12話
馬車が完全に止まり、外から下品な笑い声が聞こえてきたあたりでアーノルドは馬車の扉を開けて外に出た。
「おいおい! 標的がノコノコ出て来やがったぞ?」
「ギャハハハ、こりゃいい! 手間が省けるってもんだぜ!」
「あぁ⁈ おいおい、見ろよ! これだから貴族様はよッ! たかがガキの武器が見るからに高そうだぜ⁈ ありゃ俺らの報酬の何倍の値だ?」
「そう僻むなよ! どうせありゃ俺たちのもんになるんだからよ!」
「前みたいに奪い取ったやつの総取りは無しだぜ? 今回はちゃんと分けろよ?」
「ッチ! 野郎ばっかりかよ⁉︎ 楽しみが一つ減っちまったじゃねぇか! 女騎士の一人や二人用意しとけってんだよ⁉︎ お高くとまった女を犯してぶっ殺す楽しみがねぇじゃねぇか‼︎」
「そう言うなよ! 今回はそんなもんがなくても十分じゃねぇか⁈ 金もたんまり、地位もたんまりだ!」
「そうだぜ! 女なんてのはどこにでもいるんだからよ‼︎ これからは俺たちもご立派な騎士様なんだからよ! いつでもどこでも食いたい放題ってもんだぜ⁈」
アーノルド達を見て口々に喚く賊達。
アーノルド達の馬車を囲むように三○人はいるかという男達が武器を手に持っている。
アーノルドはギャハハと空に響き渡るくらいの大声で下品に笑っている者達になど目も暮れず辺り一面を見渡していた。
(くだらん雑魚共しかいないが……、さて、奴らはどこにいるか。それに妙な気配が混じっているな)
アーノルドがキョロキョロとしているのを逃げ道を探しているとでも思ったのか賊の一人が声をかけてくる。
「坊や〜、逃げる隙間なんてないんだよ? 大人しくその剣をお兄さんに渡してくれたらここを通してあげてもいいんだよ?」
まるで幼い子供に優しく話しかけるかのようなある意味馬鹿にした、その醜悪さを隠しきれていない笑みをアーノルドへと浮かべていた。
「ぎゃハハハハハハハ、なんだよその声! 誰がそんな下手な芝居に引っ掛かるんだよ! てか、お兄さんって……完全におっさんじゃねぇか! 願望混ぜてんじゃねぇよ⁉︎ ギャハハハハハハハハハハ」
「うるせぇ‼︎ 願望じゃねぇよ‼︎ まだギリお兄さんでもいけるだろうがよ⁉︎」
そのやり取りを聞いた賊達の笑い声がまたしてもその場に響き渡る。
パラクもコルドーも特に焦るようなこともなく、いまだ剣すら抜いていない。
コルドーは鋭い目つきで賊達を注視し、呆れるようにため息を吐いた。
「貴様ら一体いくらで雇われた?」
コルドーが気怠げにそう問う。
もし相手がこちらの情報を正確に把握しているならばこのような者達を送ってきても無駄なことくらいわかっているはずだが、とコルドーは心の中で疑問を浮かべていた。
「ああ? 俺たちは雇われじゃねぇよ!」
賊の一人がニヤリと嫌な笑みを浮かべ、威嚇するかのごとくその手に持つカトラスのように刃が湾曲に曲がった剣をブンッと振った。
僅かにオーラを纏っているため、その一振りで旋風が巻き起こる。
並の者ならば恐怖に慄く場面であろうが、コルドーはまたしても大きなため息を吐くだけ。
当然、くだらぬ問答になど付き合う気もなかった。
「貴様らさっき標的と言っていただろうが。雇われていないなどという言い訳は無理があると思うが」
コルドーがそう言うと、その男はそれまでの楽しげな表情を興醒めしたかのように一変させ、チッと舌打ちをした。
「……テメェのせいでバレてんじゃねぇか!」
バシっと剣の柄の部分で先ほどの発言をした者を殴っていたが、少し痛がる程度で仲間のじゃれあい程度であった。
「だが、それがバレたところでなんも変わらねぇよ。テメェもそっちの坊ちゃんもいまから俺たちにバラされるだからよ。テメェはともかくあっちの二人は高く売れそうだからもったいねぇが……、まぁ依頼主の要望じゃあ仕方ねぇ。せいぜい高貴なるお方に目をつけられたことを後悔して逝くんだな」
その男はねっとりとした視線をアーノルドとパラクに向けるが、その言葉を聞いたアーノルドがクツクツと笑い声を上げた。
「高貴なるお方ね……。おい。さっさと出てきたらどうだ?」
アーノルドのその声は大声というわけではないが、その場によく響き渡った。
数秒の間があった後に賊の後方から不遜な態度の太った子供と大きな槍を持った執事が賊の開けた道から歩いてくる。
その二人の顔には当然見覚えがあった。
「やはり貴様らか。予想に違わず拍子抜けもいいところだな。もう少し利口な奴かと思っていたが、どうやら買い被りであったか」
アーノルドは執事に視線を向け、そう吐き捨てた。
あの街の食事処とでも言うべき場所でアーノルド達とあわや一触即発になったハイルと執事。
ハイルの嗜虐心と優越感に満ちた表情からも、たまたま通りがかったなど到底あり得ないだろう。
そもそもハイル達の国は逆方向だ。
用事なくしてこちら側にいるはずがない。
執事にはあの場でヒントを出した。
それでもこうやって襲撃しに来たということは、アーノルドがダンケルノであると辿り着けなかった能無しか、辿り着いた上でハイルの凶行を止めなかった能無しか。
あの執事は食事処でこちらに譲歩するつもりがなかったとはいえ、アーノルドに対してこれ以上ハイルの標的にならないようにという配慮をした。
それゆえ、アーノルドも自身の正体がわかるようにヒントを与えたつもりであった。
だが、今ここに現れたということはそのヒントも全くの無駄であったということ。
この短い間に愚図二人に絡まれて、まさにうんざりといった様子であったが、ボルネイの始末を先送りにしたことで消化不良感はかなり強い。
