な王家と等しい権威を有している。
それゆえ、半端な貴族ならば、媚び諂うようにエルテミスに阿諛する者や失敗できぬという怯えからか緊張に震えるような者までいる。
中には少しでもマウントを取ろうとしたり、エルテミスが子供だから、女だからと侮るような者もいる。
——つまらない。
そういった者は本当につまらない。
それがエルテミスの率直な感想であった。
同じような行動に同じような思考。
全てが“分かる”というのは商談においては存外つまらぬものなのだ。
遊びもなく、ただ定められたレールの上を走っているだけの感触。
だがアーノルドには自身の護衛よりも弱いエルテミスの護衛を侮る様子もなければ、エルテミス自身を侮る様子もない。
優越感といった感情も一切見えてこない。
そして当然だが怯える様子もない。
いまや王族ですら表向きであってもエルテミスの顔色を窺う者もいるというのにアーノルドの様子は傲岸不遜にして唯我独尊そのもの。
それもただ傲慢なのではなく、自然体ともいえる傲慢さ。
ダンケルノ公爵家ゆえの傲慢か、それとも生来の気質か、エルテミスにすら見通せぬほどの仮面か。
エルテミスは楽しげにクスリと笑みを深める。
「話せ、だなんて随分せっかちですのね。ですが、呼び出したのはこちらですもの。そちらの要望に沿うのが筋というものでしょう。——では、まず貴方様がお持ちの黒剣を見せて頂けないでしょうか?」
その言葉に終始無表情だったアーノルドの片眉がピクリと上がる。
予想外の言葉であったということもあるが、武器を見せろなどと言われて愉快になるはずもない。
「……それが要件か?」
「いいえ。ですが、場合によっては要件にも関係してきはします。ですが今日お呼びした本件とは別になります。もちろん渡していただく必要はありません。当然盗むつもりなど毛頭ありませんが、初めて会う人物を信用など出来ませんでしょう? ですが“噂“でとても素晴らしいものだと伺ったのです。見てみたいというのも商人の性。その美しい剣身を見せて頂けましたら、と。ああ、ですがお気になさらず。断られましても問題はございません。本当についでですので」
アーノルドの剣呑とも言える声色を受けようとも商業用のスマイルとでも言うべき笑みを浮かべるエルテミス。
肝が据わっているのか、はたまた己が害されるはずなどないと高を括っているのか。
とはいえその自信もまたおかしなことではない。
エルテミスの機嫌を損ねればそれが自身の益を、ひいては国益すらも損ねる事態に発展しかねない。
商人などそれこそエルテミスからすれば吹けば飛ぶような存在であるし、程度の差こそあれ王族でもない貴族などもいまやエルテミスからすれば、その格は商人とさして変わらない。
上の顔色を窺わなければならない者にとってエルテミスは逆らえない——否、逆らってはダメな相手となっているのだから。
それにアルトティア帝国が七帝家を、そしてエルテミスを交渉相手と認めた時点で他のほとんどの国は手出しできなくなっていた。
“現皇帝”と直々に交渉の席についたエルテミス。
その内容こそ外部には知れ渡っていないが、五体満足で帰ってきたということは交渉は成立。
その時点である意味ヴァレンヌ家は皇帝の庇護下にあると言ってもいい。
もちろんヴァレンヌ家もそんなことは望んでいないし、アルトティア帝国も皇帝もそんな事実を容認してはいない。
もし仮にエルテミスが皇帝の名を使い何かしようものならば容赦なく殺されるであろう。
だが一介の貴族達にとってはエルテミスを害することは帝国との商談に横槍を入れることにも繋がるのだ。
ただ魔道具を売ってもらえないだけでなく、アルトティア帝国からも睨まれる結果となる可能性が高いともなればもはや武力行使など早々にできるものではない。
張れるのは虚勢程度。
貴族としてのプライドが張る虚勢でなんとかエルテミスよりも自身の方が上に立とうとする。
だがそんな虚勢などエルテミスにはお見通しである。
逆に手玉に取り、その上で相手に損をした気持ちにさせぬように立ち振る舞っていた。
だがその自信ゆえに醸し出される高慢さは拭えてはいないし、拭うつもりもないもの。
言葉の端々に見え隠れする、自身の思い通りになるという自信と確信めいたもの。
上位者の振る舞いが滲み出ていた。
それが僅かに鼻につくアーノルドであったが、席を辞すほどの要求でもない。