最近は暗殺者の襲撃も減り、生死を賭けた戦いというのも長らくやっていない。
まさにちょうど良いかといった感じであった。
そんなことを考えていると、アーノルドがハイルではなく執事の方に話しかけたのが我慢ならなかったのか、ハイルが顔を真っ赤にして怒鳴ってくる。
「貴様ッ‼︎ この俺様を無視するか‼︎ 貴様のせいで俺様は受験資格すら失い、恥を晒して国へと帰ることになったのだぞ⁉︎ にもかかわらず、この俺様を前にしてその態度……、貴様いったい何様のつもりだ⁉︎ さっさと命乞いをして平伏すのが道理であろうが‼︎ それを見るためにわざわざこんなクズ共まで雇ってここまで来てやったのだぞ⁉︎ まずはそこに平伏し、この俺様がわざわざこんなところまで来てやったことに対する感謝を述べよ‼︎」
貴族とは思えない醜悪なる顔——いや、貴族だからこその醜悪な顔とでも言うべきか。
そんなハイルを鼻で嗤ったアーノルドはハイルの言など歯牙にも掛けず、少し気になったことを問う。
「貴様が引き連れていた護衛の騎士どもはどうした?」
この賊の中にはあの時いた十人ほどの騎士は一人もいなかった。
たとえ、賊として襲わせないにしてもハイルの護衛としてはいそうなものであるが、その気配が一人もない。
「ん? 貴様に発言の許可などくれてやった覚えなどないが……。まぁいい、寛大なる俺様は一々そんなことで目くじらを立てんからな。あの屑共なら——処刑したぞ」
ハイルはアーノルドの問いに煩わしくそうに鼻を鳴らし、嫌忌を滲ませながらそう吐き捨てた。
「まったく役に立たん屑どもだ。あの場で俺様のことも助けず、貴様も殺さんなど……。あのときさっさとあの屑共が俺様の意を汲んで貴様を殺していればこの俺様がこのような不愉快な気持ちにもならず、受験資格も失うこともなかったのだ。俺様の機微も悟れぬ愚物など生かしておくだけの価値もない。それにあの国の騎士共も道理のわからぬ屑共ばかりであったわ‼︎ 悪いのはどう考えても俺様の言葉にさっさと従わなかった貴様であると何度も言っておるというのに……、まったく……、言葉すら通じんとはな! 所詮貴族でもない下民などあの程度ということよ! はぁ、あのような国がよくもまぁ俺様達の国よりも上などと言えたものだ。大言壮語もここまでくるともはや呆れてものも言えんぞ? この世には貴様といい、あの屑共といい、この俺様を不快にする愚物どもが多くてかなわんな」
ハイルは心底この世に呆れているかのように大きくため息を吐いた。
だが、その息が吐き終わるよりも前にアーノルドが口を開く。
「あの場であの騎士共がこの私を殺せるとでも?」
このハイルがいまのアーノルドの実力を読み取れているとは思えないが、いまの状況をわかっているのかという問い。
だが、ハイルは何を言っているんだと、当たり前のことすらわからぬ愚か者でも見るかのように訝しげに眉を寄せた。
「当然であろう。あんな者どもがどうなろうと俺様の知ったことではない。奴らがあの国の騎士共に殺されようが捕まろうがこの俺様のために尽くすのが従者の存在意義だ。その命を賭してこの俺様を喜ばせるために動くのが騎士であろう。騎士の命などそれ以外に価値などないであろうが。まったく……、父上が優秀な者と言うから連れてきたというのに使えんやつらであったわ」
ハイルはどうやら、あの国の治安部隊の騎士達がいる前で使い捨てのように騎士を使いアーノルドを殺してもよいのか、という問いとして捉えたようであった。
どちらにせよアーノルドの実力など微塵たりとも読み取れていないという返答には違いない。
あの程度の騎士ではアーノルドには傷一つ付けられないことなど相応の実力があれば読み取れる。
ハイルの実力は当然ながら従騎士級にすら及ばないだろう。
それどころかまともに剣を振れるのかすら怪しそうである。
十歳で従騎士級になるということは少なくともパラクと同等の才はあらねばならない。
そんな者はこの世に一握りしかいないであろうが、その一握りの才能を有する者達が集うのがあの学院とも言える。
どの道ハイルがそのまま試験を受けていたとしても受かったかどうかは定かではないだろう。
むしろまともに受けて落ちていた方が恥を晒していたであろう。
「おい、そんなことはどうでもいい! さっさと這いつくばらぬか! この俺様を前にしていつまでも頭が高いぞ⁉︎ まったく……、下賤なる者は礼節というものを知らなくて困るわ! まず俺様が貴様の視界に入ったら、跪いてこの俺様の目に留まるための許しを乞うのが当然であろうが! ここはもはやあの愚国ではないのだぞ? 父上があの国では大人しく力を隠しておけなどと言うからあの場では赦してやっていただけだ! 俺様が寛大だからと付け上がっておるのか? それとももしや、貴様の命などこの俺様の手のひらの上だとわかっておらんのか? ——はぁ、一から説明せねばそんなことすらわからんとは、愚鈍なる者はこれだから嫌いなのだ。だが、これで説明してやったのだからわかったであろう? さっさと平伏せ愚物。そして足を舐めるとでも言うのなら、貴様の犯した大罪を赦免し命を助けてやることを考えてやらんでもないぞ? ん?」
豚のように鼻を膨らませて得意気に睥睨してくるハイルの顔を見てアーノルドは堪えきれず笑い出す。
「滑稽も極まればなかなか愉快なものだな。命乞いというものは弱者がするものであるが——貴様はどう思う?」
アーノルドはハイルを無視し、執事の方に問いかけた。