「……まぁいいだろう」
手に取った黒剣を鞘からゆっくりと引き抜きテーブルの上に置く。
するとその部屋に感嘆とも取れる吐息が漏れる音が聞こえてくる。
その発生源は護衛の男、そしてアーリからもだ。
剣を扱う者ならば、アーノルドの持つ黒剣がどれほど凄まじいものなのかある程度は分かるだろう。
何より黒龍の鱗で造られたその剣身は壮麗なのだ。
一見、漆黒の黒い剣身であるが光で反射して醸される紫の光輝が見る者を魅了する。
まさに史玉の宝剣と言っても差し障りがない一振り。
“物のついで”程度に思っていたエルテミスはその予想外とも言える輝きに涎すら垂らさん勢いでテーブルから体を乗り出し凝視していた。
エルテミスに剣としての良さの是非など分かろうはずもないが、商人として培ってきた審美眼がその剣の価値を、そしてその優美さを余すことなく見通していた。
誰もが見惚れて言葉を発さぬ中、アーノルドは不快げに鼻を鳴らし、その剣を再び鞘に収めた。
少し名残惜しそうにしていたエルテミスであるが、テーブルから身を乗り出すという自身の失態を思い出したのか少しばかり頬を朱に染めて姿勢を正していた。
「失礼致しました。想像以上に素晴らしい剣でしたので……」
どこか言い訳のようにそう言い、咳払いをする。
「……想像以上か。どこでそれを聞いた?」
アーノルドが思い浮かんだのはバルトラーとの戦い。
その直前、盗み見ていた者を逃したというのは記憶に新しい。
「二週間ほど前にゲーテ・バルフォメット様と剣を交えましたでしょう?」
「……ああ、そういうことか」
険とした声色から一転、拍子抜けしたかのようにアーノルドの声色が柔らかくなる。
正直記憶からすっぽり抜け落ちていた。
「それを見ていた生徒の中の一人が教えてくださりました。……ただ単純に雑談の中で出ただけでございます。それゆえどうか個人情報を漏らしたなどと責めないであげてくださいませ」
少しばかり鋭い視線を受けたエルテミスは庇うようにそう言った。
「その程度でとやかく言いはしない。知られたくないのならばこうも堂々と腰に差さず、周目に晒さぬように後生大事にしまっているだろうさ」
「そうですか。ありがとうございます。ところで……その剣の銘は何と言うのでしょうか?」
「……『ネーロ・エル・ズワルト』だそうだ」
「ネーロ・エル・ズワルト……。どういう意味なのですか?」
「さぁな。付けたのはこの剣を打った奴だ。私はそこまで銘に興味もない」
名は体を為すという。
だからこそ愛剣の銘とその意味を大事にするものは多い。
だがアーノルドは“不思議なほど”その意味に興味がわかなかった。
渡された当時に何か言っていた気はするが、全くもって聞いていなかった。
「……で?」
いい加減前置きが長いと少しばかり苛立ちを込め、アーノルドが本題を促すと、部屋にチャイムのような音が鳴った。
聞き慣れぬ音にアーノルドの後ろ側から剣がガチャリと擦れる音が響き、少しばかりの沈黙が流れる。
黙したままのエルテミスに護衛の男が声をかける。
「……如何致しますか?」
チャイムの理由は単純だ。
店の者が料理を持ってきたのだ。
重要なことを話し合う場として使われるため勝手に入ることなどできない。
普通ならば護衛が応対し、入れれば良いだけである。
本来ならば互いの挨拶でも終えて、ちょうど良いくらいのタイミング。
だが今回に至ってはすこぶるタイミングが悪い。
アーノルドは料理よりも前に本題を話せと要求した。
ここで料理を運び入れるのはそれを無視するような形でもある。
いつも通りに料理を持ってくるように言っていたのは失策であった。
当たり前が常識にまでなって、そこに疑問を持たず他の可能性を排除していたとエルテミスは自身の慢心を恥じた。
アーノルドもまた料理を楽しみにしているだろうだなんて。
商人としてそれは最もしてはならないことだろう。
エルテミスは僅かに息を吐き、男に作り直すようにと伝えるように手信号で指示を出した。
男は一礼すると入り口の方へと向かおうとする。
「——その必要はない。わざわざ作り直させるくらいならば運び入れさせればいい」
その言葉にエルテミスは表情を僅かに硬くし、テーブルの下にある自身の手を思わず握り締めた。
男はエルテミスの方にチラリと視線を送り、エルテミスが頷いたのを確認した後に再び歩を進めた。
(なぜ? たまたま……?)