「……その通りかと思われます」
執事は神妙な表情でそう答えた。
「貴様の配慮に対してこちらも配慮をしたつもりであったが、どうやら無駄だったようだな。ああ、いや、それとも——私程度ならばどうにかなるとでも思っていたのか?」
アーノルドの淡々とした、だが鋭く放たれた言葉に対して執事の男が少しばかり表情を顰めた。
「図星か? まぁそこまでは知ったことではないな」
食事処で会った際にはアーノルドだけでなく、コルドーやパラクまでもが自らの実力を隠す魔道具の指輪を身につけていた。
だが、いま三人はその魔道具を身につけていない。
執事の男はアーノルドを含め三人の大体の実力を感じ取れているはずである。
少なくとも誰一人簡単に御せるほどの実力ではないと。
この執事とて弱くない。
それこそ賊などとは比較にならぬ実力者であることが読み取れる。
そしてそれこそがハイルの自信の源であるのだろうが。
「おいおい、いつまで俺たちは待ってりゃいいんだ⁈ 我らが偉大な主人様に従わねぇってんなら、力尽くでさっさとやっちまえばいいじゃねぇか? いつまでぐだぐだと喋ってんだよ!」
アーノルドと執事の男の会話に賊の男が痺れを切らしたのか剣を鳴らしながらアーノルドへとゆったりとした動きで近づいてくる。
その姿は隙だらけとも言っていいほどアーノルドを舐めきっている。
「——痴れ者が」
アーノルドはその男が自身の間合いに入った瞬間、漆黒の剣の柄に手をかけ神速の一閃にてその賊の首を斬った。
「あ——?」
アーノルドの言葉に眉を顰めた賊の男は斬られたことに気づくこともなくそのまま首がずり落ちて絶命した。
果たしていまの一閃を目で追えた者がこの中にいたのかどうか。
ハイルと周りにいる賊の男達は何が起こったのか理解できず、驚きに目を見開くだけであった。
だが執事の男はさもありなんと達観しているような表情を浮かべている。
常にハイルを守れる立ち位置にいるのは見事なものであるが愚鈍にすぎる。
いま唯一ハイルと執事に活路があるとするならば、それこそこの賊共を盾にして逃げることだろう。
「邪魔だな」
アーノルドがそう言うと、アーノルドが醸し出す濃密なまでの死の気配に気圧されたのか賊共の半数以上が逃げ腰になり、ジリジリと下がり始める。
賊共とてこの世界一般では弱くないのだ。
弱くないからこそあれだけ横柄な態度を取れる。
そもそもこの賊の正体は傭兵団だ。
騎士級数名に従騎士級クラスの剣士で構成される傭兵団。
だが、騎士級という戦力がいるゆえにその態度は横柄も横柄、やりたい放題の賊と変わらぬ者達だった。
試験期間に来る貴族の令嬢でも攫おうかと考えてあの国に来たはいいが、配備されている騎士が多すぎて犯行に及ぶのを躊躇っていた時にハイル達から声がかかったのだ。
だからこそ、その身に鬱憤も溜まり、アーノルド達で発散してやろうなどと考えていた。
与えられていた情報はとある国の男爵の子。
それも娼婦の子という卑賤なる子。
だが、貴族にとっては卑賤なる子であっても、賊にとっては宝の子だ。
貴族に見初められた娼婦の子というのは運が良ければ顔がとびきり良い。
父親はともかく母親は貴族に見初められるほどの美貌の持ち主だからだ。
それに貴族の中にはそういった薄汚れた血の者を痛ぶって悦ぶような好事家もいる。
売ればそれこそプレミア価格。
だからこそ奴隷になるというのは死ぬ以上に悲惨なこともある。
頼まれた依頼は跪かせた上で殺せというものであったが、浅慮そうなハイルを説伏できれば更なる金も入ると画策していた。
強大な後ろ盾がある上に、報酬として金と騎士という身分を与えるなどという甘言に乗ってこの依頼を受けた。
だが、賊達とて流石にアーノルドが尋常ではない者だということはいまのアーノルドが醸す気配からわかってしまった。
それに殺されたのは騎士級の者。
油断一つで殺されるほど甘い人物でなかったことなど賊の方がわかっていた。
騙されたなどと思う余裕すらない。
いま考えるべきはどうやってこの場を切り抜けるかということだけ。
「——おい」
何かを呼ぶかのようにアーノルドが低く一言発すると、アーノルドの周りに黒い服で身を包んだ顔もわからぬ者達が跪いた状態で忽然と現れた。
諜報に出ていた者達だ。
姿を消していただけで周りにはいたのである。
「命を下す、逃げた者どもを一人残らず殺してこい」
アーノルドがそう命令すると黒ずくめの者達はそのまま消えるように行動し始めた。
黒服達を見た時点で既に逃げた者も多い。
当然だろう。
自らが存在を感じることさえできなかった者達が十数人といるのだ。
勝てるなどと考えるバカはいないだろう。
その様子をハイルは目を大きく見開き、歯噛みしながら見ているだけだった。
何を思っているのかは読み取れないが、恐怖や畏れといった表情ではない。
逃げた者達への使えなさに憤っているというのが最も近いだろう。
自分の命に背いた者達を赦せぬと憤りをその胸に抱いているように見える。
賊の中でも比較的強い数名の者達は襲いかかってこそ来ないが、顔を強張らせ剣を構えてアーノルドへと忌々しげとも呼べる視線を向けている。
その者達は何も依頼を完遂しようなどという矜持で残っているのではないだろう。
ただ今まで逃げたことなどないから、逃げ方など知らず、ただ己が感じる負の感情すべてをアーノルドのせいにしてぶつけることしかできないのだ。
——子供ごときがよくも俺を不快に、そして臆させたな、と。
「逃げずに残っている者達は、パラク、お前がやれ」
パラクはその言葉を聞いて意外そうに目を見開いた。
それに戦いを譲られるだなんて思っていなかったため、返答に一拍遅れる。
「は、はい」
パラクがそう言って自らの剣を抜き放った。
その顔はもう既に騎士のそれだ。
アーノルドは煩わしそうに一息つき、執事の方へと視線を戻した。
だがアーノルドが口を開くよりも前に、ハイルが口を挟んでくる。
「おい、貴様‼︎ 良い剣を持っているではないか! この俺様が使ってやるからそれを寄越せ! フフン、この俺様の目に留まったことを誇りに思うといいぞ! それを俺様に献上する栄誉をくれてやるのだからな! その上、いまの俺様は機嫌が良いからそれで貴様の罪を一つ赦してやってもよい。……なんだ、どうした? 感に堪えて言葉も出んか?」
ハイルはアーノルドが何も言わず、動かぬことを自身の行動に対する感謝と感動に咽いでいるとでも思っているのだろう。
状況を理解していないのか、そこには自ら雇った賊が殺され追い詰められているといった様子はない。
むしろアーノルドの剣を見つめ、喜色に満ちた表情を浮かべている。
手に入れた後に想いを馳せ、だらしなく鼻を伸ばしているといった有り様だ。
ハイルが腰に差す剣は豪奢にして華美に塗れた剣である。
宝石がゴテゴテと付けられており、とても実戦に適したものとは思えぬただの飾りのような剣だ。
それに対してアーノルドの剣は瀟洒にして洗練された優美さを伴っている剣である。
まさしく見る者を魅了する宝剣に相応き二振り。
アーノルドが先ほど抜き放ったのは漆黒のごとく黒き鞘に入っていた、剣身が黒紫色に黒光りする黒剣である。
見る者に魔を魅せる至極の剣。
まるで闇夜で輝く月光のごとく紫黒に鈍く輝いているというのに、その逆、まるで黄金のような、鮮麗のごとき印象をその胸に抱かせる。
ハイルが好む下品なほどの宝石に彩られた剣とは真逆の素朴で簡素なものであるが、それがハイルを魅了するのも当然といえるものであった。
その剣はアーノルド自身が修練の中で遭遇した厄災級の魔物にしてドラゴン種の中で最も凶暴で強力な黒龍を倒したことで手に入った鱗を使い、ドワーフの国にいる名匠に造らせたものだ。
その黒龍は子供といって差し支えないほどのまだ若い龍であったが、その強度と鋭さは折り紙つきである。
ドラゴンの鱗はこの世の最強硬度の物質というわけではないが、硬度に対する斬れ味の良さでは最高クラスであることは間違いない。
それに剣の元となった鉱石もまた異質なるもの。
上位とその一つ上の惨禍級の魔物が犇くとある火山地帯。
並の者ならば入ることすら叶わぬ超危険特区。
そこで、ある魔物が数百、数千年という月日をかけてその場の溶岩によって、溶かされ固まる、という工程が幾度なりとも繰り返されることによって生み出されるカンタウム鉱石という、これまた黒漆に輝きを放つもの。
もはや書籍にすらほとんど載っていない稀少さは群を抜いている超硬度の鉱石だ。
当然並の者では扱えない。
アーノルドが抱える武器職人にも匙を投げられた。
そもそも鉱石を加工することすらできなかったのだ。
だからこそアーノルドはドワーフ王国にまで赴いた。
剣の値段は素材を持ち込んだにも関わらず、実に約五○○○億ドラ。
法外とも言える値段であるが、そうでもない。
カンタウム鉱石はその稀少さゆえに扱ったことがあるドワーフなど当然いなかった。
だが、ドワーフは扱ったことがないからと断念するような種族ではない。
むしろ扱ったことがないからこそ扱わせろと言うタイプだ。
当然ドワーフの中でも腕利きの者達が出てくる。
ドワーフの国はその腕が良い者ほど上に立つ。
謂わば国王というのはドワーフの中で最も腕がいいと認められた者。
ドワーフ王国は国といっても、他の国のように外交や政治をやっているわけではないのでそれでも国として成り立っている。
国というよりは長とそれに従う下の者という構図だろう。
人間よりも権力などといったものに縛られぬゆえに、トライデント魔導王国などよりもさらに実力によってその者の地位が決まっていると言っても過言ではない国だ。
アーノルドの剣に携わったのは、国王と四腕と呼ばれるドワーフの中でもまさに技神に入る腕前を持つ者のうちの二人を足した計三人。
そして製作期間は約一年。
馬鹿げた値段ではあるが、それに見合うだけの技術と歳月がかけられた一振りと言えるのだ。
アーノルドもその値段には納得している。
むしろ鉱石の量に対してよくこれほどの一振りを造り出せたと驚嘆したほどだ。
アーノルドとてまだ手にして数ヶ月。
なんならまだ試し斬り程度でこの剣に見合うだけの敵を斬ってすらいない。
それを寄越せなど、あまつさえアーノルドのものを奪おうなど、何一つ生かしておく価値もない蒙昧の愚物である。
といってもアーノルドは激怒するほど怒りを感じているわけでもない。
どちらかといえばただ呆れているとでもいったほうが近いだろう。
アーノルドはハイルを一瞥だけして執事の方に視線を向けた。
「一つ問おう。貴様はこの私が誰だか分かっているのか?」
敢えてダンケルノという名は出さなかった。
フレベリックスという姓は既に知っていたはずなので、それで十分だからだ。
「はい」
執事は特に言葉を飾ることもなく短く簡潔にそう返答した。
「ならば、そこの愚物にそれを教えていないのか?」
「……主人を愚物呼ばわりというのは到底見逃せぬ戯言でございますが、質問にお答えするのならば、当然お教えしております。最終的な判断を下すのは当然ながら——」