エルテミスの出した手信号は独自のものだ。
アーノルドが知っているはずもない。
だがアーノルドはエルテミスの出した指示を明らかに理解し、口を挟んできた。
そこに迷いや疑いといったものは一切見えなかった。
たしかに現状から料理が運ばれてきたこと、そしてエルテミスが料理を下げさせることを想像するのはできるだろう。
だがまずもって、アーノルドはあのチャイムの意味など知らないはず。
この国以外でこのような形態の店など存在しないし、調べた限りアーノルドがこの国に来てこういった高級店に出入りしたという情報もない。
もちろん前もってこの店の情報を集めてきているということも考えられるが護衛達のあの音への動じようからそれもしっくりこない。
あれは明らかに知らない者達の反応だった。
アーノルドだけ知っていて、護衛の者達が知らないなど普通に考えてありえないだろう。
エルテミスは込み上げてくる愉しげな笑みを浮かべないように自制した。
(知れば知るほどよくわからない人物ね。でも楽しいわ。最近張り合いのない相手しかいなかったから無意識にそっちを基準にしてしまっていたわね)
どいつもこいつも勝手に忖度してくるような奴ばかり。
楽でいいが商人としての実力は落ちる一方で全くもってつまらない。
エルテミスの心の内から新たな欲気と欲動が浮かび上がってくる。
(ああ、ダメよ。強欲は破滅を齎すわ。今日得るものは今日得るべきもの。それ以外はまたの機会にしないとね?)
ゾクゾクとするような感情を抑えながらエルテミスは平静を装う。
そんなエルテミスをアーノルドはただジッと見ていた。
「お待たせ致しました」
少しして、ワゴンのようなカートに数多の料理を乗せた複数のウェイターとウェイトレスが入ってくる。
そして着る服の衣擦れだけであとは物音一つ立てない見事な給仕をこなしウェイター達は部屋を出ていく。
こういった店ではコース料理の形式で出されることも多いが、今回は相手がアーノルド・ダンケルノということもあり、何度も人を出入りさせ警戒心を増させたくなかったために一度で全ての料理を運ばせる形式にしていた。
そこは正解だっただろうとエルテミスは満足げに微笑んだ。
煌びやかに皿に盛られた料理の数々。
普通の者ならばそれらを見て、感嘆に表情を崩すのだが、アーノルドは料理には目も暮れず給仕にきた者達しか眼中になさそうであった。
給仕が出ていったいまも料理には一瞥すらしていない。
「気になりますか?」
「……」
エルテミスがアーノルドの心情を察してそう問うが、アーノルドは眉を険しげに寄せるだけで何も言いはしない。
エルテミスはそんな態度も予想通りとばかりに機嫌良さげにクスリと笑いアーノルドが聞きたそうにしていることを話す。
「この国の高級レストランの従業員には強さも求められるのですよ。この部屋も大層頑丈な造りになっているでしょう?」
「……それだけ襲撃されることが多いということか?」
その言葉を聞いたエルテミスはあまりにも予想外の言葉だったのか、心底可笑しそうにクスリと笑っていた。
だがそれは小馬鹿にするような笑いではなかった。
「まさか、そのようなことは。他店との差をつけようとした結果、護衛も請け負えるという付加価値をつけただけに過ぎませんよ。そうした人材を雇えるのもまたそれだけ儲けているという証ですしね。私には分かりませんが、あのウェイターやウェイトレスの方々も大層強いのだそうで」
「くだらんな。この程度の店を使う者達ならばそれこそ護衛などいらないだろう」