執事の言葉を途中で止めたのはアーノルドから漏れ出る嘲笑の色すら孕んでいそうな含み笑いであった。
執事が訝しげな表情を浮かべ、その侮辱とも取れる行為の所以を問い質そうとするが、程なくその含み笑いももはや下品とも言えるほど容赦ない哄笑へと変わった。
辺り一帯にすら轟き渡るほど憚ることをしらぬアーノルドの笑い声がその場を支配する。
アーノルドは何も狂ったわけではない。
ただこれが笑わずにはいられるかと。
あの愚物は知った上で襲いかかってきたと言う。
慢心していたつもりも驕っていたつもりもない。
だがそれでもまだアーノルドをアーノルドと知って尚、こうも短慮に手を出してくる輩がこの世界にはいるという事実に笑いが止まらなかった。
自分の物を奪おうとし、自身の領域を侵し、命を奪わんとする者。
それも自身は何も力を持たぬただの愚物に過ぎぬ凡愚。
そんな者にすらまだ手を出されるという事実。
最近周りが大人しかった故に忘れていたのだ——いや、やはり忘れていたわけではなく慢心し驕っていたのだろう。
でなければ、愚か者がこの世から消えることがないという事実を忘れるなどということはありえない。
「——なるほど、よく分かった」
アーノルドは犬歯を獰猛に覗かせながらそう低く呟いた。
「おい、貴様‼︎ 何を笑っておったか‼︎ この俺様を前にしてああも不遜に笑うなどと良い度胸だ‼︎ それどころか、この俺様をまたしても無視するとは——この不届き者が‼︎ さっさとその剣を差し出せ‼︎ 二本ともだ! この俺様をこれ以上待たせるな!」
ハイルはもはや同じ場所にいて、同じ言葉を聞いていたのかと思うほど空気を読まず、地団駄すら踏みそうな勢いで傲慢なる言葉をその口から吐き出していた。
ハイルにとってアーノルドの言うことなどどうでもいいのだ。
すべては自分の言ったことが正しく、履行される世界。
自らの望みが今まで叶わなかったことなどない。
どんなものでも、誰のものでも、ハイルが一声望みさえすれば、たとえそれが人であれ手に入る。
ハイルはさっさと差し出せとその剣を催促するように自身の手を無造作に突き出してきた。
少なくとも自分から取りに行くなどという思考は持ち合わせていないようで、その場にふんぞり返ってアーノルドが持ってくるのをいまかいまかと待っている。
その瞳は渡されないなどとは微塵も思っていないことを物語っている。
ただアーノルドを屈させるために言っているのではなく、本気で言っているのだ。
アーノルドがその剣を自身に呈上してくるのが当然だと。
そこに何の疑いも持っていない。
相手が拒否するなどということを考えない。
アーノルドはそんなハイルなど眼中にないかのように相手にせず、またしても執事に話しかける。
「止めなかったのか?」
「——主人の望みを叶えることこそ臣たる者の努めですので」
執事は一瞬ハイルを差し置いて話して良いものかと逡巡したが、質問に対しては一切の迷いなく毅然とした態度でそう返答した。
「それが死への道であってもか?」
その問いには執事も僅かにくぐもった唸り声とでもいうべき声を出した。
「……それをどうにかするのが我ら臣たる者の勤めですので」
実際には死へ通じる道などとは思っていなかったのだろう。
何せ、あの場でのアーノルドなどボルネイにも舐められる程度にはその力がおさえられていた。
いま目の前にいる執事の実力は、ハーメティアには及ばないだろうが、ボルネイよりは遥かに格上だ。
あの時のアーノルド達ならば、どう足掻こうが勝てるような相手ではなかったのだ。
「なるほどな。教育する者が馬鹿であるというのは悲惨であるな」
アーノルドはそう吐き捨てた。
別にこの執事が愚者だというわけではない。
臣下としては正しい姿であろう。
だが、真に忠臣であるならば、ただ唯々諾々と主君の命に応えるのではなく、時には諌めることも必要であろう。
それに、何でもかんでも好き勝手させるなど、上に立つ者への教育ではない。
それはただの暴君の育成に他ならない。
「貴様らは教育というものを履き違えているようだな。王には王の、貴族には貴族の、平民には平民の、その者に見合った教育をせねばならん。強者が強者たり得ることなど当たり前のことだ。そんなことを教える必要はない。だが、弱者に強者の法を施すならば、それ相応の覚悟を持たせなければならん。他者よりも優れていると教え、優越感を与えるだけの作業になんの意味がある。貴様らが真に教えるべきは自身よりも強者に相見えたときどう行動するかだ。それを教えぬから身の程も弁えず傲慢なだけの子供が出来上がる。大した力もないくせにつけ上がるだけの子供がな。他者の力は己の力たり得ない——そいつはそんなことも知らんのだろう?」
アーノルドは不愉快そうに鼻を鳴らしながらハイルを蔑むように一瞥した。
「貴様!! 何をごちゃごちゃと言っておる?! この俺様が貴様ごときにどう振る舞おうが何一つ問題ないに決まっておるだろう!? 俺様は強者で、貴様は弱者だ! ——よもや、ダンケルノ公爵家というだけ見逃してもらえるとでも思っていたか?」
そう言ったハイルはまるで最後の希望を絶ってやったとでもいうかのような奸悪なる笑みを浮かべて愉悦に浸っていた。
まるでマジックの種明かしをしたくてたまらなかった子供が遂に種明かしをしてやったというような嬉々とした表情だ。
「それに知っておるぞ? 貴様は卑しき娼婦の子であろう? 貴族にすらなりきれぬ半端者の分際でよく恥ずかしげもなく生きていられるもんだな? まぁ俺様のような神のごとき崇敬なる貴族として振る舞いたくなる気持ちもわからんでもないが、真似事をするのは下民共だけにしておくべきであったな?」
ハイルはそう言うと大口を開けて笑い声を轟かせ、そしてその後、優越感とでもいう笑みを浮かべて見下すような視線を向けてくる。
「それにもうダンケルノなど過去の遺物にすぎん。どいつもこいつもその名に怯えているだけだ。この俺様はそんな見せかけの虚飾になど恐れを抱かん。俺様がダンケルノという名ごときで貴様に怯むとでも期待しているのならば、そんな大望は早々に捨て去り、さっさと跪くといい。強者とはな、何をしようと赦されるから強者なのだ。貴様のように経歴を詐称し、自身を大きく見せぬとも勝手に付き従う者がいる。誰を虐げようが、誰を殺そうと、俺様に文句を言える者など我が両親と我が国の皇族たちだけよ! 貴様ごときが俺様に諫言しようなどと、身の程を弁えろ‼︎」
そう言われようともアーノルドに怒りの表情は浮かんでいない。
と言うよりもハイルのような愚者には興味がない。
自分自身の力に酔いしれ妄信しているようなものに何を言っても意味などないのだから。
「案の定とでも言うべきか——貴様はどう思う?」
アーノルドは執事に対して問いかけた。
「貴様ッ!! いま話しているのはこの俺様であろう‼︎ 貴様のような下賤なる者にこの俺様が直々に言葉を賜わせてやっただけでも感涙に咽び泣くべきだというのにっ……、またしてもこの俺様を無視するとはッ! その不敬、もはや万死に値する大罪であるぞ!!」
ハイルが喚く声だけが響く。
「うるさいぞ。この場で語る資格があるものは強者だけだ。貴様は黙っておけ」
威圧すら込めていないただの言葉。
だが意外にもハイルは忌々しげに鼻を鳴らし、口元を歪めるだけでその後の言葉を引っ込めた。
アーノルドはそのハイルの態度に訝しげな視線を向けるが、黙るのならばどうでもいいかと執事に向き直る。
アーノルドはハイルにはとことん興味がないのだ。
「——それで? 今この状況においても貴様らの教育というものが正しかったと断言できるのか?」
アーノルドにとってあの聞くに耐えぬ戯言をほざくだけの人間などを育てて何がしたいのかなど到底理解できない。
ただ権力だけを持っているだけで何もできぬ人間など最も忌避すべきものであろうに。
「はい、何一つ間違いなどございません」
だが、執事は何の逡巡もなくそう断じた。
「そもそも我々がハイル様を教育しようなどという考え自体が烏滸がましいことでございます。ハイル様は間違いなく生まれながらの強者であり、何をしても赦されるお方でございます。間違っていることがあるとすれば、それは我々従者がハイル様の望みを叶えれない程度の実力しか持つことができなかった非力さにあります。私共はただハイル様の征く道を阻む者を排除するだけでございますゆえ」
その言葉に対するアーノルドの返答は、怒りでも嘲りでもなくしばしの沈黙であった。
「——なるほど。その回答は気に入った」
そう言ったアーノルドは喜悦とも、嗤笑とも取れぬ、何とも言えぬような笑みを浮かべていた。
執事は思い描いていた反応どころかむしろ好意的とも取れる反応が返ってきたことで逆に警戒を強め、訝しげにアーノルドを見据えていた。
執事にとっての至上命題はハイルだ。
全てにおいてハイルを優先し、優遇し、その願い全てを叶える。
それこそが自身の為す道であり、疑いなど持つ必要もないこと。
だが執事とて、世間一般でハイルが受け入れられるなどとは考えていない。
だからこそ蔑みか、怒りか、嘲笑か、そのような態度が返ってくると思っていたのだ。
だが、アーノルドから感じた感情は好意とも取れるもの。
本来そんな念を感じるなどありえぬもの。
だからこそ執事の頭は軽く混乱していると言っていい。
だがその好意すら伴っていそうな雰囲気もアーノルドが瞬き一つすると、嘘であったかのように消え去った。
刹那、執事の体に電撃のような怖気が駆け巡る。
「——だが、弁えているか? その理屈を通せるのは強者のみだと。弱者にはそんなことを夢見ることすら叶わぬのだと」
物理的な圧すらも伴うアーノルドの問いかけ。
ハイルはまるで首を絞められ呼吸ができないかのようにその表情を苦悶に染め、執事もまた地に突いていた槍の石突を浮かせ、腰を落とした。
もはや戦端の火蓋が落とされるのも時間の問題というほどその場の熱が高まっていく。
それに水を差すかのように黒服の一人が逃げた賊の首を持って忽然と現れ、アーノルドの側で跪いた。
「アーノルド様、お取り込み中、申し訳ございません。ネズミを一匹取り逃してしまいました。残りで追っておりますが、おそらくは難しいかと……」
その者の顔色はその顔を覆う布ゆえに窺えないが、その声色はまさに慙愧に堪えないとでも言わんほどに申し訳なさが漂っている。
ネズミとはアーノルドが最初に気配を探った時に気がついた覗き見をしていた者のことである。
“一人残らず殺してこい”とはこのネズミも含まれていた。
わざわざアーノルドの力を見せてやるつもりもなかったゆえに。
だが、いま追っているであろう大騎士級であるシーザーですら逃したのなら相応の実力者であったということだ。
どこの間諜かはわからないが、なかなか腕のいい者がいるようである。
「まぁよい。深追いはするなと言っておけ」
アーノルドがそう言うと、黒服はまたしても忽然と姿を消した。
パラクも既に賊を始末し終わっている。