「まさしくその通りでございますね。とはいえ慣例というものは恐ろしいもので、何十年も前からそれが当たり前になると、たとえ意味がないと分かっていようともそれをせざるをえないのですよ。そうしないということは出来ないと捉える者が多く……なんとも本質を捉えれない人が多くて困りますね」
「本質を捉えられないか……」
「ああ、ですがご安心ください。そうは言っても料理の腕は本物です」
嘲笑のような笑みを浮かべていたエルテミスであるが、料理の味には自信があるのかそこは優美に微笑んでいた。
「ご所望でしたら、料理の前にお話をさせていただいても構いませんが、せっかくの料理が冷めてしまっては台無しです。先に料理を食べるということでよろしいでしょうか?」
先ほどまでの遠慮した様子とは違い、それ以外ないでしょう?、とでも言うように口元に笑みを浮かべる様子はある意味別人のようでもあった。
それに少しばかり眉を顰めたアーノルドであるが、エルテミスの言うこともまた間違ってはいない。
「……好きにするといい」
アーノルドがそう言うと、エルテミスは満面の笑みを浮かべる。
「当然毒なども入っておりません。ご希望でしたら毒味も致しますが……?」
「必要ない」
マイヤーから渡された毒によって耐性をつけているアーノルドにはもはや生半可な毒は通じない。
それに基本的に毒味役は各々が用意するもの。
信用できない相手が毒味しようとも意味などない。
それから黙々と食事をするアーノルドとエルテミス。
普通なればここで和気藹々——とまではいかなくとも、親交を深めるのであるが、アーノルドから伝わる気配が“拒絶”であるがゆえにエルテミスもまた踏み込めず、護衛にとっては気まずい雰囲気が流れていた。
エルテミスはアーノルドの所作全てを具に観察する。
貴族であることなど当然知ってはいるが、そこでもまた知り得たアーノルドの情報から想像していた様子とはかけ離れていた。
テーブルマナーも知らない可能性があると踏んでいたが、アーノルドのテーブルマナーは全くもって問題ない。
いまのアーノルドを見れば、その所作は人を簡単に殺す粗暴な者とは思えないほど優美なもの。
「そういえば私たち二人とも黒髪ですね。私もここ数年で色々な人に会ってきましたけど、同じ黒髪……それも貴方様ほど純粋な黒色を持つ人とは会ったことがなかったです。黒髪ということで苦労されたのでは? 私もそうでしたのでどこか親近感を抱いてしまいますね」
エルテミスは表立って言われたことこそないが、不吉な黒髪と陰口を叩かれたことなど何度もある。
黒は不吉の象徴だと。
七帝家という後ろ盾があったからこそ、それが理由で断られるなどといったことはなかったが、それでも難色を示した者も幾人かはいた。
黒髪などと商売ができるかと。
幼い頃から他人の機微には敏感であったがゆえに、言葉にせぬ言葉もまた感じ取れてしまう。
今でこそその実力をもって黙らせているが、その言葉は幼かったエルテミスの心に落ちない汚れのように残っている。
エルテミスは口では親近感を抱くなどと言っていたが、その心の内にそんな気持ちは微塵もなかった。
だが共感というのは親睦を深める上では有用だ。
そこから話を広め、相手を理解し、自身の望む結果へと導けると。
だがアーノルドの反応がそれとは逆に反発でも問題がない。
感情を剥き出しにしてくれればくれるほどやり易いのだから。
そんな折、ガチャンとマナー違反なほど大きな食器が当たる音が聞こえ、思わずビクリとエルテミスの肩が跳ねた。
「やめだ。もう充分だろう。茶番はここまでだ」
アーノルドの金色の双眸がギロリとエルテミスを射抜いていた。
テーブルにはまだ半分以上料理が残っているが、アーノルドがカトラリーを置いたことで食事の時は終わった。