パラクは現在騎士級の中でも上位に相当する力を有している。
相手の賊にも騎士級が数名いたが、パラクと賊程度では地力も経験も段違いである。
戦闘経験という意味では賊である傭兵団も引けを取らないだろうが、パラクとは普段戦っている相手が違いすぎる。
ただ雑魚を何人、何体倒そうとも、自身よりも格上との戦いを常に強いられているパラクの相手になるはずもなかった。
当然の結末として、いまこの場にはもはやハイルと執事しか残っていない。
だがハイルは未だにその顔に焦りも、恐れも何一つない。
あの執事がいるからか、それともただ単に何の根拠もなく自分は死なぬとでも思っているのか未だにその顔に浮かぶは蔑みと嗜虐の色だ。
それに加え、先ほど感じた苦悶ゆえかアーノルドを敵意にも満たぬ、そよ風とも呼べる程度の視線で睨みつけている。
一方、執事の方の顔色もお世辞にも良いとは言えないだろう。
たとえあの執事がアーノルド達よりも強いのだとしても、無力なる者を護りながら戦うというのは単純に強ければいいというものでもない。
一瞬でも足止めをくえばその隙に他の者がハイルを殺すことができる。
護るということは同数以上、もしくは相手を圧倒できるほどの実力が必要となるのである。
それを執事は満たしていない。
だからか、執事はいらぬことを口にする。
「一つ……、貴方様にお伝えしておいたほうが良いことがあります。ハイル様はアルトティア帝国の皇族に連なるお方でございます」
執事はまるでそれが善意であり、重大発表とでもいうかのように厳格に、そして粛然とそう告げてきた。
アーノルド達がそれを知らないとでも思っているのだろう。
だが、当然そんなことは知っている。
ハイルはたしかにアルトティア帝国の属国の公爵家の人間であるが、ハイルの祖母にあたる人物がアルトティア帝国の皇女であった。
何せ、ハイルの元の国が滅ぼされた本当の理由はこの皇女がハイルの祖父に惚れたというだけの理由に過ぎないのだから。
一般的には知られていないことであろうともダンケルノならば知っている。
つまりはハイルもまた皇位継承権こそないが一応は皇族の血を引く者ということだ。
帝国において皇族の血を引く者を殺すなど皇帝と帝国そのものに弓引く行為に他ならない。
普通の者ならばどれだけハイルが憎かろうがその矛を収めるだろう。
だが、アーノルドの双眸に宿るのは冷酷にして凄惨なる蛇蝎のような色。
先ほどまであった情のようなものは、もはや幻影であったかのように窺えない。
この執事は敵ではあるが、強者として、そして一角の人物としての敬意を伴ってアーノルドも接していた。
だが、それが消えたのである。
「——度し難い。まさに度し難いほどの痴言だな。ここまで舐めらているとは怒りを通り越してもはや心外だという言葉すらも出て来ぬわ。私が貴様ら帝国や皇族を恐れているとでも思っているのか? その程度で私が考えを変えるとでも? よもやそんなものを貴様は当てにしていたのか? 失望させてくれる」
アーノルドの静かなる言葉に反応するようにアーノルドを中心とする力の奔流が巻き起こる。
自らの中に眠る力が漏れ出ることによって起こるオーラの奔流である。
アーノルドは誰であれ傅かぬ。
それを知らずともダンケルノがたとえ王であろうと傅かぬことなど知っているはずだ。
にもかかわらずあのような愚弄を宣うというのはアーノルドならば国を、皇族を、敵に回せぬだろうと舐められている証。
ハイルは襲い来る風が煩わしいとばかりに執事の後ろへと泰然と移動する。
それはまるで日常の最中にいるかのような動きだ。
未だその顔にはやはり恐れなどというものはなかった。
執事は警戒を露わに顔を険しくしているが、アーノルドに対して浅く一礼した。
「名誉を汚すつもりではございませんでした。気分を害されたのならばお詫び申し上げます」
その執事はアーノルドの様子を見て謝罪したが、別にアーノルドの迫力に屈したわけではない。
ただ貴族に仕える執事として、相手の貴族に対する礼節を弁えただけに過ぎない。
執事の無礼は自身の主人の名を穢すことになるゆえに。
たとえ他に誰も見ていなくともこの執事にとってはハイルの名誉が大事なのだろう。
アーノルドはくだらぬと小さく吐き捨てた。
「そこの愚物が皇族の血を引いていることなどとうの昔に知っている。たかが一国の皇族ごときが笑わせてくれる。皇族などというだけで誰もが傅くとでも思っているのか? 自分たちの世界で完結している者は相変わらず視野が狭い」
アーノルドはもはや吐き捨てるようにそう告げた。
いまにでも斬りかからん迫力を伴っている。
「……私も一つよろしいでしょうか?」
執事が警戒を露わにしながらも、少しばかり控えめにそう聞いてくる。
アーノルドは顔を僅かに動かすことで了承の意を示した。
「感謝致します。貴方様は先ほど『真に教えるべきは自身よりも強者に相見えたときどう行動するかだ』と仰いましたが、国というのは貴方様よりも強者に相当すると思うのですが——」
「何を勘違いしているのか知らんが、私は何も己よりも強き者に傅けなどと言っているわけではない」
アーノルドはもはやそれ以上聞く価値もないとばかりに執事の言葉を遮った。
大方、帝国という強者に対しては媚び諂うべきだとでも述べるつもりだろう。
個人が国に反抗するなど普通なればありえない。
だが、思い違いも甚だしい。
「私が言いたかったことは、そこの愚物が果たして自分の行動によって起こりうる結末に対して覚悟を持っているのかということだ。強者と相見え、傅き、阿り、命乞いをする。それもまた一つであろう。逆に、強者と相見え、命乞いもせず、自分の為すがままに振る舞う。これもまた一つだ。だがそれらの選択には共に代価が必要となる。前者は尊厳と矜持を、後者はその命を天秤に乗せねばならん。その愚物は後者を選択しているが、そいつはそこに死ぬ余地があることを想像しているのか? 死んでもいいという覚悟を持っているのか? 私にはそうは思えん。ただ他者の力と権力を振りかざして傲慢なだけの子供だ。ただ高みから私を殺せるなどと何の根拠もなく妄信しているだけであろう」
その言葉に対して執事は眉をピクリと動かすだけで何も反論はしなかった。
「私は自分よりも強者にどんな態度を取り、その結果何が起ころうと、己が死のうが、それを受け入れる覚悟を持っている。自身の生き様を貫いた結果ならば、たとえ死という結末を迎えようともそれこそが自身の生き様だと、誇って死ねる。そこで謙り、阿るくらいならばもはや死んだ方がマシだからだ。だからこそ、その時の気分一つで、赦し、殺し、嬲る、そのように自由に思うままに振る舞うことを是としている。だからこそ、たかが国や皇族ごときに傅こうなどとは微塵も思わん。貴様の主人のようにただ何も考えず権力だけを盾に威張り散らしている者と一緒にするな。極めて不愉快だ」
アーノルドがまるで猛獣が威嚇するかのようにその歯を覗かせ不快そうに鼻を鳴らすと、それまでずっと黙っていたハイルが喚き声とでもいう尖り声をあげる。
「ごちゃごちゃとうるさいぞ‼︎ 卑賤の者がこの俺様に随分と大言を吐くから、いったいどのような戯言を宣うのかと黙って聞いてやれば……、道理もわかっておらぬ愚か者の言葉というのはやはり自分のことばかりで理解し難い戯言にすぎんな! 下の者の言に耳を傾けるのも上に立つ者の務めなどと、やはりそんな言葉は所詮下の者の顔色を窺わねばならぬ弱者の理論よ! 真に上に立つ者が下の者の意見になど耳を傾けようとも何一つ得るものなどないわ‼︎ 下々の者に上に立つ者の思想、理念、道理、何一つわかるはずもないのだからな! 貴様の言葉も所詮は弱者の理論よ‼︎ 殺される覚悟だと? この俺様が殺されるわけないだろう⁉︎ 俺様はこの世の覇者たる皇族の血を引く者だぞ⁉︎ 誰であろうとこの俺様に手を出せるものなどおらん‼︎ この俺様の存在そのものが力だ‼︎」
ハイルは自らに酔いしれているかのように天に手を伸ばし、哄笑し出す。
パラクもコルドーもそんなハイルを呆れたような目で見つめため息を吐くだけであった。
「ダンケルノなどというちっぽけな国の公爵家程度が粋がるでない。この俺様が皇族の血を引く限り、それだけで貴様などもはや俺様にどう足掻いても手を出せんだろう? いくら貴様が不遜な態度で勇ましく誤魔化そうと、この俺様にはそんなことお見通しよ! 卑賤な者の考え程度、この俺様には手に取るようにわかるのだ! まったく、俺様に殺されるのが怖くて先延ばしにしたいという寸劇もなかなか愉快ではあったが、もう貴様の戯言には飽きてきた。もはやここまでだ。もうくだらん遅延行為に付き合うつもりはもうない。バルトラー、もういいぞ。さっさとそいつを跪かせろ! 従者の奴らは殺しても構わん‼︎」
命じられたバルトラーは、その表情を引き締めて槍を構える。
だが、アーノルドは耳に残ったその名に疑問の声を上げる。
「バルトラー? やはりその槍にその名前……貴様、『魔公槍』のバルトラーか? 亡国の元英雄がなぜそのような屑の従者などやっている?」
バルトラーは数十年前、まだこの者達の嘗ての国、バラニード王国が健在であった頃、隣国のエドルフィン王国との戦争の立役者。
その槍一本で戦争を終わらせたと言っても過言ではない稀代の英傑。
元々平民であったというバルトラーを国が放っておくわけもない。
紐付きにするべく爵位を与えたはずだ。
だが、爵位を得たという情報はなかったし、その後の足取りも不明ときた。
だからてっきり国はバルトラーを消すことを選んだのかと思っていた。
過ぎたる力を持つ者は権力しか持たぬ者には恐怖以外の何者でもない。
民衆の支持を得て、いつ叛逆して来ぬとも限らないからだ。
王たる者がその恐れを飲み込む度量を持ち、そうした者達を御せる胆力を持っていれば良いが、持っていなければ待っているのはその権力による謀殺のみ。
真相は闇の中といったところであったが、目の前にその件の人物が生きているとなればその当時の歴史に興味が湧くというもの。
「……その通りでございます。まさか今の時代に私のことが分かる者がいるとは思いませんでしたが」
バルトラーはその目をより一層細めてアーノルドを見据えた。
「その名に加え、それほど特徴的な槍ならば見てわからんということもあるまい」
赤をベースとした簡素な槍であるが、持ち手が異様に太く先端に行くほど細くなっている。
そして槍の柄の部分が何かの模様のように窪んでいるのだ。
それはバルトラーが戦争で愛用していたという神槍と謳われた『ガラジュボルン』の特徴に一致していた。
「それで? なぜお前のような者がその屑の執事などしている? あれほどの活躍ならば爵位の一つでも貰えたであろう?」
「それにお答えする義理はございませんが」
バルトラーは既に槍を構えている。
これ以上ハイルの命を遅らせるつもりはないとばかりに、その身に闘気を滾らせている。
ならば、やることは一つ。
「はっ、ならば、力で以て聞き出すとしよう」




